六羽の白鳥 6 国王様には、一目で恋した娘がおりました。 さる伯爵のお見せになった令嬢の絵姿を見て、恋に落ちてしまったのです。 その令嬢は、何がしかの事情があって隠されて育ったという話でした。優しい気性の娘だと伯爵様からお聞きになりました。栗色の髪、明るい茶色の輝く瞳。目映いほど美しい笑顔。その一つ一つに、国王様は魅せられてしまったのです。 国王様はその娘を妻に迎えようと思いました。 伯爵様から令嬢が亡くなったという知らせを受けたのは、その翌日でした。伯爵様も三日後に亡くなってしまいました。 なぜ令嬢が死んだのか、どのようにして死んだのか、国王様には一切知らされませんでした。 国王様の恋は、はじまる前に終わってしまったのです。 その恋は、国王様の心を深く深く傷つけました。もう二度と女人を愛しなどしないと、国王様はお決めになりました。 二年が経ちました。 国王様のもとには、ひっきりなしに縁談が持ち込まれます。隣国の王女様、公爵家の御令嬢、大商人の一人娘。ご自分の机の上に山と積まれた絵姿の束を、国王様は一度も開くことなく従者に捨てさせておしまいになるのでした。 国王様は、弟君に王位を継がせようとお考えになりました。母君のお言葉も耳に入れず、弟君のご婚約を進めさせなさいました。 その矢先でした。 国王様がかつて恋した乙女に瓜二つの少女と出会ったのは。 国王様は驚きました。 その娘は、西の森の入り口に一人で住んでいました。親も兄弟もいないらしいのです。娘は言葉が話せません。国王様が何を言っても、笑いも泣きもしないのです。 心を病んだ娘なのだろうかとも思いました。国王様は、そんなことをお考えになったことを、後に後悔なさいました。 気立てのいい娘でした。笑いこそしませんが、彼女は楽しいときには目を輝かせてくれます。泣きこそしませんが、悲しいときには一点を見つめて口唇をきゅっと噛み締めています。 国王様は娘のもとに通いました。一月に一度だけの逢瀬は、国王様の心の安らぎになっていました。 出会ってからちょうど半年が経った日、国王様は、娘に恋を打ち明けました。 確かに、少し性急だったかもしれません。普段は饒舌な国王様でしたが、色事に関しては不器用な方です。物言いが直截過ぎて、驚かせてしまったかもしれません。 ですが、娘もご自分と同じ気持ちでいてくれているという確信があったのです。娘の言葉にできない思いやりを、微笑みに劣らぬ美しい表情を、涙にもまさる心の吐露を知っているつもりでいたのです。 娘は国王様の告白に怯えました。 国王様は傷つきました。 他に好いた男がいたのだろうか。それとも、自分はただの友人でしかなかったのだろうか。もうどちらでもいいとお思いになりました。 そして一月が経ちました。国王様は、娘の家へ行くか行くまいか迷いました。 今日行かなければ、もう二度と娘と会うことはできないでしょう。しかし、行ってしまえば、娘の怯えた顔を見ることになるかも知れないのです。 国王様は迷いました。正午まで迷って、国王様は厩舎へとお出でになりました。そして、娘の住む森へと愛馬を走らせました。 もしも今度拒まれたなら、永遠に娘に別れを告げてしまうおつもりでした。そして、ほんの僅かの幸せな思い出を糧にして、生きていこうとお思いになりました。国にとって関係を結んで有利な家から妻を迎え、子を為すおつもりでした。 国王様はいつものように、扉を叩きました。 応えはないかも知れないと、国王様はお思いになりました。 しかし、しばらくしてゆっくりと扉が開かれたのです。 娘が立っていました。美しい明るい瞳をした、娘が立っていました。 艶のある栗色の髪を乱して、少し憔悴した様子でした。 国王様は娘の名を呼びました。 娘は目を細めます。華奢な手が国王様の顔に伸ばされました。国王様は、どうしてか、身動き一つとることができなかったのです。 顎を僅かに逸らし、娘が細い腕を国王様の首に回します。 娘は目を閉じ、国王様にくちづけました。 娘の口唇の甘く柔らかな感触が、国王様の口唇に鮮やかに残りました。 