静かの夜にぞ白は儚き 拾 初めて西成和司を見たとき、綾はなんて愛想のない男なのだろうと思った。 他の客ならば禿の綾を手懐けて汀の機嫌を取ろうとするか、そうでなければ挨拶をするていどは当たり前なのに、彼は一言も綾と口をきかなかった。 眼光鋭く、顔は浅黒くて、同じ年頃であるだろう藤原とはまったく印象が異なった。あの若さでこの香春郭に来られるということにだけは感嘆したが、半ば眠っている状態だった汀を買ったという事実も手伝って、綾ははっきり言って彼にいい感情を持っていなかったと思う。 けれど、汀は、彼が好きなのだという。 綾は汀の泣いた顔を見たことはなかった。汀の本当の名前も知らなかった。 彼女の一番近くにいるのは自分だと綾は自負していたが、今までずっと離れていた西成のほうが、ずっと汀のことを知っていた。それが悔しかったけれど、汀の笑顔を見て、綾はそう考えるのをやめた。 今綾が控えている部屋の隣には、汀と西成がいる。汀は、立つことさえままならない身体であるはずなのに、歩き、彼と話し、ときおり笑い声さえたてている。 汀は幸せなのだろうか。 そうあってほしいと綾は思った。 西成は仕事が残っているからと言って帰ってしまって、その後汀には客がなかった。それは汀にとっても綾にとっても有り難いことだった。 汀は明るい表情をして、大分具合が良くなったから風呂に入りたいと言った。それがどこか無理をしているようだったので、綾はまだ危ないと言い張り、一緒に入ることにした。 ついさっきまでは元気そうだったのに、今の汀は少し暗かった。 日曜は吉原のどこも賑わっている。人が少ないだろうから、汀と綾は昼間のうちに風呂場に行くことにした。 確かに先客は少なかったのだけれど、その先客が問題だった。風呂場の前で早苗を見たとき、綾はしまったと思ったけれど、汀はいいと言ってさっさと脱衣所に入ってしまった。 汀に常に反目している、年上の格子の華子だった。綾は彼女の禿の早苗ととても仲が悪い。そして華子が苦手だった。 風呂場はとても広いのだが、華子の他に人がいなかったので、無視するわけにもいかなかった。華子も来たばかりのようで、白くおしろいを塗りたくられた顔を洗おうとしていたところだった。おそらくは花魅道中から帰ってきたばかりなのだろう。 華子はこちらを振り返りもせずに顔を擦っている。 「……久し振り、華子姐さん」 「そう呼ばんでって、何回言ったらわかるとね?」 華子の声は少し低めで、高い天井の浴場によく響いた。 汀は華子よりも三つ年下で、香春郭にいる年月も水揚げからの時間も汀のほうがだいぶ浅い。だからこう呼ぶことは別段おかしくもないのだが、華子にとっては、汀が華子よりも高く位置づけられているから、自尊心が許さないらしい。 やはり、華子はこちらを見もしなかった。 汀はそんなことなど気にもしないで、彼女に微笑みかける。 「道中の後なのね、おつかれさま」 「誰かさんのおかげでへとへとよ。うちにまであんたの仕事が回ってくる」 汀が花魅道中に出なくなってから大分経つ。病気で入院しはじめた頃だから、もう二年近くになるだろう。その間、香春郭の花魅道中の花形を担ってきたのは華子だった。 眉墨が落ちて口紅が落ちて、華子は素顔に近くなっていく。けれども、彫りが深い顔立ちはきつさを失わない。 西欧の血が交じっている、という噂を聞いたことがあるが、本当なのかもしれない。 きついのは顔だけではなくて、言葉も口調もだけれど。 「あんたさっきまで、また部屋でお客さん取っとったって?」 湯船から湯を汲もうとしていた汀は、白い肩を揺らして華子を見た。手桶が汀の手から離れ、湯に沈んだ。 「……うん」 「いーい御身分やねえ。羨ましかよ」 本来ならば太夫の汀が果たすはずの務めを、今の香春郭では華子がしている。その苛立ちゆえに汀に辛くあたることはわからないでもないけれど、汀は病人なのだ。 仕方ないことなのに、汀はいつものように何も言い返さない。 皮肉っぽく笑って、華子は汀の横を通りすぎ、湯船に浸かった。 華子も、汀が反論しないことを知っていて話しをしてくるのだ。 「奥座敷で上得意のお客だけ取って、面倒くさいことは全部下に回しとる。それでいっぱしの太夫ば名乗っとるっちゃけん、御床上手はほんと得やねえ」 綾はもう少しで、大声を張り上げて華子を罵倒するところだった。でも、そんなことは汀が嫌がるだろうから、できなかった。 綾がたくし上げた襦袢の裾を握り締めていると、汀の澄んだ声が響いた。 「そう思える姐さんが、私は羨ましい」 汀は笑っていた。けれど、目は、憐れむような悲しげな光を湛えていた。 きっと、西成とのことを言っているのだ。 彼は汀の幼い頃を知っている人間なのだという。汀は彼のことを好きだったとも。 その頃の汀はおそらくはただの少女で、汀ではない別の名で呼ばれていた。将来遊郭に売られるなどということは知らなかったに違いない。 「……羨ましいわ」 汀は想ってきた人とは違う男と否応無しに寝なくてはならなくて、彼らを受け入れてきた。 できれば、閨の相手などしないままでいたかっただろう。綾だって、そんなことは嫌だ。 しかし、否と言えない客ばかりが汀を欲しがった。汀はそれを仕事のため、借金を返すためと割り切ることはできなかった。 そんな遊女が大半なのだろうが、華子は数少ない、そうではない遊女のうちの一人だ。 古い時代の花魅そのままと言ってもいいのだろう。座敷に出て、道中をやる。華子は遊郭務めに誇りを持つことのできる女なのだ。 華子は意外そうに目を見張って、寂しげな顔の汀を見上げた。 「華子姐さんのようになれればよかったのに」 ついさきほどまでの明るい顔が嘘だったように、汀は穏やかな表情をしていた。 汀は手桶を拾い、湯を頭から被った。 「綾ちゃん、背中を流してくれる?」 汀の黒髪は、湯を滴らせながら小さな顔を張り付いた。半開きの口唇は赤かった。 惚けたように二人の遣り取りを見つめていた綾は、はっと我に返った。濡れた床を駆けたので滑りそうになった。 華子はしばらく汀を見つめていたけれど、突然立ちあがって湯船から上がった。 「何よ。気持ち悪いこと言わんで」 慌てたように吐き捨てて、それからさっさと出ていってしまった。 綾は何と言えばいいのかわからなくなって、汀の身体を洗うために、黙って手拭いを湿した。 風呂場にあるのは水音だけだった。 「……綾ちゃんは、私みたいにはならないでね」 これはどういう意味なのだろう。 汀は何を望んでいるのだろう。 汀のような遊女にならないで、自分はどうするのだろう。 痩せた背中は、答えてくれなかった。 |