静かの夜にぞ白は儚き
拾伍



 裏門をくぐってきた背の高い男を見たとき、綾は指先が震えるのを止めることができなかった。
「大学病院から、連絡をいただいてきましたが」
 そう言ったのは、年嵩の男のほうだった。
 その昼間、大学病院から香春郭にやってきた医者は二人。恰幅のいい人の良さそうな顔をした壮年の男と、青年と言っていい年齢の浅黒い顔の男。重そうな鞄を下げたその若い男は、先を歩く医者に厳しい顔つきで従っていた。
 裏口で立ち尽くす綾と視線が交わったとき、その青年は目を見開いた。彼は一言も口にしなかったが、その黒い切れ長の目は、百も二百ものことを綾に尋ねているようだった。一体何が起こったのか、二人はそんなことはまったく知らないのに、お互いに縋るように視線を絡ませていた。
 綾は、今朝この男を見たばかりだった。そのときは、彼を表玄関から送り出した。彼は汀を寝かせたまま、別れも告げずに、小雨の降る吉原の町へ出ていった。
「患者さんの部屋は、どちらですかな」
 茫然としていた綾に、医者がそう問いかけた。綾は慌ててこちらです、と彼らを案内した。けれど、その必要はなかったのだろう。若い医者は、西成は、汀がこの遊郭のどこに部屋を与えられているか知っているのだから。
 西成は黙ったまま、綾と医者の後を歩いていた。
 背後にびりびりとした気配を感じながら、綾は汀の部屋の襖を開けた。部屋は先ほど綾が掃除をしたので片づいており、中央に敷かれた布団に汀が横たわっているだけだった。医者は静かに布団の脇に膝を付いた。彼は痛ましい表情をして、汀の掛け布団を剥ぐ。
 西成は、敷居の向こうで立ち尽くしている。
「西成君、どうかしたのかね」
 呼ばれて我に返ったらしい西成は、慌てたように部屋に入ってきた。西成の揺れる瞳と目が合った。彼は一瞬後には、顔をそらすようにして鞄を下ろした。
「これから診てみますから。ああ、女将さんを呼んできてださいますか」
 そう頼まれて、綾はそっと外に出た。
 なぜ西成は医者とともにやってきたのだろう。なぜあんな目で綾を見たのだろう。彼は何も知らないのだろうか。汀が病に冒されていることも、そう長くは生きていられないということも。まったく知らなかったというのだろうか。
 汀は彼に何も話していなかったというのだろうか。
 何もわからなかった。
 何もわからなかったけれど、憤りだけがこみあげてきた。
 汀の優しさは酷薄だ。優しすぎて、誰かを傷つけずにいられないほど。
 綾は汀が好きだった。誰よりも尊敬している。けれど、綾は、汀を詰ることをやめられなかった。
「どういうことなんだい」
 そう女将に問われても、綾には返答のしようがない。
 ぼうっとした頭のまま女将を呼びに行って、綾は西成のことをたどたどしく伝えた。女将はしばらく何か考え込んでいたらしく、黙っていた。
「あたしも、わからないんです」
「西成様がお医者様だってことは知ってたよ。でも、こんな話は少しも聞いちゃいない」
 女将は苛々とした様子で、早足で廊下を歩く。
「汀は何も言わなかったのかい」
「……何も」
「きっと、西成様にだって、何にも話してなかったんだろうよ」
 そう言い捨てて、女将は目を伏せた。
 汀の部屋に着き襖を開けて、女将は医者に軽く会釈した。もう診察は終わっていたらしく、汀は元のように寝かされていた。西成は医者の少し後ろで、鞄を片づけているようだった。
 医者は女将の方に向き直る。女将は先ほどまでの動揺を包み隠して、冷静な表情に戻っていた。女将は医者に、静かに言った。
「申し訳ありません。急にお呼び立ていたしまして」
「ちょうど病院のほうにおりましたから、それはかまいませんよ。この間の検診から、発作が何度かあったようですね。薬はきちんと飲んでいたんでしょうが、あの量ではもう十分ではなかったんでしょうな」
「それで、この妓は?」
 医者は少し躊躇うように口を噤んだ。
「……すぐにでも病院へ来ていただきたいですね。病院では一日中看護婦が付きますし……今のままではどのみち、お仕事はできないでしょう」
「そうですね。ええ、そういたしましょう」
「今注射を打ちましたので、しばらくは目を覚まさないはずです。目が覚めましたら、ご本人にもそのようにお話をしておいてください」
「はい」
「そちらも準備にお時間がかかるでしょうから、用意が整いましたら、こちらの西成君までご連絡ください。私は少し大学病院を離れますので、その間だけ、私の患者さんは、彼に任せるつもりです。この患者さんは難しい病気でして、他の者には回せないと思っていたのですが」
 人の良さそうな笑みを浮かべ、医者は西成を見遣る。
「いや、若いからといって心配なさるようなことはありませんよ。彼はとても優秀でして、公費での留学の話も出ているほどなのですよ。なあ、西成君」
 西成は答えなかった。
 医者は襟元を整え、立ち上がった。
「ええ、それではそういうことで、失礼いたします。どうぞお大事に」
 綾も、客にいつもするように、そそくさと立ち上がって襖を開けた。だが、なぜか女将が綾を制して、二人を案内した。部屋に取り残された綾は、茫然としたまま立っていた。
 眠っている、汀の顔を見下ろした。
 白い小さな顔。いつまでも幼い、けれども時にはっとするほど艶やかな表情を浮かべる顔。それが今は、目は閉じられ、口唇は引き結ばれている。
 汀は確かに生きているのに、綾はそんな気がしなかった。
 今までと同じだ。綾が傍らにいた二年間、はたしてその間汀は生きていたのだと、断言することができるだろうか。死んでいたのと同じだ。自分のために生きられなかった長い期間、汀は生きていなかった。西成という男と再会して初めて、汀の心は生き返った。彼と一緒にいるとき、汀はあんなに幸せそうに笑っていた。
 そう気がついたとき、綾は部屋を飛び出して、廊下を駆けていた。裏口で誰かの草履を突っ掛けて、門を出て通りを見渡した。
 二人連れの男の後ろ姿が近くに見えたので追いかけたが、知らない人間だった。
 そのさらに先にも二人の男が見えた。混雑した通りを、人の間をぬって必死で走った。、大きな鞄を持った背の高い男と、太った背広の男が歩いている。
「西成さん!」
 呼びかけは雑踏に埋もれるように掻き消えた。
「西成さん!」
 西成の左袖に手が届いて、綾は夢中でそれを引っ張った。彼は振り向いて、驚いた顔をした。医者も何事かと綾を見つめている。
「お話ししたいことがあるんです」
 真摯な表情で言い募る綾に、西成は困惑したような表情を浮かべていた。眉根を寄せ、綾を見下ろしている。
「どうしても話したいんです」
「先生……少し、いいでしょうか」
 医者は西成と綾を見比べ、神妙な顔をして頷いた。
「かまわんよ。これから君が世話をするわけだから」
「ありがとうございます」
「私は忙しいから先に病院の方へ戻っておくよ。荷物は持って帰ってきたまえ」
 そう言って、恰幅のいい医者は、人の流れにのって行ってしまった。
 立ち止まっている綾と西成は、もう一度視線を交わらせた。