風車の節












 夏であった。
 中庭を温い柔らかい風が吹き抜ける。
 窓の外で、若い桃の木の葉が揺れていた。
 父が珠里に譲ってくれたのは、湯治場のそばの小さな邸宅だった。
 珠里は今、ここに一人きりで住んでいる。半日は女中が通いでやってくる。
 ――お屋敷を去ってから二月ののち、母が身罷った。
 春の終わりのことだった。
 灯火が夜風に吹き消されるような、静かな最期であった。
 葬式は父が実家から出してくれた。朱家のお屋敷からも使者が悔やみに訪れた。
 あまりにあっけない別れであったので、珠里は母の死が信じられず、それからしばらく物もまともに考えられないほどだった。
 慌しさに忙殺されていた時期が過ぎたあと、珠里はふとおのれの去就に迷った。父は家に戻るもここに残るも好きなようにしろと言ってくれたが、珠里の心は一滴も酒の入っていない甕のように空虚で、何をするにも気力が足りなかった。
 迷っているうち、どうしようもない事実に気がついた。
 珠里は身ごもっていたのであった。だから、一人きりで暮らしているというのは本当は誤りだ。お腹のなかの子を、おそるおそる見守りながらの暮らしであった。
 珠里はかつて、朱家の薬師に、二度と子を生めないだろうと言われていた。朱家のお抱えであった名医の言うことだと、無心に信じていたので、孕んだとわかったときは不安になった。珠里はそのことを父にも話すことはできず、かといってこの子も流れるのかと思うと寝もやらず、たまらずにその薬師に会いに行った。
 老人は驚き、次に喜んでくれた。
 そして、神妙な顔で、静かに体を厭って暮らさなければならないと助言してくれた。薬を煎じてたくさん持たせてくれ、予後を診たいので月に一度来てくれるとまで言ってくれた。
 今日の午時には、薬師がやってくる。
 女中が軒先を掃いて清め、珠里は厨房で点心を蒸していた。
 老人は饅頭が好きで、母のあんまんを殊の外気に入っていた。珠里のあんまんは母の作ったのと同じ味がするといわれるので、珠里は老人が訪れるたびにたくさん作ってしまうのだった。英琴さまもお小さいころに母のあんまんを食べたのだろうか、などと考えながら手を動かしていると、いつの間にか両手にあまるくらいの数の饅頭が蒸し器の中で湯気をたてている。もちろん老人と女二人ではとても食べきれず、土産に幾つも持ち帰ってもらうことになるのではあったが……。
 腰を屈めて、竈の火を弱める。珠里のお腹は、ゆったりとした袍の上からはまだ目立たないけれど、触れれば身ごもっていることは明らかにわかる。そろそろしゃがむのも難しくなってきた。厨房仕事も、女中に任せなければならなくなっているかもしれない。
 一人でここで暮らすようになってはじめて、珠里は、自分の身をいとおしむ事を覚えた。
 この小さな邸宅で、珠里は、薬師の言うとおり、温泉に浸かり、滋養に富んだものを食べた。忙しく立ち働くこともなく、眠たくなればたっぷりと休んだ。
 嘘のようにゆっくりと時が過ぎていった。
 幸いにも、胎児は半年になるまで何事もなかった。
 このままぶじに育ってくれたら、と珠里は願う。
 珠里は自分の子供を、自分の手で育ててみたかった。捨てるのではなく、預けるのでもなく、自分で乳をやって、一緒に暮らしたかった。
 居室の窓辺には風車が立ててある。
 お腹の子が生まれ出たら、一番にあれを見せてやろうと思っていた。
 珠里は、ふと顔をあげた。外で、何やら慌しい足音がする。
「奥さま!」
 飛び込んできたのは女中であった。
「なあに、そんなに慌てて」
 前掛けで手を拭いながら戸口を見遣り――、珠里は腰を抜かしてしまった。
 立っていたのは薬師であった。
 そして、その後ろにいらっしゃる大きなお体の殿方。
 わかぎみさま、と呼ぶ声は声にならなかった。
「どうして……」
 黒い長袍に白い裳、遠乗りに出かけるときの格好でいらっしゃる。英琴さまは片眉をあげ、低い声音でおっしゃった。
「老師(せんせい)が、うまい点心を食わせるところを知っているというから、案内してもらった」
 珠里は亡羊とした目を薬師に向けた。
 ばつの悪そうな表情を隠しもしない、甘い物好きの好々爺。
「毎月、あんまんを抱えて帰りますのをわかぎみさまがご覧になっていたそうで……、今朝、出かけてまいりますときに捕まってしまいました」
 どうしていらしてくださったのだろう。
 本当にあんまんが食べたかったのだろうか。珠里のお腹の子供のことは、ご存じないはずなのだ。
「わかぎみさまは、嘉耶さんがお亡くなりになったあとも私がこちらに来ているのに気づかれて、お嬢さんが何かご病気ではないかとご心配で、それで……」
 珠里は、何度も瞬きした。
「話してしまわれたの……?」
 ぽつりと問うと、老人が微かに俯いた。
「ひどい――」
 黙っていてくれると言ったのに。
 自分もかつて同じくお屋敷に仕えていたのだ、身に染みてわかっている。
 主君の命には従わざるをえない。そうしなければ生きていけないのだから。
 わかっているのに詰らずにいられない。
 珠里は身を翻し、寝室に走った。
 小さな房室に駆け込んで、内側から錠をかけ、戸に背を預けて顔を覆った。
 胸が苦しかった。この子は取り上げられてしまうのだ。
 足音が珠里を追ってきて、入り口の前で止まった。
「珠里」
 びくりと肩が震えた。
