風車の節












 お屋敷の使用人は、年の末になると交代で数日のお暇をいただくことになっていた。
 乳母も側女もその例外ではなかったが、珠里は奉公に出てから一度も里帰りはしていなかった。はじめの年は、自分がただ一人の側女であったので、若君のお世話をするためにお屋敷に残った。次の年の末には戦のためにお館さまも英琴さまもお屋敷を空けておられ、使用人たちは比較的手隙であったが、珠里は体を悪くしていたので動けなかった。
 こうも長く帰らないでいると、いっそう実家の者たちと顔を合わせるのが億劫に思われてくる。そもそも、御領主の側女となって身を汚した娘などを容れて、実家の評判に傷がつくのも恐ろしかった。そのように思って、三年目の終わりにもお暇はいただかないことにした。結果として、それはよいように働いた。
 母が足を患ったからであった。
 正しく言えば、患っていたのがわかったというほうがよい。一度挫いて傷めたのを、放っているうちに悪化させていたのだった。
 珠里が気づいたときには、母はもう歩くのもままならないほどになっていた。痛みを紛らすために阿片を常用するようにもなっていて、薬師にはそちらの中毒も心配された。
 母は心の弱い人であった。しかし、そのぶんだけ強い人でもあった。
 もともと教養深い、才気ある女であったのだ。古いが名の朽ちた武家に生まれ、家を保つために身を売るようにして商家に嫁いだ。しかし、そうまでして守った家名は、その代であっけなく途絶えてしまった。
 冷たい夫、二度の流産ののちに生まれた女児、口煩い姑に囲まれた暮らしに耐え切れず、家を飛び出して、誰にも難癖つけられぬ働き口を見つけた。得られたはずの男児の代わりに、我が子とも思って主家の跡継ぎを溺愛し、厳しく育てた。そして、身の傷を誰にも気づかれぬようにひた隠しにし、阿片を使い、周囲には威張りちらして、おのれを大きく見せていた。
 誇りを取り戻すための乳母務めであった。
 体が弱りきっているとき、母はあらぬことを口走った。
 死んだはずの祖母が戸口に立っているとか、産めなかった男の子たちが迎えに来るとか。そういうとき、母はけもののように暴れて錯乱した。
 あるときは涙を流してぶつぶつと何かを呟いていた。よく聞いてみれば、それは祖母や父への恨み言であったり、奥方さまへの謝罪であったり、若君への小言やお願いであったりした。珠里の名は一度も呼ばれなかった。それはとても悲しかったけれど、母がうわごとにあることを口走ったときに、すべてを許そうと思えた。
 珠里は、自分のほかの誰にも、そんな母の姿を見せたくなかった。珠里は一人で母の世話をした。母の小間使いであった者たちにもよそに就いてもらった。使用人たちが心配そうに様子を伺いにきてくれたが、母に会わせることはしなかった。ただ、母も疎まれてばかりではなかったのだと知って嬉しかった。
 使用人棟の周囲の部屋はがらんどうになっていた。みな休暇をとって故郷に帰っていた。
 夕方、珠里は、自室の窓辺に座っていた。
 母が眠りについているあいだだけが、珠里の休息であった。
 母の隣にもらった房室は、薄暗く狭く、陰気だった。
 簡素な臥牀と卓があり、窓は西向きにひとつだけ。窓枠は据付けが悪く、風にがたがたと絶え間なく鳴った。実家の自室のほうが、よほど明るく快適であった。
 ただ、実家にいたころにはできなかったことがひとつだけあった。
 珠里は、窓辺に風車を立てていた。鮮やかな青色であった羽根はすっかり色あせ、灰色にしか見えなくなっていた。柄も木肌が白茶けてしまっていた。
 けれども、たった一つ英琴さまにいただいた珠里の宝物であった。
 くるくると回る風車を見ると、いやなこともつらいことも、心の底にゆっくりと澱のように沈んでゆくのだった。
 珠里が物思いにふけりかけたとき、戸が二度、軽く叩かれた。
 ぼんやりとしていた珠里は、誰何もせずに戸をあけた。
 立っていらしたのは、英琴さまであった。普段着のうえに毛織の長袍を掛けたお姿であった。
 珠里は驚きのあまり、挨拶さえ忘れていた。
「わかぎみさま――」
 こんなところまで、なぜ。
 問いかけると、英琴さまは唇をお噛みになり、黙りこまれてしまった。
