静かの夜にぞ白は儚き
拾四




 頭のほうから何か物音がして、汀は目を覚ました。うつ伏せのままそちらを見遣ると、床の間で花瓶に花を挿している綾の後ろ姿があった。
「綾ちゃん?」
 声を掛けると、綾は振り返っておはようございます、と挨拶をした。
「和司は、帰ったのね」
「まだ暗いうちに出ていかれましたよ」
 そう言って、綾は視線を手元に戻した。
 汀は腕を突っぱねて上体を起こした。乱れている髪を整え、窓を開ける。
 ほんの少しだけれども、雨が降っていた。和司は、この中を一人で出ていってしまったのだろう。起こしてくれればよかったのに、と汀は思った。
 霧がかかったように景色がけぶっている。もしもこの雨がひどくなったら、桜はみな散ってしまうだろう。汀はもう芽吹きはじめている木を見つめた。
「桜も、もうおしまいね」
 今年は開花が早かったぶん、花が落ちるのも早かった。
 来年はどうだろうと考えてみた。だが、もしかしたら、自分はその頃生きてはいないかもしれない。
 次の桜を見ることができるか、否か。それほどの命しか自分には残されていないのだった。
 和司は真摯な目で、待っている、待っていろと言ってくれたけれど。年季が明けるまで生きられる保障などどこにもない。
 けれど、和司を待つと誓ったときの自分に、嘘や偽りの気持ちはなかった。
 きっといつかは知られてしまうことになるだろう。それならば、自分の口から伝えたほうがいいのではなかろうか。和司にこそ、知っていてもらうべきではなかろうか。 次に彼がここへ来たとき、そのときに、みな話してしまおう。
 彼は話を聞いてくれる。わかってくれる。今はそう信じることができた。
 汀は窓を閉めた。
 急に胸が苦しくなった。汀は飾り窓の格子に縋ったが、畳に崩折れるのを止めることはできなかった。
 まただ。
 喉の奥がひどく熱く疼いた。うまく空気を吸うことができない。息を吐けば、針を飲み込んだように口腔が痛んだ。咳がとまらなかった。
 背を丸め、汀は激しく咳き込んだ。無意識のうちに掌で口を押さえていた。その手に濡れたような感触があった。見たくなかった。
「姐さん!」
 駆け寄ってきた綾が、汀の背をさする。
「姐さん、大丈夫ですか! 姐さん!」
 鮮血はとどまることなく掌に流れ、指の間から汀の白い襦袢に零れ落ちた。目の前が真っ白になる。
 いけない。目を閉じてしまったら、それで何もかもが終わってしまうような気がする。そう思ったけれども、汀は引き摺り込まれるように意識を失った。

                                      


 綾は、青白い顔をした汀を茫然と見つめていた。口唇から顎にかけてを真赤に濡らして、かたく瞼を閉じている。
 綾は汀が死んでしまったのではないかと思った。怖くてたまらなくて汀の口元に手を遣ると、息をしているのが感じられた。けれどもそれはほんのささやかなもので、今にも止まってしまいそうだった。
 女将に知らせなければ。そう思って、綾は腕の中の汀をそっと横たえ、部屋を飛び出した。
「お妣さん! お妣さん!」
 女将は帳場にいた。客の応対をしているらしかったが、そんなことに構う理由は綾にはなかった。
 女将は、駆けてきた綾の表情から、何が起こったか悟ったらしい。向かい合っている客に軽く会釈したあと、息を弾ませている必死の表情の綾を奥へ引っ張り込む。
 女将は強ばった顔をして、綾を見下ろした。
「汀、ひどいのかい」
「また発作を起こしたんです。今までで一番いっぱい血を吐いて、今姐さん、意識がないんです。あたし、姐さんが死んじゃうと思って、それで……」
 嗚咽をかみ殺し、綾は俯いた。女将は二度頷くと、綾の頭を抱き寄せて、自分の胸に押しつけた。しゃくり上げる綾を座らせると、女将は部屋を出ていった。
 綾は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。綾の着物の袖には、汀の血が塗りたくられたように染み付いていた。
 あんなひどい発作は、今までに見たことがなかった。西成が来るようになってから、汀はずっと元気だった。よく笑うようになり、発作の回数も減っていた。なにより、とても幸せそうだった。西成の話をする汀の表情には、病の影も見当たらなかったのに。
 膝の上で、綾は硬く拳を握り締めた。爪を立てた掌が痛んだけれど、そんなことはどうでもよかった。
 こんな不安はいつもあった。汀はいつか、遠くないいつかに死んでしまうのではないかと。そんな綾の懸念を知っていたからこそ、汀は病気のことを綾に伏せていた。
 人のことばかり考えて微笑んでみせるけれど、汀はいつも寂しそうだった。だから、西成と会って、汀が声を出して笑うようになったことが嬉しかった。汀が綾だけのものでいてくれなくなることは少し寂しかったけれど、綾は汀に幸せになってほしかった。
 その矢先にこんなことになるなんて。
 泣いてばかりはいられなかった。女将はおそらく大学病院へ電話をしに行ったのだろう。医者が香春郭へ来るとなれば、何も知らない客や娼妓たちは要らぬ詮索をするに決まっている。そういうときに、綾は汀の側にいなければならないのだ。
 綾は手の甲で涙を拭った。
 台所で盥に湯をもらい、綾は汀の部屋へ向かった。
 部屋には女将と手伝いの女が一人いた。汀は布団に横たえられていた。綾が入ってくると、女は入れ替わりに出ていった。
 綾は隣の控えの部屋に入って、新しい手拭いを二枚取り出した。手拭いを湯に浸し、硬く絞って、汀の汚れた顎を拭った。女将は立ったまま黙っていた。
「今度こそ、駄目かもしれないよ」
 女将が、ぽつりと言った。
「あんたは知らないだろうけどね。この妓、あと一年持たないって、病院で言われたんだよ」
 綾は、驚いて顔を上げた。
「手の施しようがないんだって。ろくに日に当たらないから、身体が弱くって手術もできないんだとさ。こういう女は珍しくないけど、あたしは、ここの妓にだけは、そういうふうになってほしくないんだよ」
 女将は、元々はここの遊女なのだと聞いている。そして彼女は、綾が知る限りでは、遊女に病死や情死をさせたことがない。年に一人か二人、年季が明けたか落籍されたかで香春郭をやめる者はいるけれども、廓で遊女を死なせるということはしていない。
 女将は汀の枕元に座り、汀の長い髪に触れた。
「もっと早いうちに、藤原様か吉崎様の所へやっておけばよかったのかね。そうしたら、こんな苦しい思いをしなくてすんだのかね」
 綾は目を伏せて、汀の薄い口唇で少し固まりかけている血を拭き取った。汀の膚は透けるように白く、少し冷たかった。
 もしも汀が誰かに落籍されていたら、ここまで病に蝕まれることは確かになかっただろう。こじんまりとした屋敷の一つでももらって、ずっと穏やかに暮らしていけただろう。
 けれども、綾には、汀がそれを望んでいたとは思えない。
「馬鹿だよ、この妓は」
 女将は、愛しげに汀の黒髪を撫ぜる。
「ずっと、あの方を待ってたんだね」
 女将はそれだけ言うと、立ち上がった。
「……もうすぐお医者様がいらっしゃるよ。部屋を綺麗にしとくんだよ」
 女将は出ていってしまった。
 綾は、目を閉じて横たわる汀を見つめた。









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