六羽の白鳥





 あの恐ろしい夜から、一日が経ちました。
 王都からお戻りになった領主様は、ご自分が何よりも大切にしていた鞠が、無惨にも泥に汚れ、潰れてしまっているのをご覧になりました。
 領主様は奥方様にお尋ねになりました。
「おまえ、これはどうしたことだい」
 奥方様は言いました。
「わたくしが落として壊してしまったのです。でも、そんなもの、いくらでも作り直させればよろしいではありませんか」
 奥方様は笑いました。
 その表情に、領主様はそら恐ろしいものをお感じになりました。子供たちに何かがあったに違いないと悟られました。
 その夜、領主様はお城の外に出て、いつものように鞠を地面に落としました。ひしゃげて汚れた鞠は、もうその魔法の力を失っているかのように思えました。
 この魔法の鞠だけが、子供たちの住む屋敷の場所を知っているのです。領主様でさえ、この鞠なくしてはあの森の中では、幼子に等しいのです。
 領主様は絶望にうちひしがれました。
 そして、奥方様の冷たい微笑みを思い浮かべなさったのです。
 鞠を壊してしまうだけで、満足するような奥方様ではないことは、領主様にはわかっていました。
 以前、爪の先でほんの少し奥方様の肌を傷つけてしまっただけの侍女が、突然に目の光を失ってしまったことを思い出します。それだけではありません。夜中に奥方様の寝室の近くでうるさく吠えていた犬が、次の日の朝にはころりと死んでしまっていたのを見つけたこともございます。
「お願いだ、もう一度だけでいいのだ。あの子たちのもとへ、どうか私を連れていっておくれ。お願いだ」
 領主様は、汚れた鞠をそっと撫でました。
 すると、少しずつ、鞠が動き始めたのです。
 最後の力を振り絞るかのように、領主様の必死の哀願に応えるかのように、魔法の鞠はゆっくりとゆっくりと転がりました。
 森の入り口は、かたくその門を閉ざしているようでした。
 領主様は、それでも鞠のあとを歩きました。
 魔法の鞠は、十四年間領主様を導きづつけた御屋敷へ、とうとうたどり着きました。
 いつもは明かりの漏れているはずの御屋敷は、暗く閉ざされていました。
 領主様が御屋敷の中へ足を踏み入れても、物音一つ聞こえません。
「おまえたち。愛しいおまえたち、出てきておくれ」
 領主様がお出でになると、一番に階段を駆け降りてきて、父上の逞しい胸の中に飛び込んでくる末娘。その様子を見守っている六人の兄たち。
 当たり前のような光景が、今はひどく遠いものに感じられました。
「どこへ行ってしまったのだ。おまえたち、姿を見せておくれ」
 領主様は、部屋の一つ一つに明かりを灯し、残らず御屋敷中を見回りになりました。どこかに誰かが隠れているのではないかと、淡い望みを抱きました。
「出てきておくれ。悪い冗談はやめておくれ」
 震える声で領主様はおっしゃいました。
 書斎の長椅子の上には、読み差しの本が広げられたままにしてありました。厨房には、首の切り落とされた鶏が、そのまま吊るされていました。
 まるで、魔法のために、子供たちだけが消え去ってしまったかのように思えました。
 そう、魔法のために。
「ああ」
 領主様は、呻かれました。
 子供たちはどこへ行ってしまったのでしょう。いいえ、いったいどこへ、連れ去られてしまったのでしょう。
 領主様は御屋敷の外へお出でになりました。 領主様は森をさまよいました。
 一晩中さまよいました。それでも、足跡一つ見つけることができませんでした。領主様はいつの間にか、御屋敷の前へ戻ってきていました。
 魔法の鞠が、ころころと転がりました。そして領主様は、悲しさと虚しさで胸をいっぱいにして、お城にお戻りになったのです。
 領主様は、それから三日三晩高熱にうなされました。うわごとのように、愛しい子供たちをお呼びになりました。
「あの子たちを探してくれ。あの子たちを返してくれ」
 ご自分を冷たく見下ろす奥方様に、そう言い残して、領主様は天国へ旅立っておしまいになりました。
 お城の者は、領主様の気が触れてしまわれたのかと思い、領主様の死を悼みました。
 ただ一人奥方様だけが、領主様の言葉の意味を理解し、領主様の死をなんとも思っていませんでした。
