六羽の白鳥





 娘は、一言も喋らなくなりました。
 娘の薔薇のつぼみのような愛らしい口唇から、鈴の鳴るような澄んだ声を聞くことはなくなりました。口元に笑みさえ浮かべることはありません。どれだけ苦しかろうが悲しかろうが、涙を零さなくなりました。
 白鳥たちは、深い深い森の奥から、娘を連れだしました。空駆ける翼を得た兄たちは、娘を背中に乗せて、遠くへ遠くへ飛びました。西へ西へと飛びました。
 娘はそこで小さな森を見つけました。その森は、生まれ育ったあの森に少しだけ似ていました。
 イラクサの繁る、明るく美しい森でした。
 娘は小さな家を見つけました。かつては、森番の家族が住んでいたという家です。廃虚となっていて、壁が煤けて埃だらけだったのを、どうにか人の住めるようにしたのです。
 娘の家の中には、小さな竈と卓、椅子がありました。それに、木の枠に布を張って干草を積み、白い布を被せただけの寝台。娘の生まれ育った御屋敷とは比べるまでもなく、貧しく小さな家でした。
 まず娘は、ここで暮らしてゆくために、絹のドレスを売りました。華美なものではありませんでしたが、丁寧に仕立てられたいい品でした。そうして得たお金で、鍋や皿を買いました。  娘はすぐに、森の動物たちと仲良くなりました。
 娘は、朝は家の裏の畑の世話をし、昼は時折街に出て畑の野菜を売りました。僅かなお金で、日々の暮らしの糧を得ました。
 不慣れな仕事はたくさんありました。しかし、もっとも大変なのは、イラクサの衣を編むことなのでした。刺の生えたイラクサの茎を、素足で踏んで柔らかくしなければ、イラクサの衣を編むことはできません。
 娘は朝も昼も、夜は目の覚めているかぎり、イラクサの衣を編み続けました。
 その柔らかく白い足を血に染めて、イラクサの衣を編みました。肉がえぐれてたまらない痛みを生むこともありました。零れそうになる涙を、娘は必死にこらえました。
 二年の時が過ぎました。
 娘は十六になっていました。
 顔立ちから幼さは抜け、体つきは丸みを帯びて、娘はますます美しくなりました。華麗なドレスを身に付けることはなくなりました。質素な衣服に身を包み、荒れた手をして、日に焼けても、娘は美しかったのです。
 そして娘の側には、いつも六羽の白鳥がたたずんでいました。
 もう、イラクサの刺で指を傷つけることは希になっていました。娘の粗末な寝台の下には、三枚のイラクサの衣が、大切にしまわれていました。あともう二年で、六人分の衣ができあがるはずです。
 六人の兄たちのためにイラクサの衣を編むことを決めたとき、娘の心を変えようと必死になったのは、他でもない兄たちでした。
 兄たちは今でも、辛くなったらやめてしまえと、娘に言います。
 娘はそれを聞くたびに、悲しそうな顔をするのでした。
 娘は兄たちを愛していました。そして兄たちが自分を愛してくれているということを、娘は誰よりもよく知っていました。だから、娘はきっと耐えられると思いました。
 ある、静かな静かな夜でした。  聞こえるものといえば、壁と扉の隙間から入り込んでくる、生温い風の音だけ。  娘は、卓の上の蝋燭に灯をともし、イラクサの衣を編んでいました。  味のいい野菜を売りに来る娘のことは、街でもちょっとした噂でした。  育ちの良さそうな娘で、ちょっといないくらいの美貌を持っているのが、一人で市に出ているのですから、目立たないはずはありません。  しかし、娘の野菜を買ったことのある者でも、娘の声を聞いたことはありませんでした。
小さな森の外れに住んでいるということを知っている者はおりません。
娘の家を訪れる者はいませんでした。  だから、娘は、いつも少しばかり傾いている扉が乱暴に叩かれたことに驚いたのです。  娘は扉を開けました。  立っていたのは、見知った顔の青年でした。街の大金持ちの息子です。
 売れ残った野菜をまとめて買ってくれたり、貴重な塩を安く分けてくれたりと、いろいろと親切にしてくれている男でした。
 しかし、ここに住んでいることを知っているはずがありません。娘は教えたことがないのですから。
