六羽の白鳥





 男は、一月に一度、必ず娘のもとを訪れるようになりました。
 彼は、決まって何かしら手みやげを携えてきます。それは野の花であったり、葡萄酒であったりしました。彼は、照れくさそうな笑みとともに、娘にみやげを差し出します。
 彼は娘にいろいろな話を聞かせます。それはとりとめのない噂話であったり、彼自身の話であったりしました。娘は熱心に聞き入ります。罪のない愚痴や明るい冗談は、娘にとってとても楽しいものでした。
 森に出て、散策をすることもありました。彼が娘の畑の世話を手伝ってくれたり、泉で水遊びをしたりすることもありました。
 日が暮れると、男は帰っていってしまいます。娘はそれを見送ります。そしてその晩には、次の訪れを心待ちにしていました。
 男は、娘が何者なのか、なぜこんな所に住んでいるのかを少しも尋ねません。どうやら、娘が父を亡くした森番の娘であると思っているようでした。
 娘も、男が何者なのか、知りたいとは思っていませんでした。
 しかし、彼が高い身分を持っている青年なのだということは、うすうす感じられました。身なりや物言い、纏う雰囲気。そういったものの一つ一つが、街で出会う人間とは明らかに異なっていたのです。
 娘は、男が何者なのか、知りたいとは思いません。
 ほんの少しの優しい時間をこの男とともに過ごして、そして帰っていく男を見送る。娘はイラクサの衣を編み、野菜を作る生活に戻る。
 そんな暮らしがいつまでもつづけばいいと、娘は思っていました。
 男には、娘が泣きも笑いもしないことを訝しく思ったことがあったのかもしれません。しかし、彼がそんな様子を表に出したことはありませんでした。
 娘が笑いたいと思ったときには、男もその浅黒い顔に笑みを浮かべてくれていました。
 初めて彼と出会ってから、半年が経った日のことでした。
 冬の終わりのことでした。
 冷たい清らかな風の吹く朝、彼は蜂蜜の小さな瓶を持って、娘の家を訪れました。
 いつものように娘と語らい、料理を食べました。日が落ちる頃になると、いつものように彼は娘にそろそろ帰ると言いました。
 冬の夕方の空気は、肌を刺すように冷たいものです。娘は上着の襟を引き寄せて、寒さをこらえるのでした。
 彼が馬に鞍を取り付け始めました。娘はその様子を見守ります。そのときだけは、娘は男に知られずに、男の姿を間近で見つめることができるのです。
 また一月、娘はイラクサの衣を編んで、白鳥たちと暮らすのです。
 娘は、この男の姿を、目に焼き付けようとしました。
 鞍を取り付けおえて、男が娘の顔を見ました。
 娘は、男がいつものように寂しそうに笑うのだと思いました。
 しかし、男は笑いませんでした。
 その代わり、娘の身体をきつく抱きしめました。
 娘の背がしなるほど強い力です。痛いとは思いましたが、決して嫌悪は感じませんでした。
 父上の胸に飛び込んだときの、温かい感じとは違います。娘は、全身が熱くなっていくのを感じました。
 彼は苦しげな声で、娘の名を呼びました。
 自分の背中に回された男の手が震えているのに、娘は気がつきました。だから、この男が戯れに娘を掻き抱いたのではないことは知れました。
 男は身体を離し、娘の足下に跪きました。娘の手を取り、娘のてのひらに口唇をつけます。それは懇願のくちづけでした。
「私の妻になってほしい」
 男の緑色の目が、娘を真っ直ぐに見上げています。
 娘は、ただ震えるばかりでした。
 娘が以前の娘であったなら、迷わず、喜んで、と返事をしていたでしょう。今娘が誰より恋しく思っているのは、この男なのですから。
「おまえが何者であっても、私はかまわない。もしもおまえが私と同じ気持ちでいてくれているのなら、答えてほしい」
 娘には、答えることができませんでした。
 この人が誰であってもいいのだと、娘は思っていました。
 ともに過ごした僅かな時間こそが大切でした。彼の傍らにいたことが、娘にとっての何よりも幸せだったのです。
 娘は目を逸らしました。
 男は、痛いほど真摯な目をしているのです。
 娘は男の手を振り解きました。家の中へ逃げ込もうと思ったのです。ですが、それはかないませんでした。男が娘の腕を掴んだからでした。
 娘は怯えた瞳をしています。男は眉を寄せました。
 男はもう一度、低い囁くような声音で、娘の名を呼びました。胸が締め付けられます。喜びが胸に溢れてくるのです。
 しかし、娘には男を拒むことしかできないのです。
 イラクサの衣を編み終えてしまうまで待ってほしいと、そう彼に伝える言葉が、娘にはありません。
 男は、娘の顔を見つめます。
 娘の惑いを見て取ったのでしょうか。
 男は目を伏せました。
「忘れないでくれ。私はおまえを愛している」
 彼はそれだけ言って、娘の腕を離しました。そして、馬に跨がって、去っていってしまいました。
 娘は、家の戸の前に立ち尽くしていました。日が落ちて寒さは増すばかりだというのに、娘はずっと男の去っていった方向を見つめていました。
 彼にくちづけられたてのひらだけが、ひどく熱を持っていました。
 娘は頼りない足取りで家の中に戻りました。
 その夜も、娘はイラクサの衣を編みました。