「何かご不便がありましたか? お部屋がお寒うございましたか?」
 英琴さまはお答えにならず、不機嫌そうなお顔で珠里の小房を見回された。その視線がひとところで止まった。
 珠里はさりげなく窓辺を背にし、風車を隠した。
「……嘉耶の様子を見にきた」
 英琴さまは、ぽつりとそうおっしゃった。珠里は無理やりに笑顔をつくった。
「今は眠っております。薬師さまが、傷薬のほかに眠り薬も出してくださいました。歩けないほかは元気にしております。ご心配には及びません」
 珠里が早口に言ってしまうと、英琴さまは小さく頷かれた。
「わざわざありがとうございます。母が目を覚ましたらとても喜びます」
 それだけは本心からの言葉だった。
 やはりこの方は優しい方だ。母を、みずから見舞ってくださった。
 珠里はとても嬉しかった。
「ここは寒いですから、お部屋までお送りいたします」
 そう言ったとたん、英琴さまの顔色が僅かに変わった。
「わかぎみさま?」
「そんなに私といるのが厭か」
 珠里はびっくりして二の句が継げなかった。
 英琴さまは眉をひそめ、唇を歪めて笑われた。
「確かに、寒い」
 英琴さまは、戸をがたんと後ろ手に閉めてしまわれた。
 錠をかけながら珠里の腕を乱暴に掴む。
「温めるのは、おまえの務めだ」
 珠里は臥牀に突き飛ばされた。
 小さく粗末な木づくりの臥牀が、ぎしりと鳴った。
「いけません、こんなところで……」
「今はみな宿下がりしているのだろう」
 珠里は裸に剥かれながら鼻をすすった。
 こんなみっともない部屋に、英琴さまをいさせたくなかったのだ。窓の隙間から北風の吹き込む、暖炉すらない狭い部屋に。
「でも、隣で、隣で母が――」
「薬で寝ている」
「でも、もし目を覚ましたら……」
「これまでも、壁越しに聞かれていた」
 耳に噛み付かれた。
 柔らかい唇が首筋をたどる。それだけで体の芯がじんと痺れた。
 英琴さまのお手がお優しいと感じるのは、気のせいだろうか。
「いつものように、声を堪えていればいい」
 珠里は、もう答えられなくなっていた。
 英琴さまが、弱弱しく胸を押し返そうとする珠里の腕を押さえる。
 足を開かれて、間にお体を挟みこまされた。
 すべての動きがゆっくりで、いつものようないたぶるためといった感じがしなかった。
 寝ずの看病につかれきっていた身は、いとも簡単に英琴さまのお手に落ちた。触れられたところからゆるゆると流れてくる温もりに、泣きたいくらいの安堵を感じる。
 温めていただいているのは、珠里のほうだ。
 この方のお背に、自分が縋ることは許されるだろうか。
 いまだ肉色の傷口を残している肩に、一度だけでも唇で触れさせていただきたかった。
 今なら、許してくださるかもしれない。
 英琴さまに気づかれずに、この方を抱きしめることができるかもしれない。
 たっぷりとためらったあと、珠里は敷布を掴んで声を殺した。
 このお背は、珠里などが触れていいものではない。
 人の上にたつ方として、気高く尊く重いものを負ったお背だ。
 おのれに繰り返し言い聞かせ、目を閉じた。
 珠里は、気を失ってしまっていた。
 英琴さまは、肌着を肩に、珠里に背を向けて枕元に掛けておいでだった。
 珠里は慌てて身を起こし、捨て置かれたままの肌着を身に着けた。若君のお体の始末を忘れて寝入ってしまうなど、側女としてあってはならないことだった。臥牀から降り、行李から一番上等の手巾を取り出して、桶の水で湿らせた。指が凍るほど冷たい手巾を、両の手のひらで暖める。
 英琴さまの前に立った珠里は、しばしその手元に見入った。
 そのお手が、風車を握っていらしたのであった。
 覚えていらっしゃるはずがない。
 幼い英琴さまが珠里にこれを下さったのは、もう十年以上も昔のことだ。
 珠里にとってはとても大切な思い出であって、それだけで十分なのだ。
「わかぎみさま」
 珠里は潤んだ目で英琴さまを見つめた。
「どうぞ、お背を」
 いつものように言うと、英琴さまは風車を窓辺に戻し、こちらに背を向けてくださった。
 窓の外は、すっかり暗くなっていた。





←戻      目次      次→