それも、ほんの一瞬のこと。娘は熱く潤んだ瞳でふたたび国王様を見上げました。国王様は、娘が泣いてしまうのだと思いました。しかし、娘の美しい目の縁から、涙は零れませんでした。 娘は国王様に背を向けました。そして、扉を閉めてしまおうとしました。 これが二人の別れになってしまうと、国王様は悟りました。 一瞬のくちづけを最後に、娘はもう二度と、国王様のためにこの扉を開けてくれることはないでしょう。 娘に嫌われているのならば、彼女のことは忘れてしまうご覚悟をお持ちのはずでした。 なぜ。 なぜ、娘はくちづけを許しながらも、国王様に背を向けたのでしょうか。 なぜ、国王様を想ってくれているはずなのに、拒み通すのでしょうか。 なぜ、あんな切ない瞳で国王様を見つめたのでしょうか。 これでは終われない。これでは納得することなどできない。国王様はお思いになりました。 身分の差が彼女にそうさせるのでしょうか。そんな垣根は容易に取り払えるのだと、国王様は信じていらっしゃいました。死によって離別を強いられたあの儚い恋のことを思えば、どんな障害さえも、国王様の情熱の前には無力だったのです。 国王様は、いつも傾いていて仕方のない家の扉を開きました。 娘が振り返ります。 国王様は、娘の身体を引き寄せました。 左腕で小さな頭を支え、右腕を腰に回します。 抗おうとする腕を掴んで、国王様は娘の口唇にご自分の口唇を重ねました。娘はあきらめてしまったのか、やがておとなしくされるがままになりました。 さきほどの、触れるだけのくちづけとは違います。 国王様は熱情に任せ、娘の薄い口唇を吸いました。舌を忍び込ませると、娘は薄く口唇を開いて受け入れました。縮こまっている娘の舌を引きだし、絡めあわせます。 娘はたまらなくなったように、弱々しく首を振りました。その仕種さえも愛しくて、国王様はさらに深く口唇を重ねあわせます。 極上の美酒を過ごしたときのように、国王様はくちづけに酔いしれました。 娘の手が、国王様の胸にそっと添えられています。 国王様はその手にご自分の手を重ねました。 「何がおまえをとどまらせるのだ?」 くちづけの合間に、国王様はお尋ねになります。 「愛している」 ためらうことなく国王様は囁きます。 「私は、おまえがいなければ生きていけない。私の妻になっておくれ」 国王様は、腕の中で震えている愛しい娘を見下ろしました。 娘はゆっくりと目を閉じました。 国王様の胸に、そっと頬を預けました。 娘はあのくちづけで全てを終わらせてしまうつもりでいたのです。 愛している、忘れないでくれと、叫ぶように告げられたあの冬の終わりの日から、娘は男のことを忘れようと努めました。もしも一月後に彼が自分のもとを訪れたら、自分の想いを伝えなければならないと想いました。彼が来なくてもかまわないのだと娘は自分に言い聞かせました。そう思いながら、彼の訪れがないことに怯えていたのです。 娘には言葉がありません。 愛を告げるのに言葉は必要なのかと問われれば、以前の娘ならば頷いていたことでしょう。しかし、この男と過ごした半年の間に、言葉などなくてもかまわないということを、娘は知りました。だから、それを教えてくれたこの男に、最後に応えようと思ったのです。 それでおしまいにするつもりだったのです。もう二度と会わない、一度だけのくちづけを大切な思い出にして、イラクサの衣を編む暮らしに戻ろうと思っていたのです。 男の姿を見て、その低い声を聞き、抱きしめられて、娘は自分の覚悟がどれだけ脆かったのかを知りました。 深いくちづけを受けて、この瞬間に死んでもいいとさえ思ったのです。 この人が愛しくてたまらないと、心が泣くのです。 国王様は、娘に囁きました。 「この家の中のものを、みな私の城へ持ってこさせよう。森の動物たちには詫びねばならないね。愛しいおまえを連れていってしまうのだから」 娘は目を見開いて国王様を見上げました。国王様が、娘の代わりに微笑んでくださいました。 今まで良家の子息だと信じていた男が、国王様だったのだと知らされて、娘はたいそう驚きました。