静かの夜にぞ白は儚き 拾陸 綾を香春郭の裏口まで送り届け、西成は去っていった。そのどこか寂しげな後ろ姿を見つめながら、綾は彼の言葉を思い出す。 『三年前から?』 綾が、二年ほど前から汀の側にいることを教えた。病気を患ったのは三年ほど前で、自分も多くは知らないのだということも。詳しいことは、きっと西成の方が知っているだろう。 そこは吉原の大通りから離れた、ひどく暗い路地裏だった。 『あれは、肺と気管支に腫瘍ができて、穴が空く病気なんだ』 血を吐いていただろう? 彼は、低い、呻きのようにも聞こえる声でそう尋ねた。 綾は小さく頷いた。肩を震わせながら床に崩れていった汀の姿を思い出した。激しい咳や、空気の抜けるような恐ろしい音も。 『俺も、頭がはっきりしていないんだ。教授に付いてこいと言われて、来てみれば往診先がここだった。君に案内されて入ったのは初瀬の部屋で、患者は初瀬だった。……わからなかったよ。わかりたくなかったんだ』 彼は額に手を遣り、固く目を閉じた。眉間に深い皺が刻まれていた。 汀の名ははつせというのだと、綾はそのとき初めて知った。そう呼ばれていた頃の、健康であっただろう汀の幼い頃に思いを馳せながら、綾は西成の言葉を待っていた。 『どうして黙っていたんだ』 目の前にはいない汀を詰って、西成は口唇を噛み締めていた。 『なぜ……』 言葉を切り、彼は力なく首を横に振った。 彼の言葉と表情から、綾はわかってしまった。汀にはもう先がないのだということ。望みすら抱けないのだと、女将も西成も、汀自身も諦めてしまっているのだと。 『入院したら? 病院に行って、ずっとお医者様に診てもらっていたら、よくならないんですか?』 尋ねた綾に、西成は苦しげに口唇を歪めた。それだけで、綾は自分の問いが無意味なものなのだということを悟った。 それ以上何も言うことができなくて、綾は俯いた。 『……綾ちゃん……だったな』 唐突に名前を呼ばれ、顔を上げた。西成の切れ長の目は、真摯な光を湛えて、綾を見つめていた。 『黙っていてくれないか。俺が今日ここに来たことと、初瀬の病気のことを知ったこと』 いきなり何を言い出すのかと思った。綾は目を瞠って西成を見上げていた。 『初瀬は、俺に知られたくなかったんだ。きっと、心配させまいとしてそうしたんだろう』 汀はそういう女だった。綾はよく知っている。 『でも、すぐにわかることなんですよ』 『そうだな。でも、初瀬が自分から俺に話してくれるまでは、俺は知らないふりをする』 そう言って彼は綾から視線を外した。 彼は汀を傷つけたくないのだ。汀がそうしたのと同じように。 『姐さんは、西成さんの病院に入院するのに?』 『俺は、きちんと話をして、初瀬の担当から外してもらうつもりだ』 『姐さんのこと、全部ですか?』 『そうだよ』 いくら以前から知り合っていたとはいえ、吉原の遊女を情人に持っているということは、彼にとって不名誉にならないのだろうか。 『留学のことは?』 西成は、綾の顔を凝視した。 『お金を出してもらって、留学するんでしょう?』 よく聞いていたな、と西成は苦笑した。 『そんなもの、行かないよ』 彼はあっさりと言った。 いい医者になるためには、ドイツやアメリカという国に行って勉強するのだと、綾は昔誰かに聞いた。 『それでも姐さんが、西成さまに何も話さなかったら? 秘密にしたままだったら?』 『……それなら、それでもいい。俺が隣にいてやれることには、変わらないんだから』 彼は目を伏せて、僅かに俯いた。 それっきり二人は黙っていた。西成は綾を香春郭まで送ると言い、綾は彼と並んでしばらく歩いた。 『……二年、初瀬の側にいるんだったね』 見上げた彼の横顔は、少し寂しげだった。 『君も、いつかは遊女になるのかい?』 綾はこくりと頷いた。彼はそうか、と小さく呟いた。 そうしているうちに香春郭の裏門まで着いた。 『早ければ明後日にでも、会いに来れると思う。それじゃあ』 そう言い残し、彼は行ってしまった。 そうして、綾はまた汀の部屋に戻ってきた。 汀は相変わらず、白い顔をして布団に横たわっているだけだった。浅い呼吸の音が聞こえた。 広げられた風呂敷に、幾らかの着物が畳まれて置いてあった。 綾が戻ってきたことに気づいたらしく、隣の控え部屋から、女将が出てきた。 「どこ行ってたんだい?」 女将は、少しやつれたような影を浮かべていた。きっと汀の入院の準備をしていたのだろう。 「西成さんと、お話ししてました」 女将は、痛そうな顔をする。 「そうかい。……いつも行ってる病院に、あの方が勤めてたなんてね、全然知らなかったよ。あの方も驚かれてただろうね」 「……黙っていてほしいって、言われたんです」 「何を?」 「西成さんが、姐さんのお医者さんになること。西成さんは、姐さんの口から、病気のことを聞きたいって」 女将は黙り込み、綾から視線を逸らした。 「西成さんは、姐さんのことを大事にしたいから、話してくれないのならそれでもいいから、姐さんのしたいようにさせたいって言ってました。留学の話も蹴るつもりだって」 「……そうかい」 「だから……」 「そうだね。したいように、させてやらなきゃいけないね。そうでなきゃ、悲しむのはあの妓だもんね」 女将は言いながら、隣の部屋から持ち出してきた荷物を元に戻しはじめた。綾もそれを手伝った。 そのうち、窓の向こうから、しとしとと雨音が聞こえてきた。一度止んだのが、また降り始めたらしかった。 |