v 静かの夜にぞ白は儚き 拾弐



静かの夜にぞ白は儚き
拾弐




「……久し振り」
 先に口を開いたのは和司だった。
 もう二度と来てくれないかもしれないと思っていたから、正直に言ってしまえば、汀は嬉しかった。けれど、どんな顔をすればいいのかわからない。
「いつも、急なのね」
 彼と離れていた少しの間、汀は自分が廓に身を置く女なのだということを嫌というほど思い知らされた。
 ここから出ることも叶わず、ましてや彼に会いに行くこともできない。金を払ってくれる男を待つだけだ。昔は二人の間には何の隔てもなかったのに、今は金銭を挟まずしては、姿を見ることすら許されないのだ。
 そして、彼の言葉。
 好きだと言い、くちづけてくれたその口唇が、一瞬の後には汀を拒んだ。  抱いてほしいというのは、身の程知らずな願いだった。彼がどんなに初瀬のことを想っていたって、何百という男に春を鬻いできた身体を愛せるはずがない。
 和司は汀から目を反らすように下を向いていた。ふと綾の放っていった日傘が視界に入ったらしく、彼はそれを拾った。
「傘を?」
 そう尋ねられ、汀もどこかぎこちなく答えた。
「お客様から戴いたの。お花と一緒に」
 和司の顔がさっと強張った。
 汀はそれに気づかないまま、彼に背を向け、縁から部屋に入った。畳に投げ出されたままの大きな花束をとりあえず床の間に上げて、窓を閉めた。  和司は入ってこようとしない。
「どうしたの?」
 彼は日傘を握り締めて立っていた。
「和司?」
「……客を取ったのか」
 押し殺したような声だった。彼は怒っているのだろうか。女郎を抱きたくないと言った彼が。
「お客様はいらしていないわ。たぶん、それを届けてくださっただけ」
 でも、と汀は継ぎ足した。
「次からはここへいらっしゃると思うけれど。そうしたら、今みたいに暇ではいられなくなるわ」
 意地の悪い気持ちが働いている。こんなことを言っても意味がないのに。惨めになるだけなのに、自嘲せずにはいられなかった。一番好きな人には拒まれても、たくさんの客には抱かれるだろう自分が、滑稽で虚しかった。今までそんなことは考えてこともなかったのに。
「なぜそんなことを聞くの。和司には、関係ないじゃない」
 言ってしまった後で、ひどいことを口走ったと気づいたけれど、撤回はできなかった。「関係ないと思っているのか?」
 和司がゆっくりと近づいてきた。
「君が他の誰かと寝て、それで俺が平気でいられるとでも?」
 何を言われているのかわからなかった。手が届くほどの距離まで歩み寄って、彼は目を細めて痛々しげに汀を見下ろした。和司は何を考えているのだろう。
 こんな表情を、近頃目にしたことがある。あれは、藤原が最後に訪れたときだ。くちづけを拒絶した汀に、藤原が見せた自嘲。周りの人間に、自分はこんな顔をさせてばかりだった。
「私は、誰としても、もう何も感じないわ。和司は、そういう私が嫌なんでしょう?」
 堰を切ったように言葉が溢れた。
 それは和司も自分も傷つくような、刺だらけの台詞だった。
「私を汚いと思っているんでしょう。だから抱けないんでしょう」
「……初瀬」
「それなら、初めから、こんなところに来なければよかったのよ」
 初めは、一目見ることが出来ただけで満足していた。けれど、自分は我儘になって、望みは膨らんでいく。何かが欲しいと思うことは初めてだから、汀はどうすればいいのかわからなかった。願ってはいけないことだと知っていても、抑える術を持っていなかった。そうして、ますます惨めになる。
「……何もしてくれないくせに。何も知らないくせに」
 側にいられることで十分だった。子供のときのようにずっと寄り添っていられたら、それだけで幸せなはずだった。
