風車の節












 すっかり始末を終えて、珠里は盥と汚れた被衫とを衝立の後ろに戻した。
 臥牀のそばに真っ直ぐに立った。
「わかぎみさま」
 お召しをいただくのは、これが最後と決めていた。
 数日のうちに、珠里は母とともにお屋敷を辞去し、田舎に移り住む。父が、少し早い形見分けだといって、隠居したあとに住もうと建てた小さな邸宅を、珠里に譲ってくれたのであった。珠里はそこで、母の面倒を見て暮らすのだ。
「お屋敷を、お暇させていただくことにしました」
 自分でも驚くほど、心が落ち着いていた。
「母と一緒にまいります。みずからご挨拶ができず、申し訳ございませんでした」
 臥牀のなかの英琴さまのお顔は伺えなかった。
 しばしの沈黙のあと、英琴さまは低いお声でおっしゃった。
「……実家に帰るのか。婿でも取って、店を継ぐのか」
 珠里は唇を綻ばせた。
「いいえ。店は番頭に任せます。父が住まいを調えてくれましたので、そこで、のんびり母の足を治そうと思います」
「薬師がいる。ここで治せばいいだろう」
 珠里は驚いた。思いもよらないお言葉だったのだ。
 胸の奥が温かくなり――、切なさに疼いた。
「とてもありがたいお申し出ですが……、母は足ばかりでなく心も患っております。そのような者がわかぎみさまの乳母としてお屋敷にあるのは、ご迷惑でしかありえません。わかぎみさまが奥方さまをお迎えになったとき、母が障りとなりましょう」
 年が明ければ、英琴さまは御年十八になられる。
 お館さまは、跡継ぎでいらっしゃる英琴さまに、そろそろ嫁取りをさせようと考えていらっしゃるだろう。お館さまに御正室がなく、お屋敷を取り仕切っていた乳母が力を振るえなくなる今後、英琴さまのお若い奥方さまが朱家の新しい女主人となられるのだ。
 その前に、珠里たちはお屋敷を去るべきだ。
 針を差し込まれたように胸が痛む。
 英琴さまのお側には、お若く、健やかな、お美しい奥方さまがふさわしい。
「嘉耶は、私のために実の子のおまえを道具のように扱った女だぞ。おまえを捨てて、十四年も思いださなかったのに、私の側女にするためだけに呼び寄せた母だぞ」
 母のしたことはそれだけではなかった。
 守るべき家を捨て、側にあるべき父を捨て、敬うべき祖母を捨てた。主従の分を忘れて奥方さまを蔑ろにし、お屋敷に厚かましく居座って、何よりも大事な若君のお心までも傷つけた。
「嘉耶のために、おまえは」
 苦しげなお声だった。
 母の為したことの何もかもが、道義に悖る振る舞いであった。
 でも、母は言ったのだ。
 阿片のもたらす幻覚に苦しめられながら、けれど、はっきりと。
 英琴さまの御子が五体満足に生まれてくれるなら、男でも女でも、どちらでもかまわなかったのにと。男児であっても女児であっても、英琴さまの次に大切にしたのにと。
 珠里はずっと、そう、物心つく前からずっと、女に生まれた自分を厭っていた。
 もしも珠里が男児に生まれていれば、母は家を捨てなかっただろう。祖母との仲もあれほど悪くはならなかっただろうし、父もとっかえひっかえ妾を囲うことはなかっただろう。もし万に一つ、母が朱家の乳母となっていたとしても、珠里を近習として連れて来てくれたかもしれない。珠里を家に捨て置くことはなかったかもしれない。英琴さまの何分の一かでも、愛してくれたかもしれない。
「でも、紛れなく、妾の母です」
 自分は女として生まれ、英琴さまは朱家の跡継ぎとしてお生まれになった。
 だから珠里は、この方にこんな形でお会いして、こんなふうにお仕えすることができたのだ。一生恋い続け、恨み続けたかもしれなかった母を、許すことができたのだ。
「わかぎみさまは、母を見舞ってくださいました」
 一生をかけて、家も我が子も捨てて尽くした方から、ほんの少しでも顧みていただけた。いたわりの言葉を賜った。それは、何にも勝る栄誉ではあるまいか。
「それでもう、母の生涯は、じゅうぶんだと思うのです」
 珠里は、母が羨ましい。本当はとても妬ましい。
 でも、その思いは誰にも明かさずに行く。
「母娘して、さまざまにわかぎみさまをお苦しめしたこと、お詫びできぬままではございますが……、どうか、お許しくださいませ」
 この方の前で、こんなに長くお話ししたのははじめてだった。
 そして、きっと最後になるだろう。
 この胸に秘めた愛は告げるまい。
 自分は、心のままにこの方に、お愛おしいと告げられる身分ではなかった。最初から最後までそうだった。でも、それでいい。
 この方にいただいた風車を抱いて、母とともに、死んだ子を偲べるならば、それでいい。
 それだけでいい。
 未練な心の生まれぬうちにと、珠里は深く礼をして、お部屋を辞した。
 英琴さまがどんなお顔をなさっているか、最後まで、珠里にはわからないままだった。





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