 奥方様は、すぐに、領主様の甥御を夫に迎えました。ご御自分の意のままに操ることのできる夫を。
 領主様の愛した森の中の小さな屋敷も、七人の子供たちも、誰も知ることのない秘密となったのです。
 領主様が王都からお戻りになったころ、娘は池のほとりで目を覚ましました。
 夜です。
 娘は丸一日眠ってしまっていました。
 自分の身体の上に、枯れ草がたくさん掛けられているのに、娘は気がつきました。まるで娘の身体が冷えないように、誰かが掛けてくれたかのようでした。
 娘はどうしたことかと思いました。このあたりには、動物一匹、鳥一羽さえいなかったはずです。娘をおいかけてきた狐たちがしてくれたのでしょうか。
 娘は辺りを見回しました。月が明るいために、昼間のように物が見えるのでした。
 娘は、星々の美しく輝く空を、大きな鳥が渡っていくのを見ました。白鳥のように見えました。そんなはずはないのです。季節は秋です。白鳥は、とっくに南に渡っていってしまっているのですから。
 鳥は、娘を目指して飛んできているように見えました。
 六羽の白い鳥が、だんだんと娘に近づいてきます。
 白鳥が、娘を取り囲むように地面に降り立ちました。娘は驚きました。
 娘は白鳥の一羽一羽を見つめました。何かを訴えかけるように、白鳥は娘をじっと見ているのです。
 そのうちの一羽が、くちばしに何かをくわえているのを、娘は見ました。
 香草のたくさん詰まった、小さな籠でした。娘が、御屋敷の門の側に落としてきてしまったものでした。
 その白鳥は、娘の横を通りすぎ、池のほとりに立ちました。
 そして、池の中に、籠を落としてしまったのです。
「何を……」  娘は池の中をのぞき込みました。小さな籠は、もう娘の手の届かない場所です。
 夜の池は、月の光を受けて、鏡のように娘の顔を映しました。娘の隣には、パン焼き職人になりたいと言っていた、長兄の姿が映っていました。
「お兄さま?」
 娘は振り返りました。
 しかし、娘の隣にいるのは、一羽の大きな白鳥なのです。
 娘はもう一度水面を見下ろしました。やはり、そこには兄の顔か映っているのです。悲しそうな顔をした兄が映っているのです。
 娘は、六羽の白鳥を順繰りに見つめました。
 そして、ひとつの答えにたどり着きました。
「お兄さまたちなのですか?」
 娘には、白鳥が頷いたように見えました。
 娘は震える指先で、白鳥の温かな首に触れました。柔らかい翼に触れました。つくりものではないのです。生きている白鳥なのです。
「どうして?」
 答えはありません。あるはずがないのです。娘の優しい兄たちは、もはや六羽の白鳥でしかないのですから。
「どうして、こんな姿になってしまったの? どうして私だけが無事でいるの?」
 娘は茫然としました。
 兄たちに何が起こったというのでしょう。
 六羽の白鳥は翼を広げて、娘を温めるように包み込みました。
 娘は泣きました。
『話をお聞き、私たちのかわいい妹』
 どこからか声が聞こえました。
 一羽の白鳥が、話しているのでした。
『私たちは、おまえが無事でいたことを、嬉しく思っているのだよ。ほんとうによかったと思っているのだ』
「お兄さま、教えてください。どうしてそんな姿になってしまったの?」
『父上の新しい奥方が、私たちに呪いをかけたのだ。白鳥になってしまう呪いを。だが、奥方はおまえがいることに気づかずに、帰ってしまったのだ。
 父上のところへ行ってはいけないよ。おまえまで危ない目に遭ってしまう』
「呪い?」
『そうだ。恐ろしい呪いだ』
「どうすればいいのですか? どうすれば、お兄さまたちは元に戻ることができるのですか?」
 兄は黙り込んでしまいました。
「ご存じなのでしょう? 何か元に戻る方法があるのでしょう?」
 娘は言い募りました。
「教えてください、お兄さま」
 兄はゆっくりと、娘に告げました。
 娘は、黒目がちの栗色の目を見開きました。瞳を熱く潤ませ、兄たちを見つめました。
 そして、微笑み、頷いたのです。




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