 男は娘の肩越しに、家の中を覗きました。
「一人で暮らしているというのは、本当なんだな」
 娘は首を傾げました。
「入れてくれ」
 娘は迷いました。なぜこの男がここに来たのかわかりません。しかし、戸口に立たせたままなのもどうかと思います。
 娘が黙ったままでいると、男は、苛立ったのか、つま先で地面を鳴らしました。娘の知っている、この男のいつもの様子とは違います。
 男は、娘を押し退け、強引に家の中へ入りました。狭い家の中を見回し、男は言いました。 「つましい家だ」
 その口振りは、娘を嘲っているかのようでした。そのようなことを言われる謂れはありません。
 男は一つしかない椅子に腰掛けました。懐から何かの小さな包みを取り出し、娘に側に来いと言います。
 男は、布の包みを開きました。差し出された手の中には、銀の指輪がありました。
「受け取ってくれ」
 男は、熱のこもった声で言いました。
 娘は目を険しくして男を見下ろします。
 娘は、以前の御屋敷での暮らしと比べれば、言うまでもなく困窮した暮らしをしていました。だから、不器用なかたちではありましたが、娘を援助してくれていたこの男に好意を持っていたのです。
 ですが、こんな物を受け取る理由は、少なくとも娘にはありませんでした。
 娘は、男の手をそっと押し戻しました。
 男が、顔を僅かに歪めます。
 はっとして身を引きました。しかし、遅かったのです。
 男の手が、娘の肩を捕えました。
 男の、おそろしいほど真摯な目が間近にあります。
「街で暮らしたいとは思わないのか? おまえがうなずきさえすれば、おれはおまえに今よりずっといい暮らしをさせてやれるんだ。
 こんな汚い小屋はおまえに相応しくない。おまえだって、好き好んでこんな所に暮らしているわけじゃないんだろう? おれは、おまえのために立派な屋敷を買ってやるぞ」
 娘は首をうち振りました。
 そんなものはいらないと、ただ首を振りました。
 男には、娘の答えが信じられませんでした。今まで、欲しいと思って手に入らなかったものは何一つとしてなかった男です。当然のように、娘が笑って頷いてくれると思っていました。  次の瞬間、娘の身体は、部屋の隅の寝台に突き飛ばされました。娘の身体を受けとめて、粗末な寝台が軋みました。
 男が娘の上に乗り上げてきます。両手首を掴み、強い力で寝台に押しつけます。
 娘は抗いました。ですが、掴まれている腕は少しも動きません。手首が痛いほど締め付けられます。
 男は、娘の首筋に顔を埋めました。柔らかい肌をきつく吸いました。
 娘の口唇から、か細い悲鳴が漏れました。
 男は顔を上げました。
 初めて聞く娘の声でした。とても甘い、不思議な響きを持った声でした。男は、もっと聞きたいと思いました。
 男が娘の顔を見つめ、ため息をつきました。口唇を指先でなぞります。
 恍惚としている男の隙をついて、娘はするりと男の身体の下から逃れ出ました。家から飛びだし、夜の森へと駆け出しました。森はとても暗かったのですが、娘は恐ろしいとは思いませんでした。
 追いかけてくる足音が聞こえました。娘は振り返りませんでした。振り返らずに走りました。
 森に足を踏み入れた男は、森の木々の拒絶にあいました。木の葉のざわざわと振れあう音が、まるで低い唸り声のように聞こえました。
 それでも娘を追おうと進めば、たくさん蛇が足に絡みつき、鳥たちが男の身体中をつつきます。
 そして男は、この季節には見られるはずのない、白鳥の姿を見たのです。翼を広げて男に襲いかかってきた六羽の白鳥が、よってたかって男を引っ掻き回します。
 男はあわてふためいて、やっとのことで森を抜け出すことができたのです。
 怯えながら家に帰ってきた娘が見たものは、目茶苦茶にされた室内でした。椅子と卓は倒され、寝台の干草は床の上に散らばっていました。
 娘は慌てて寝台の下を探りました。この二年間で編み上げた、三枚のイラクサの衣を大切にしまっておいた場所なのです。
 イラクサの衣は無事でした。娘は三枚の衣を抱きしめました。
