静かの夜にぞ白は儚き
拾七




 暗かった。物陰ひとつなかった。周囲には生暖かい空気が流れて、ひどく不快だ。誰かが何かを喋っている声だけが、なぜか生々しく耳に残るのだ。意識ははっきりとしている。けれども、身体が言うことをきかないのだ。
 糸をたぐりよせるように感覚を引き戻す。目を覚ますときはいつも、殊に最近は、こうしなければ瞼を開けることすら難しくなった。汀は、ゆっくりと目を開く。
「……初瀬」
 優しく名を呼ばれ、汀をそちらを見た。枕元に和司が座っていた。
 いつか見た夢のような情景だった。けれど、これは夢ではないのだと、今の汀は知っている。彼は、穏やかな目で汀を見下ろしていた。
「どうしたの? 仕事は、忙しくなかったの?」
 汀は身体を起こした。
「平気だよ」
「なんだか、ずいぶん長く会っていないような気がするわ」
 闇に意識を溶かして眠っていた時間が、とても長く感じられた。自分は、ひどい発作を起こしてそのまま気を失ったのだ。汀には、時間の感覚が欠片もなかった。頭のどこかが痺れているような感じだ。
「外、雨が降っているの?」
 部屋は静かだった。締め切られた窓の向こうから、微かに雨が地を打つ音が聞こえている。
「ああ。一昨日から、ずっとだな」
「桜は、もうみんな駄目になったわね」
「そうだな。綺麗だったな」
 汀はそっと目を伏せた。
 自分には、彼に言わなければいけないことがあったのだ。
 汀は、和司の胡座の足の上に置かれている右手に触れた。和司が、窓の方から汀へと視線を移す。自然と伸びた彼の左手が、汀の肩を抱く。
 節の高い骨張った指。大きなてのひら。血管が浮き出た手の甲は浅黒く、乾いていて少し熱かった。
 次にまみえたときには、必ず伝えようと思っていた。けれど、決心が鈍ってしまう。綾と女将が話していたことを、うっすらとだが覚えている。あのとき、目を閉じて身体を眠らせていながら、二人の声を聞いていた。
 あんなことを、聞かなければ良かった。そうすれば、何も知らないままで安らかでいられたのに。
 聞いていなければならなかった。もしも知らずにいれば、自分はいつまでもそのことを悔いていただろうから。
「あのね、和司」
 彼の長い指に、汀は己の指を絡ませる。乾いた肌が触れあう。
「私はね、病気に罹っているの。肺が悪くなって、息が出来なくなる病気よ」
 汀は下を向いた。そして彼の手指をもてあそぶ。
「もう治らないの。お医者さまはあと一年だなんておっしゃるけれど、そんなにはもたないんだって、自分でもわかるわ」
 両のてのひらで、和司の手を包み込む。
「だから、側にいてほしいの」
 汀は、和司を見上げた。
「離れるんだと思うと、とても怖い。だから、私が生きている間だけでいいから、ずっと近くにいてちょうだい」
 彼の目に、訝りの光が宿った。汀は微笑んで、少し首を傾げた。
「忘れてもいいから。私が死んだら、私なんていなかったみたいに暮らしてもかまわないから」
 彼を真っ直ぐ見つめていることができず、汀は再び俯いた。
「お医者さまになるために外国に行くんでしょう? そして誰か、優しい女の人と結婚するのよ」
 彼が息を呑んだのが、気配でわかった。
「和司は、みんな駄目にしてしまうんでしょう。私のために、大事なものを捨ててしまうつもりなんでしょう」
 そんなことは嫌だった。彼が自分のためにそんなことをするくらいなら、自分などいなくなったほうがいい。
 本当は離れたくなどない。十年という長い時間を経て、望むことさえできなかった逢瀬がかなった矢先だというのに。彼が誓ってくれたように、十年後にここを出て、彼と暮らせたらどれだけ幸福だろう。
 けれども、そんなことは身のほど知らずな願いだとわかっている。自分は、今この瞬間さえ満たされていればそれでいい。けれど、和司は違う。
 本当は忘れてほしくなどなかった。いつまでも自分のことを覚えていてほしい。和司の思い出の中にいられるのならば、恐ろしいことなど一つもない。
 けれど、彼の未来までも欲しいとは思えない。自分には、今があればいい。
「……それでいいのか」
 汀は、口唇を噛んだ。
 頷こうとしたとき、和司の手が動いて、汀の身体を掻き抱いた。
「和司……」
「馬鹿だ。君は馬鹿だよ」
 彼は汀の首筋に顔を埋めた。彼の熱い額が、汀の鎖骨に押しつけられる。
「俺のことを考えているつもりなんだろう。でも本当は、少しも考えちゃいない。俺の気持ちなんか、君は、少しもわかってないんだ」
 顔を和司の左手に支えられ、汀はくちづけられた。胸が塞がれるような深いくちづけだった。苦しくて息も継げないような。痛みともいえるような悲しみと怒りが、汀に流れ込んでくる。
「もう二度と言うな」
 口唇を離し、彼はそれだけ言った。その響きは、威しにしては切なく、懇願にしては強すぎた。
 彼には、何一つ失ってほしくない。彼の大事なものを奪うことなど、汀にはできない。
 汀は、彼に、一番大切なものを手離させようとしていたのだ。最も残酷な方法で奪おうとしていたのだ。
 そう気がついたとき、今まで堪えていたはずの嗚咽が口唇から漏れた。目が潤み、手が震えた。きつく抱きしめられる。汀は、彼のシャツの襟を掴んだ。
 彼の温かい腕の中で、汀はまるで子供のように泣いていた。




 こんなにも気持ちに任せて涙を流したのは久し振りだった。きっと自分は、赤い目と腫れた瞼をしているのだろう。そんな顔を和司に見られたくはなかったけれど、どうしても言っておきたいことがあって、汀は顔を上げる。
「和司」
 彼が汀の髪を撫ぜた。
 和司の首に腕を回し、膝を立てて、彼に抱きつく。耳元に口唇を寄せる。
「……抱いてほしいの」
 彼の顔は見えなかった。きっと、困った表情をしているのだろう。
 彼の手が汀の肩にかかり、汀の身体を引き離した。彼は眉を寄せている。
「いけない。何かあったらどうする」
 汀は首を横に振り、彼の胸板に頭を押しつけた。
「お願いよ。知らないままでいたくないのよ」
「……初瀬」
 掠れた声が降ってくる。
「平気だから」
 大きな手に顎を取られた。顔を上げると、和司が頬を寄せてきた。それに応えて、柔らかく口唇を重ねる。
 長いくちづけを続けながら、和司が汀の身体をゆっくりと布団に倒した。汀は、和司の影にゆっくりと覆われていく。
 これほど慈しまれながら抱かれたのは、初めてだった。彼の指に触れられるたび、愛しさが胸に溢れて、汀はたまらなくなる。
「初瀬……」
 名を呼ばれても、返すことすらできなくて、汀は和司を抱きしめる腕に力を込めた。