しかし、考えてもみれば、思い当たる節がないわけではありませんでした。柔らかな物腰や尊大なくせに嫌みではない言葉づかいは、国王様にしか許されないものだと思ったのです。 国王様は、娘のために小さな部屋を用意してくださいました。国王様はそこに、編みかけのイラクサの衣や、糸にされたイラクサの束を運び込ませました。 娘は子爵の養女になりました。そして半年の後、国王様は婚礼の儀を挙げられたのです。 その晩国王様と娘は、閨房の中で半年ぶりに顔を合わせました。古風なしきたりに従って式を行なうために、花婿と花嫁は婚儀が終わるまで顔を合わせてはならないのです。 娘は、大きな寝台の中で国王様を待っていました。 これから身に起こることは、子爵家にいたときにそれとなく教師に教わってしましたし、書物で見聞きしたこともあります。それでも震えが止まりません。夏が終わったばかりだというのに、娘は凍えるように、白い絹の寝巻の中で己の身を抱きしめていました。 扉の開く音がして、夜着を纏った国王様が現れました。 国王様は娘に紅茶を勧め、ご自分も杯を飲み干しました。 「怖いか」 娘は微かに頷きました。国王様は寝台の上で膝を抱えている娘の肩を抱き、顔を仰向かせてくちづけます。娘の緊張をほぐすかのように、優しく背をなで下ろします。 「私に任せていなさい」 ゆっくりと寝巻を脱がされて、娘は羞恥に目もとを赤く染めました。そんな娘の様子を見て、国王様は微笑みます。娘は目を閉じて、うっとりと国王様に身を任せます。 柔らかい舌が乳房の上を這ったとき、娘は押し殺したような声をあげました。 国王様はその甘美な響きに魅了されてしまったのです。これまでに出会ったどんな女人のそれよりも澄んでいて、聞いていて切なくなるような声。一言も口をきけない娘の、感極まった声。 濃厚な愛撫が、無垢な娘の身体にこれ以上ないほどの悦びを与えました。何度も何度も名を呼ばれ、娘はたまらなくなりました。 国王様が慎重に娘の中に入り込んできたとき、娘は破瓜の痛みに眉を寄せながらも、忍び泣くようなあえぎを漏らしました。その甘い声に衝き動かされて、国王様はまるで少年のように行為に夢中になっていました。 嵐のような時間が過ぎ去りました。娘は国王様の腕に抱かれながら微睡んでいました。温かくて温かくて、娘は何もかもを忘れてしまいそうになりました。 国王様は娘の身体を優しく横たえました。ご自分は寝台を抜け出して夜着をまとい、お隣の部屋へ向かわれてしまいました。しばらくして、国王様が戻って来られました。手に何か紙のようなものをお持ちです。 娘は掛布団で胸元を隠しながら身体を起こしました。国王様が娘の隣に腰掛けます。 「ごらん」 紙は女性の絵姿でした。 栗色の髪に茶色の瞳、淡いピンクのドレスを着た幼い少女の肖像画です。 娘ははっとしました。 この絵に見覚えがありました。詩人になりたいと言っていた兄が手習いに描いた絵に、とてもよく似ていたのです。この絵に描かれているのは、ほかでもない娘自身なのです。 「昔、おまえによく似た知り合いがいると言っただろう? 今だからこんなことを話すことができるんだよ。この人は伯爵家の令嬢で、私は彼女に一目で恋をしてしまったんだ。三年前に亡くなってしまったのだけれど……。ほら、並べてみるとそっくりだ」 この絵の少女は、娘です。国王様が懐かしそうに語っていらっしゃるのは、今国王様の目の前にいる娘なのです。 「そんな顔をしないでおくれ。彼女のことはもう思い出なのだ。確かに初めはこの絵に似ているからおまえに興味を持った。しかし、今はおまえだけを愛しているのだよ」 国王様は心の底からこの妻を愛しく思っていました。だからこそ、かつての恋を打ち明けることができたのです。そうしなければならないと、実直な国王様はお思いになったのでした。 国王様は、娘の頬に口唇を寄せます。深いくちづけを続けながら、娘の滑らかな肌を指先でたどりはじめます。 いっぽう娘は冷水を浴びせかけられたような心地でおりました。 