静かの夜にぞ白は儚き 拾壱 汀は自由に歩き回ることができるようになり、咲き始めた春の花を見るために時折庭に出た。 だが、たいていは、部屋の窓の側に座って、外を眺めている。 汀の視線の先には、いつも桜の木があった。 窓から見える景色は白一色だ。可憐で小さな花の群れに埋め尽くされている。 桜は今が最も美しい時期で、汀は一日中でも窓際に座っている。 風が吹くたびに花びらが部屋に舞い散って、綾は掃除が大変なのだけれども。 汀の最後の客は、二週間前に訪れた西成だった。それきり彼の訪いはなく、汀は、ここのところ一人も客を取っていない。 綾は、汀の膳を本館の調理場に下げに来た。 朝食のときに、女が四十人以上も並んで座っているいつもの様子を思い出し、綾は憂鬱になった。 本来ならば上座に座るはずの汀がいないから、食事の時間は、次席の華子が取り仕切る。 それが奇妙なくらい堅苦しい作法に則ったものだから、もともとよろしくない味の飯がますます不味くなる。 そんなとき、他の人間は汀が特別扱いをされていると思うのだろう。太夫だから許される我儘なのだと皆が思ってしまっているから、この前のように華子に嫌味を言われてしまうのだ。 「綾ちゃん、お茶碗そこに置いておおき」 中年の給仕が、何も載っていない台を指差して言った。もう朝食の後片づけは大方終わってしまったようだ。 調理場には、客に出すための料理だけを作る板前が一人と、給仕が二人いるだけだった。 「太夫さん、また残しちゃったの」 「これでも、食べてくれるほうなんですよ」 「そうなの?」 給仕の女が苦笑した。 「あたしだったら、こんなものでも残さないけど……」 綾もそう思ったが、返事をするのはやめた。この給仕も、太夫は不味いものは食べないのだと信じているようだ。 「それじゃあ、あたし、戻りますから」 暖簾をくぐって調理場から出ると、廊下に大きな荷物を抱えた女将がいた。 女将が運んでいるのは、花束と何か細長い包みだった。 運ぶのに難儀するほど大きな花束で、おまけにその細い包みが邪魔らしく、女将は少ししかめっ面をしながら歩いていた。 綾は手伝おうと思って駆け寄った。 女将は問答無用で綾に二つの荷物をそっくり押しつけてしまう。 「はいよ」 「えっ」 百合の花の向こうにいる女将を見ると、女将は済々したとでも言うような顔をしていた。 「汀のところにお見舞いだって。吉崎先生からだよ。帝国議会の帰りにね、わざわざ寄ってくださったんだって。花なんだから、さっさと持っていきな。花瓶も忘れるんじゃないよ」 きつい匂いに噎せかけている綾を放って、女将はそそくさと戻っていってしまった。 部屋まで持っていけと言われても、これでは前が見えない。 おぼつかない足取りで、綾は部屋に向かった。 綾は散々よろめきながらも、ようやく汀の部屋に辿り着くことができた。 試行錯誤して襖を開け、荷物をばさりと畳に落とす。 「綾ちゃん……?」 汀は大きな目をさらに見開いて、綾を見つめていた。 「どなたから?」 大きな花束を拾い、膝の上に載せて、汀は尋ねた。 「吉崎様からのお見舞いみたいです。あ、こっちも」 と、綾の左に転がっているものも差し出す。 汀は少し首を傾げたが、上品な手つきで紙を剥いでいく。 薔薇の柄の紙の中には、水色をした、縁取りにレースの使われた日傘があった。 「これ、パラソルですよ!」 綾がみたことがあるのは、大変派手な柄のものばかりだったので、いっそ簡素なくらいの意匠のそれは、とても好ましく思えた。 それも、吉崎の贈ったものであるのだから最高級品なのだろう。 期待に目を潤ませている綾を見て、 「ちょっとだけ、開いてみようか」 汀がいたずらっぽくそう言った。 「はい!」 汀と綾は部屋から出た。 陽の当たる中庭で、日傘を使ってみることにしたのだ。 二人は、縁側に並んで腰掛けた。 汀は子供のように足をぶらつかせていた。 汀が傘をまとめていた平紐を解いて、ゆっくりと傘を開く。 二人はそれを覗き込む。 陽に翳してみると、驚いたことに、無地であったはずの薄い青の布地に、精緻な唐草模様が浮かび上がった。 日光を僅かに透かし、模様が浮かび上がるような刺繍されていたらしい。 それは空のような色をしていても空ではなくて、草の這い回る庭のようでいてそうではなくて、とても不思議な景色だった。 ゆるく円を描く、狭い小さな世界に、二人だけがいるような。 「きれいねえ」 汀は、傘をゆうるりと回した。 唐草模様も、一緒に綾の上を巡る。 二人は飽きもせずに、しばらくそうしていた。 綾はちらりと汀を盗み見た。 汀は傘に見とれているようで、そうではなかった。 遠くを見ていた。 どれだけ無理をして微笑んでくれても、その目は嘘はつかない。 綾が部屋に入るために襖を開けるたび、汀の瞳はこちらに向けられている。 今まではなかったことだった。 汀が誰を待っているのか、それくらいは綾にもわかる。 おそらく、二人の間には何かがあったに違いない。 元気な振りをして、綾と一緒にはしゃいでくれる汀が寂しかった。 「先生に、お礼の手紙を書くわ」 汀は、見舞いの品を贈ってきた客全員に、感謝の手紙をしたためていた。 これまでも花やら食べ物やらいろいろな品が贈られてきたが、綾が一番趣味がいいと思ったのは、やはりこの日傘だった。 「今度は特別に、丁寧に丁寧に書かないとね」 汀は傘を綾に手渡した。 部屋に戻って、早速書くつもりなのだろう。 「もう少ししたら、お花を生ける、花瓶を貰ってきてくれる? それまで綾ちゃんはこのままでいいからね」 汀は立ち上がろうとした。綾は身体を捩って汀を見上げていたが、ふとその視界に人影が入った。 「あ!」 思わず出してしまった大声に、汀は中腰の姿勢のまま、まず綾を見た。 その後に綾の視線の先を見遣った。 汀は立ち尽くした。 こちらに向かって歩いてくる男が、西成だったからだ。 西成は少し怪訝そうな、気まずそうな様子をしていた。 対する汀も、喜んで声をかけようとはしなかった。 二人とも、何を言うでもなく見つめあっている。 大変絵になる光景だなあとは思ったけれども、同時に、自分はここに居てはいけないのではなかろうかとも思えてきた。 綾は急いで傘を畳み、あたし花瓶を取ってきますから、と小さな声で言って、小走りにそこから離れた。 あたしは、邪魔ものでしかないのかな。 逃げるようにして舞い戻ってきた自分は、一体二人のうちのどちらを妬んでいるのだろう。 恋人と逢瀬を重ねられる、特別な身分の汀をか。 大切な汀を独り占めしてしまう西成をか。 たぶんその両方なのだとわかって、二人を真っ直ぐに見られない自分をいやらしいと罵って、綾はもやもやした気分のまま、狭い自分の部屋に戻った。 |