 英琴さまのお声だった。薄い戸越しに、まるで何も隔てていないかのようによく通る。
「老師が話してくれたのは、今おまえの腹にいる子のことだけではない」
 英琴さまが、戸に手をおかけになったのがわかる。
「私の子を流産したのだな。二年前、私が戦に出ていたときに」
 死んだのは女の子だった。それでも、母は泣いて惜しんでくれたのだ。
「腹を痛めた身で、寝ずに私の看病をしてくれていたのだな。何も言わずに仕えつづけてくれたのだな」
 珠里はきつく目をつぶった。指のあいだを熱い雫が伝った。
「私はその子を取り上げに来たのではない」
 その一言に、珠里は目を上げる。
「半年前、私はおまえが朱家を出て行くのを止められなかった。おまえが嘉耶とともに暮らしたいというのに、私が引き止められる道理もなかった。今まで、おまえの母を我がものにしていたのは私だったのだから。……初めて会ったときのことを覚えているか。私は甘ったれの小童(こぼうず)で、嘉耶にべったりくっ付いていた。おまえは車の上から嘉耶を恋しそうに見ていた。嘉耶がおまえを叱って、おまえは泣きそうな顔をして――、私はあんな玩具ひとつ差し出して、おまえを慰めた気でいたんだぞ」
 そうおっしゃって、英琴さまはため息をつかれた。 
「十四の私はそんなことも忘れて、嘉耶を疎み、腹いせにおまえを苛め、ずさんに扱った。本当は、私を恨む理由はおまえにこそあったのに」
 珠里は小さく首を振った。届かないとわかっていても、それは違うのだと訴えたかった。 
「私は、お前の献身を知らずにいた自分を、恥ずかしく思う。もしも老師を捕まえなければ生涯知らぬままであったかもしれないと思うと、ぞっとする」
 珠里は顔をあげ、戸のあちら側にいらっしゃる、その方に向き直る。
「おまえといると、安らいだ。同じだけ、そう感じるおのれが腹立たしくもあったが……今ならばわかる。――おまえを愛している」
 珠里は、しばらく、その意味を解することができなかった。
 信じられない言葉を聞いた。
 信じるにはあまりに重く、熱い――。 
「父君は私が説き伏す。誰にも何も言わせない。私の妻になれ」
「そんな……そんなこと」
 震える声で、やっとそれだけを言った。
「わかぎみさまは、勘違いなさっていらっしゃるのです。お優しい方だから、哀れみのお心と男女の色恋を、履き違えていらっしゃるのです」
「ならおまえはどうだ? あの風車は、何を思って飾っていた?」
 あの青い風車は、戸の向こう、居室の窓辺に挿してある。
 英琴さまのお目が届く場所だ。
 珠里の心はきっとあの方に、手に取るようにわかってしまっているのだろう。
 初めてお会いした幼い日。母に守られていた小さな男の子。 
 添い伏しとしてお仕えした十四の夜。それから繰り返した情交。
 ささやかな、本当にささやかな、心通った記憶。
 穏やかな暮らしのなか、遠く、思い出の色にあせてゆく三年半の日々。
「妻だなんて、恐れ多いことです……考えもしなかったことです。誰もお許しになりません。妾は、わかぎみさまのお邪魔になりたくありません」
「家が許さないというのなら、捨てる」
「何てことを――、母が嘆きます」
 珠里は、袖で顔を拭った。
 錠に手をかけ、そっと戸を開けた。そのあいだにも涙が溢れた。
 頬をみっともなく濡らしたまま、童子のように鼻をすする。
 英琴さまは、珠里を待っていてくださった。
「おそばに召してくださるのなら、側女に戻ります。だからどうか、そんなことはおっしゃらないで」
「それで、私に正室を娶れというのか。その子を室の子として育てさせるのか。乳母にでもなるつもりか。おまえがそれをするのか」
 珠里は衝かれたように目をあげた。
 英琴さまは、苦しげなお顔で珠里を見下ろしておられた。
 その手が伸びて、珠里の肩を引き寄せる。
 珠里はされるがままに抱きしめられていた。膨らんだ腹が英琴さまの胴にぶつかりそうになった。慌てて身を引いた。
 それでも、お強い力が逃れることを許さなかった。
「肩を抱いてくれ」
 英琴さまの腕のなかで、珠里は震えた。
 しばらく、全身が言うことを聞かなかった。
「……おまえのくれた腕だ」
 耳元に吹き込まれ、珠里は広い胸に顔を埋めた。
 母だけでなく、誰からも許してはもらえないだろう。母は珠里が生涯英琴さまにお仕えすることを望んでいたかもしれないが、少なくとも珠里が妻になるなどという大それたことには及びもしなかっただろう。
 自分は生涯後悔するかもしれない。
 でも、今お別れしたとしても、きっと自分は悔いるのだ。悔やみ続けるのだ。
 それならば、この方の望まれるように、この方とともにある途を選びたい。
 この方の言葉を信じたい。
 そろそろと両手を動かし、肩のうえに這わせた。
 てのひらを拠りどころなくさまよわせ、確かめるようにそっと止める。
 不思議なほどの安堵が、胸にひろがった。珠里が小さくため息をつくと、英琴さまはゆっくりと体を離し、顔を覗きこんでこられる。
「おまえは、嘉耶が私にくれた、最上のものだ」
 頬に唇を寄せられ、珠里はその柔らかさに恍惚となる。
「珠里」
 熱く囁かれた。
 吐息だけで笑むと、その唇を塞がれた。
 涙が零れて、頬を滑った。
 小さな一滴が、床に染みて乾いてしまうまで、そのままそうしていた。




(了)





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