 だが、自分は、それさえも喪ってしまうかもしれない。
 汀は俯いた。
「あ……」
 和司の手が、汀の左腕を引っ掴んだ。
 力任せに引き寄せられて、汀は抗う暇もなく彼の腕の中に捕えられた。ひどく性急に胸を合わせられ、汀は和司の顔を見上げる。
 彼は顔色一つ変えずに、暗い瞳で汀を見ていた。汀は彼から目を逸らすことができなかった。汀は気圧されていた。掴まれたままの左手が軋むような痛みを訴えるが、それに気をやる余裕などはなかった。
 ふいに身体が軽くなった。抱え上げられ、畳に仰向けに横たえられた。身体の下に彼の手が滑り込み、腰を支えた。覆い被さるように彼が重なってきてはじめて、和司が何をしようとしているのかに気がつく。
「や……」
 怖かった。
 身体を捩って逃れようとしたけれど、強い力で肩を押さえつけられ、縫い止められてしまう。  首筋をきつく吸われた。痛みと甘い痺れに気が遠くなる。乱暴に顎を掴まれ、貪るようにくちづけられた。振り切るように顔を背け、抵抗しようと腕を突っぱねる。
 視線がぶつかった。
 彼の目は、煮えたぎるような熱を宿していた。その彼の瞳が、小さく揺れた。
 彼の手が止まり、畳の上で握り締められた。汀は開かれた胸元を掻き合わせる。
 しばらくそうして見つめあっていた。
 和司の目から、凶暴な熱が次第に消えていく。和らいだ瞳の色は、どこか悲哀を感じさせた。和司は、痛々しい微笑を浮かべた。
「……君は何が欲しい?」
「かず……」
「もう来るなと言うのなら、二度とここには来ない。してほしいのなら、いくらだって抱いてやる。壊れるくらいしてやる」
 嵐が去った後のような静けさの中で、汀は茫然としていた。
 和司の言葉は、とても甘い誘いだった。それに頷くことが出来ないのは、彼の目を見てしまったからだ。
「……違うだろう? そういうことじゃないだろう?」
 呻くように彼は言い、汀の首に顔を埋めた。硬い髪が皮膚をくすぐる。
「汚いなんて、思ったことはないよ。でも、嫉妬しないわけじゃない。君は今まで、そうやって自分を傷つけさせてきたんだろ。辛い思いをしてきたんだろう?」
 和司は、汀が安易に自分を売ることが許せないのだ。自分を大事に思ってくれているからこそ、汀が自分を大切にしないことを怒るのだ。
 和司は、汀の鎖骨の辺りに額を押しつけた。
「俺は今は、そういうことはしたくない。……君がここから出られるようになったら。年季が明けたら、一緒に暮らそう」
 嬉しかった。抱きしめてくる腕の強さが心地よかった。
「……あと、十年も先のことだわ」
「待つよ」
「結婚できないのに?」
「しなくたっていい」
「子供を産めないかもしれないわ」
「かまわない」
「……私、これからもたくさんの人に抱かれるわ。お金のために」
「それは、悔しいよ。……でも、少しでも早く出て来られるように、俺も努力する」
 ここを出る前に、十年も経たないうちに、自分は死んでしまうのに。それでも彼は汀を待っていてくれるのだろうか。それだけは言えなかった。
 汀は和司の顔に手をやり、両手で頬を挟んだ。和司は穏やかな目で汀を見下ろしている。
 その瞳に曇りはなかった。
「……どうしたって、諦められない」
 彼は告げて、口の端を引き締めた。
「依怙地だわ」
「これくらい、どうということはないよ」
「それに、我儘だわ」
「……なぜ?」
「私も、十年待たなければいけない」
 彼は口を噤んだ。何かを深く考え込んでいるようだった。彼は眉を寄せ、少し厳しい顔をしたあと、苦笑した。
「……待ってくれるだろう?」
 答えを知っている彼の声は、少年の頃のようにとても優しい。





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