 いつの間にか、六羽の白鳥が娘の周りを囲んでいました。娘は腕の中のものを兄たちに見せました。
 一羽の白鳥が、娘の栗色の髪をくちばしで整えました。乱れた裾を直そうとしている白鳥もいます。みな、イラクサの衣よりも、娘の無事を喜んでいるかのようでした。
 大金持ちの息子は、ほうほうの体で街へ帰ったあと、娘のことをさんざんに罵りました。 喋らない、笑わない、泣かない娘。森の動物を操る魔女。街の人々は、そのように噂をしました。娘の野菜を買ってくれる者はいなくなりました。
 娘は傷つきました。兄たちは心配しました。しかし娘には、辛いと涙を流すことも、心配はいらないと微笑んでみせることもできません。
 娘はイラクサの衣を編み続けました。
 ある朝、娘は水を汲みに近くに泉へ行きました。
 娘は両手に桶を下げて歩いていました。水汲みは、ここに住み始めたときは、娘の一番不得手な仕事でした。力の無い娘には、桶を一つ運ぶことさえ難しかったのですが、今はもう平気になっていました。
 胸一杯に吸い込む、さわやかな夏の朝の空気。
 娘は、泉のほとりに、大きな馬がいることに気がつきました。娘の髪と同じ、栗毛の馬です。
 外された鞍が側に置いてあり、馬も近くの木につながれてありましたので、誰かがここに馬を留めて離れたのでしょう。無防備なことに、猟銃の一式まで、鞍とともに投げ出されています。
 こんな場所に朝早くから遠駆けに来るなどとは珍しいと、娘は思いました。
 馬は、澄んだ瞳で娘をじっと見つめています。娘は馬に近寄りました。そして、なめらかな首と背中、ふわふわとしたたてがみに触れました。馬は心地良さそうに、娘の華奢な身体に頬を擦り寄せました。
 そのとき、娘の背後で、かさかさという音が聞こえました。
 馬が嬉しそうに小さく鳴きました。
 振り返ると、そこには緑色の乗馬服を着た、若い男が立っていました。脇には小枝をたくさん抱えています。
 とても背の高い、逞しい体躯の青年でした。年の頃は二十五、六といったところでしょうか。金茶色の髪に、濃い緑色の瞳。乗馬服の色が、瞳にとても映えます。この馬の主なのでしょうか。問いかけようと思っても、娘には言葉がないのです。
 彼は、娘をじっと見つめています。まるで信じられないものを見たかのような顔をしています。
 娘は馬から離れました。咎められるようなことはしていないつもりでしたが、もしも彼が街の人間であったなら、魔女と呼ばれている女が自分の馬に触れていることを快くは思わないでしょう。
「おまえ」
 と、男は言いました。その声が低く、呻くような響きを持っていたので、娘は恐ろしくなって目を伏せ、後退りました。
「待ってくれ」
 桶を泉の側に置いたまま急いで立ち去ろうとする娘を、男は呼び止めました。
「おまえは、ここに住んでいるのか?」
 娘は頷きました。男は、ほっとしたような顔をします。
「私はこの森で迷ってしまったのだ。案内してくれないだろうか」
 照れたような笑顔を浮かべた男を、娘は、恐ろしいとは思いませんでした。街の大金持ちの息子は、姿を見るだけでもおぞましいのに。
 この男の物言いは、確かに尊大な感じがしました。しかし、高圧的ではないのです。人懐っこいような表情がそう思わせるのかもしれません。
 男は、木に繋いでいた馬を放しました。男が手綱を引き、娘の所へ近づいてこようとするのに、馬は動きません。男は強く手綱を引きました。
 娘には、この馬は水を飲みたがっているのだとわかりました。娘は桶に水を満たし、馬の口元へやりました。男は驚いた様子で、娘と愛馬を見ていました。
「これは、めったに人に懐かぬ馬なのに」
 男は感慨深そうに言いました。
 娘は、手綱を握る男が、手に怪我をしているのを見つけました。
 娘が手の甲を見ているのに気づき、男は、枝にひっかけた、大したことはないと言いました。しかし、娘は、森で作った傷を放っておいてはいけないということを知っています。触れるだけで肌を腫らしてしまうような類いの木もあるのです。
 娘は、少しためらいましたが、男の手を取りました。そして、娘の家のある方へ、男を誘いました。
「おまえ、口が聞けぬのか」
