風車の節 5 それから二月が経っていた。 珠里はお館さまに願い出て、母子で宿下がりさせていただくことにした。母の容態はいっこうによくならなかったのだった。お館さまは、勿体無くも、長年の勤めに報いる手当てを出すとおっしゃってくださった。 お屋敷を出たからと言って、実家に戻るつもりも珠里にはなかった。 父にそのことを話すために、珠里は半日のお暇をいただいて家に帰った。そのあいだの母の世話は、信頼できる人に頼んだ。 父は少し残念そうな顔をしながら、珠里の願いを聞き入れてくれた。そして、ひとこと、よく勤めたなと言ってくれた。 父の店はにぎわっていた。 近々、信頼できる番頭に任せてもう一軒店を出すつもりなのだという。 話を済ませた後、珠里は店の裏にある生家に寄った。 勝手口のそばで、若い男の声に呼び止められた。 「お嬢さん」 立っていたのは番頭だった。男の名は草祥といった。 草祥は昔、丁稚だったころに、幼い珠里を連れてお屋敷まで荷車を引いてくれた。珠里が奉公に上がるとき、彼はもう手代にまでなっていたが、そのときも珠里の供をしてくれた。 草祥は珠里の生まれる前に店にやって来て、若くして番頭にまで上り詰めた。父もよく彼を褒めていた。新しい店は、この男に任されるのだという。 「どうして、出て行くなんておっしゃるんですか。お屋敷をお暇して、店に戻ってこられるんじゃなかったんですか」 珠里は草祥の黒い顔を見上げた。 彼は、祖母がまだ健在だったころ、折檻されて裏庭で泣いている珠里を見つけては、何も言わずに手当てをしてくれていた。珠里が店に出るようになってからは、さりげなく気を遣って手助けしてくれた。 父はおそらく、自分と彼とを娶わせようと思っていたのであろう。草祥に店を任せ、珠里とのあいだに子供ができたなら、さらにその子に店を継がせようと。 珠里はそっと目を伏せた。 父の描いた幸福な前途は、今、まるで夢のように遠かった。 「どうして婿をとらないんですか。おれじゃあ駄目ですか」 草祥は静かに問うた。 「どうしてだなんて」 珠里は、優しかった番頭の顔を見つめ、穏やかに答えた。 「妾は三年も家を離れていたし、妾が今更出戻れば、店の看板に傷がつく」 乳母に出たのと、側女に囲われていたのとではわけがちがう。自分が茶商のご内儀として表に顔を出すなど、珠里にはとても考えられなかった。それよりは、父の秘蔵っ子である草祥が跡目を継いで、何の負い目もなしに一から始めてくれるほうがいい。父も、珠里のその言葉を聞き入れてくれた。 「お嬢さんじゃなくちゃいけないんです。旦那さまのお血筋でなければ」 「草祥さん」 珠里は唇を噛んだ。喉の奥が震え、熱いものがこみあげてきた。 こうも真摯に引き止めてもらえることが、ありがたく、嬉しかった。 それに応えられないおのれが腹立たしく、悲しくもあった。 「何の気兼ねもいらないのよ。だって、妾は、子供を生めないんだから」 もう忘れたはずの痛みが、葬ったはずの苦しみが、どこからともなくよみがえってくる。 珠里は、十五のときに一度だけ身ごもった。英琴さまが最初の戦にお出かけになっていたときにわかった。けれど、子は四月で流れてしまった。薬師は、珠里はもともと子を育てるのに適さない体をしていたのだといった。 珠里が孕んだこと、その子が生まれる前に死んでしまったこと。珠里が子供の誕生を待ち焦がれて、母とともに産着やおむつを縫っていたこと。男の子でも女の子でも、青い風車を握らせて、あやしてやろうと思っていたこと。 母と自分、それから薬師しか知らないことだ。 英琴さまは、これからもご存知でなくてかまわないことだ。 「お嬢さん」 「どのみち血筋なんて関係なくなってしまうのだから、気にすることなんてないのよ。草祥さんは、草祥さんのいいように、健やかなご内儀を……、あ――」 続けようとして、遮られた。 強い腕に抱きしめられたからだった。 男の青臭い胸に顔を押し付けられ、珠里は惑った。突然のことに、おろおろと目を迷わせていると、耳元に熱く吹き込まれた。 「それでもいいんです!」 息を詰めた珠里に、草祥はさらに言い募った。 「おれはこれまで、お嬢さんをいただくために勤めてきたんです。裏庭で泣いてたお嬢さんが、店で黙って働いてたお嬢さんが、少しでも楽になるように、年頃の娘さんらしく暮らせるように、お幸せになれるように、おれは」 「草祥さん……」 「お嬢さんをお屋敷にお届けしたあと、お嬢さんがどんな目にあったか知って、おれはどれだけ後悔したかわかりません。それでも、いつかお嬢さんがお帰りくださる日を待ってたんです」 珠里は知らなかった。気づきもしなかった。 草祥のこれまでを思った。 静かな思いを胸に秘めて、そのためだけに一心に働いてきたというのだ。丁稚として雑用から仕事をはじめて、商才を磨き、父に認められるために努力を重ね……。 抱擁と熱い情愛のかたまりを受け止めかねて、珠里は男の腕の中で身を硬くしていた。 「好きです。お嬢さんが好きなんです。お嬢さんをいただくことだけがおれの望みです」 誰かを愛したくて、愛されたくてしかたなかった自分は、ずっとほしかった言葉の前に、子供のまま、本当に、本当に無力だった。 けれど、草祥は、珠里には過ぎるほど過ぎた婿だ。 真っ直ぐで誠実な草祥は、自分などには勿体無くて、あまりにも惜しい。 「お屋敷でのことは忘れてください。お幸せにします、約束します」 心が揺れた。このまま身を委ねたら、きっと自分は幸せになれるだろうと思う。 でも、違うのだ。 自分はまだ英琴さまの側女であった。 子も産めなかった。あのお屋敷では家畜にも劣る身の上であった。 それでも、珠里には精一杯のお勤めをしたと言う自負がある。決して誰にも言えないけれど、お側で共に夜を重ねるうち、あの方を愛してしまったのだ。そして身ごもり、小さな命を授かった。その子は会えないままに黄泉に召されてしまったけれど、確かに珠里のお腹の中で生きていた。 女は、この世に生まれ出でることのできた恩を、二度にわたって返すという。父母に孝行をして半分、自分が母となり子を育てて半分。 自分はこれから母と暮らして、半分になるまで、少しずつ恩を返すのだ。心の奥に、実らなかった片恋を住まわせながら。 それが、自分という女にとってのすべてだと思えた。 珠里は、草祥の太い腕をそっとほどいた。身を離し、彼の顔を見上げた。 大きく無骨な彼の手をそっと握る。お互いの手はひどくかさついていて、触れ合ったところが少し痛かった。 「ありがとう」 心を込めて、それだけを言った。 草祥は、目に涙を浮かべる珠里の意図を汲んでくれたようだった。 「お嬢さん」 「お店のことを、頼みます」 声を絞って告げ、身を翻した。 彼は、追いかけてはこなかった。 |