私は私自身の身代わりなのだ。 この方が愛しそうに名を呼んでいるのは、私であって私ではない娘なのだ。 これは私なのだと、私が伯爵令嬢なのだと、娘には説明することができません。今ほど、自分に言葉がないことを歯痒く思ったことはありませんでした。 柔らかな寝台に押し倒され、身体をまさぐられて、娘の身体は次第に熱くなってゆきます。身体は国王様の愛撫に応えます。 しかし、娘の心は冷えたままなのでした。 娘は、一日も早くイラクサの衣を編み上げて、国王様と言葉を交わせるようになりたいと思いました。そのために、昼も夜も必死でイラクサの衣を編み続けました。 国王様はこのうら若いお妃様をとても大切になさいました。 一年後には、玉のような男の子が生まれました。国王様はいっそう娘を寵愛なさいます。 国王様は赤子にとても素晴らしい名を付けてくださいました。娘は、自分の子供の名さえ呼ぶことのできない我が身を辛く思いました。無邪気に微笑む赤子に、笑み返すことさえできないのです。 仲睦まじいご様子の国王夫妻を、快く思っていない者たちもおりました。 お妃様は子爵家の令嬢という肩書きを持っているとはいえ、本当は素性の知れぬ身でありました。 言葉を話せぬということは国王様からお聞きしていた通りなのですが、彼女が笑う姿を見た者も、一人としておりません。 国王様に自分の娘を嫁がせたいと思っていた貴族たちは、彼女のことをとても疎んでおりました。 その最たる人物こそ、国王様の母君でいらっしゃる王太后様でした。 溺愛する息子を奪った、どこの馬の骨とも知れない娘。その娘は、喋りも笑いも泣きもしない不気味な女で、あまつさえ跡継ぎの男の子まで産みあげたのです。 王太后様はこのお妃様が魔女なのだと信じて疑いませんでした。何か怪しい力を以て、国王様を虜にしてしまったのに違いないと。 お妃様が自分の子供を食べてしまう女だと知れたら、いくら国王様でも目をお覚ましになるだろうと、王太后様はお考えになりました。王太后様は、生まれて半年にもならぬ王子を侍女に攫わせました。 愛らしい乳飲み子を目の前にして、王太后様のお妃様への憎悪は薄まりました。 林檎色の頬に澄んだ緑色の目、金茶色の巻毛をした赤子は、国王様の幼少の頃にそっくりです。 はじめは魔女の子供など殺させてしまおうとお思いになっていた王太后様ですが、王子のあまりの可愛らしさに心打たれてしまいました。赤子を抱えた女を金で雇って、この男の子の世話をさせることにしました。 もしもこの赤子がお妃様にそっくりな女の子だったらこんなことはなかっただろうと、王太后様は歯噛みなさるのでした。 そして、お妃様が王子を食べてしまったのだと噂を流しました。 噂はあっという間に国中に広まり、国王様の耳にも届きました。 しかし、国王様はそんなものははなから信じていませんでした。 赤子がいなくなってしまってからの娘の憔悴ぶりが、あまりにもひどかったからです。 食事も喉を通りません。決して涙を見せることはありませんでしたが、一日中ゆりかごの側に座っているのです。眠ることもできない娘の身体は弱り切っていました。 国王様は、ご自分の私兵に命じて、いなくなってしまった赤子を捜索させました。 既に娘の身体には小さな命が宿っていました。このままでは無事に出産することは無理かもしれないと、侍医に助言されました。 「あの子はきっと元気でいる。だからおまえは、自分とお腹の子のことだけを考えなさい」 国王様は、毎晩そう言って娘を慰めます。一人では食事も摂れないでいる娘に匙を持たせて、粥を食べさせることもありました。 国王様は、娘のことを疎んじている者たちに心当たりがありました。しかしご自分の母君にまでは考えが至りませんでした。 娘は、およそ二日にもわたる難産のすえに何とか女の子を産みました。それでも国王様と娘の心は晴れません。小さな女の子を抱いていると、攫われて半年以上経つ男の子のことを思い出さずにはいられないのです。 ところが、二月の後に、ふたたび女の子が攫われてしまったのです。 |