 娘は男を振り向かないまま、頷きました。
 そんな娘の後ろ姿を、男は見つめました。その緑色の瞳には、哀れみのような光は浮かんでいませんでした。ただ、懐かしいものを見るような、静かな熱のようなものが浮かんでいました。
 娘は、そんな男の様子を知りません。
 男と馬を、娘は迷うことなく森の入り口の家まで導きました。
 小さな、しかししっかりとした家を見て、男は感嘆の声を上げました。
「ここに一人で住んでいるのか」
 娘は答えかねました。決して一人というわけではないのです。六羽の白鳥がいつも娘の側にいてくれるのです。だから、娘は決して孤独というわけでも、女人の森での暮らしを危ういと思っているわけでもありませんでした。
 娘は男の手に薬を塗りました。森で採った薬草から作った薬です。白い布が見つかりませんでしたので、娘は寝台の敷布を少し裁ってきて、男の手に巻き付けました。
「ありがとう」
 男は言いました。明るい笑みとともに。
 娘は、それがとても好ましいと思いました。
 男は、娘が差し出したパンを噛りながら、言いました。
「私は狩りの途中なのだ。森の中で仲間たちとはぐれてしまった。この森には季節外れの白鳥がいると聞いたのだが、見たことはあるか?」
 冬にここにやってきた白鳥の群れは、春には北に戻っていってしまいます。だから、この季節に白鳥が森にいるはずなどありません。魔法のために白鳥へと姿を変えてしまった、娘の六人の兄たちを除いては。
 娘には、この男が兄たちを狩りにきたのだとわかりました。娘は表情を堅くしました。
「どうした?」
 男は娘を覗き込んできます。娘は首をうち振りました。
「白鳥など、知らぬか?」
 娘は首を振りました。男は首を傾げます。痛々しい、何かを否定しようとしているかのような娘の様子を不思議がっているようです。
「知っているのか?」
 男は目を細めました。
「知っているのだな。だが、狩ってはならないのだな?」
 娘は、なぜこの男が自分の言わんとしていることを理解できたのかと思いました。
「森で迷っている最中、私はたくさんの動物を見た。みな私を見て怯えていた。だが、おまえと一緒に歩いているときは、こちらに寄ってくるものさえいた。……おまえは、森に愛されているのだな」
 男は、水の杯を飲み干しました。
「狩りは止めにする。他の者にもそのように命ずる。安心いたせ。そのかわり」
 男は言葉を切りました。
「また、ここに来てもよいだろうか」
 男は優しい目で娘を見つめました。
 その目は、父上が娘を見るときの目とは違っていました。しかし、娘にはそれがわかりませんでした。
 男は、娘に自分の名を教えました。
「おまえの名を教えてほしい」
 娘には、自分の名を口唇に載せることもできません。
 娘はしばらく黙っていました。
「名前がないのか?」
 娘には、父上の付けてくださった、美しい名があります。娘には、自分の名を綴ってみせると言うことさえ思い浮かびませんでした。
 何という娘なのかと、男はあきれているかもしれません。娘は恥じ入り、俯きました。
 男が、何事かつぶやきました。
 娘は信じられずに、はっと顔を上げました。
 この二年間、誰にも呼ばれることのなかった、己の名を聞いたのです。
 この広い国の中で、娘の名を呼んでくれる人は、もういないはずです。風の噂で、父上がなくなってしまったことは知っています。だから、もう娘の名を知っている人は、兄たちの他にはいないはずなのです。
「美しい名だろう?」
 男は、誇るように言いました。
「もしもおまえに名がないというのなら、こう呼んでもかまわぬだろうか。おまえは、その、私の知り合いにとてもよく似ているのだ。これは、その知り合いの名なのだ」
 何という偶然なのかと、娘は思いました。
 娘は無邪気にも、この男が名を呼んでくれることがただ嬉しいと思っていたのです。
 偶然などではなかったのです。
 悲しい悲しい事実に、娘はやがて気づくことになります。




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