 娘の足下には、六羽の白鳥が身体を丸めていました。
 夕方のことが思い出されて、娘は時折手を止めてしまいます。小さくため息をついて、また手を動かします。
 あの男のことは忘れてしまおうと思いました。たった半年、ほんの短い時間を一緒に過ごしただけなのです。忘れるのは簡単だと思いました。
 イラクサの衣を編むと決めたことを、娘は後悔していません。これからも決してしないだろうと、娘は思っていました。
 しかし、兄たちとともに自分も白鳥にされていればよかったと、娘はこのとき初めて思ったのです。そうすれば、こんな苦しい物思いはせずにすんだのに、と。
 蝋燭の灯が、ふっと消えました。隙間風が入り込んできたのでした。
 もう今日はおしまいにしてしまおうと、娘は思いました。
『思い悩んでいるようだね』
 兄の声でした。
 娘の目が闇に慣れはじめます。白鳥が一羽、卓の上に乗っているのが見えました。
 白鳥に変わってしまった兄が、なぜ語りかけてくることができるのだろうと、娘は初めは不思議に思ったものです。月の明るい夜にだけ、力を振り絞れば言葉を発することができるのだと、兄が教えてくれました。
『おまえは、あの方を好いているんだろう?』
 娘は編棒を握り締めます。
『優しい方だね。私たちを撃とうとしていた仲間を、厳しく戒めてくださった。おまえも、あの方といるととても楽しそうに見えたよ』
 娘は小さく頷きました。
『あの方になら、おまえを任せられるよ』
 その言葉の響きは、とても甘いものでした。そして、同時にとても悲しいと思いました。兄たちの覚悟が悲しかったのです。
 もしも自分があの男の妻になってしまったら、たった一人でイラクサの衣を編むことなど許してはもらえないでしょう。そもそも、彼は身分高く生まれついた人に違いないのです。森でのひっそりとした暮らしを、彼の家で続けるわけにはいかないでしょう。
『あの方のもとに嫁いだっていいんだよ。おまえが、自分の幸福のために私たちを犠牲にしてしまうと思うのは、見当違いというものだ。だって私たちは、私たちの幸福のために、長い間おまえを犠牲にしてきてしまったんだからね』
 兄の言葉が、娘の胸の中に強く残っています。
 娘は目を閉じました。暗闇の中に、愛しい男の笑みが浮かびました。
 伯爵家を継いで二年になる領主様のもとに、国王様からの書簡が届きました。
 儀礼的な挨拶の後に、御令嬢の墓に参りたい、と書かれているのです。
 若い領主様には、奥方様との間に娘などおりません。先の領主様であった叔父に娘がいたとは聞いたことがありません。
 領主様には、何のことだかさっぱりおわかりになりません。それで、奥方様にお尋ねになりました。
「いったいどういうことでしょう?」
 奥方様は、美しい筆跡の手紙を、二度ほど読み返しました。
 以前にも、同じようなことを誰かに尋ねられたような気がします。確か、相手は仕立て屋でした。そのときは、相手が何か勘違いをしているのだろうと思って取り合いませんでした。
 ですが、これは国王様からの書簡です。無視するわけにはまいりません。署名と本文の筆跡が同じなのです。国王様が御自分でしたためられた手紙でした。
 奥方様は二年前の、あの残酷な出来事に思いを巡らしました。呪いで白鳥に変えてしまったのは、六人の青年たちでした。そう、青年たちでした。
 しかし、領主様が死の間際、熱にうなされて繰り返し繰り返しお呼びになっていたのは、女の名ではなかったでしょうか。優しい響きを持った、女の名ではなかったでしょうか。
 奥方様は、それは亡くなった先の奥方様の名なのだろうと思っていました。
 もしも、その名の持ち主が、奥方様の見逃した、もう一人の子供であったなら? そう、全て辻褄があうのです。
 領主様は、子供たちを返してくれ、とおっしゃいました。女の名を呼び続けられました。しかし、奥方様が呪いをかけて姿を変えてしまったのは、六人の青年たちだけなのです。
 奥方様の背筋に、冷たいものが走りました。私の誇りを傷つけた、あの男の娘が、ひょっとすると生きているのかもしれない。娘は兄たちの呪いを解くために、無言の行を己に課し、イラクサの衣を編むかも知れない。それどころか、私に復讐することを考えているかもしれない。奥方様はそう思いました。
 奥方様は、迷いの森に人を送りました。御屋敷を探させようとしたのです。そこにまだ娘は住んでいるかも知れません。しかし、誰一人として御屋敷に辿り着くことはできませんでした。
 奥方様は焦りました。領地に触れを出して、怪しい女を捜させました。しかし、それらしい女は見つかりません。
 奥方様は、毎晩悪い夢を見るようになりました。
 六羽の白鳥が六人の青年へと姿を変え、奥方様を捕えに来るのです。網の中で無様にもがく奥方様を、美しい娘が冷ややかな目で見下ろしています。そして娘が甘い声で呪いの言葉を囁くと、奥方様は、カラスに姿を変えてしまうのです。
 奥方様の悪夢は続きました。
 若く聡明な国王様が、笑いも泣きも喋りもしない、美しいお妃様をお迎えになるまで。



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