静かの夜にぞ白は儚き 九 「今は、大学の教授のところにお世話になっている」 畳の上の桜を払ってから、和司は座り込んだ。汀も彼に向かって正座した。 「中学の先生が目を掛けてくれて、大学に行かないかと言ってくれたんだ。その先生が大学の教授の知り合いで、俺は学校に行きながら手伝いをしてる」 「東京に出てきたのはいつ?」 「大学がこっちなんだ。出てきたのは六年前だな」 医者なのだと聞いたときは驚いたが、和司は賢い少年だったから、納得がいった。 きっと優秀な学生なのだろう。 「お医者様……」 汀はぽつりと呟いた。 独特の匂いを思い出すと、それとともに先日会った医者の顔も頭に浮かんだ。汀はあのとき、仕事をやめるよう勧められ、遠くない死を宣告された。 不安の落とす影を振り切るように、汀は話題を変えた。 「……お兄さんは、元気?」 汀を人買いに売った従兄だ。 あまりよくは覚えていないけれど、西成の家を出た頃、彼はだいぶ荒んでいた。彼を恨む気持ちはあるが、あれは仕方のないことだったと、汀は思えるようになった。 「ここ何年か帰っていないから、よくはわからないんだが、元気でやっていると思う」 「どうして帰らないの?」 「帰りたくないからだ」 それは単純すぎて答えになっていなかったけれど、少し暗い顔をした彼を見て、汀はそれ以上を聞くのをやめた。 「……いや、その、勉強で忙しかったり、仕事が重なったりして、時間がない」 付け足されたのは尤もな理由だったが、彼の瞳の翳りを隠せはしなかった。 「君は? 風邪はよくなったか?」 風邪などに罹ってはいないけれど、綾と女将以外には、病気のことは伏せてあるのだった。一番の馴染みの藤原も知らない。 「この間は熱があるようだったから、心配していたんだ」 ましてや、和司に話すことなど出来なかった。 「もう、平気よ」 「それならよかった」 彼は安堵した様子だった。 そんな和司を見て、汀も落ち着いた。 誰かに心配してもらうということは、大切に思われているという証拠なのだけれど、汀にとってそれはどこか苦くてくすぐったい。自分のせいで人が不安を感じてしまうというのならば、いっそ自分のことなど考えてくれないほうがいい。 「さっきまで、何を?」 「寝ていたの。他の妓は忙しいみたいだけど、私はお客様が来なかったから」 来ないのではなく女将が入れさせないだけなのだが。 「それで、俺を迎えに出てきてくれたのか?」 その通りだったけれど、嬉しそうな、悪戯っぽい声の和司に、少しだけ意地悪を言ってみる。 「たまたまよ。庭がきれいだったから、見ようと思って外に出たの」 すると、彼は笑った。 「花はまだだったような気がする」 やはり、年上の彼の方が一枚上手だった。 今度は汀も笑った。 「でもね、見て。桜は綺麗でしょう?」 和司は窓の外を見て、頷いた。 「もうすぐ満開かな。そういえば、大学病院にも桜並木があったんだ」 たった一本だけ植えられた桜は、汀の部屋の窓からしか見えない。毎年それを楽しむのは汀だけだった。 けれども、今は和司がそれを見てくれる。 汀が暮らしていた西成の離れにも、桜があった。まだ若い木で花は少なかったけれども、昔は和司と二人でよく眺めていた。あの木は大きくなったのだろうか。 「……大学病院?」 そう呼ばれているのは、東京では一つだけだ。 汀が月に一度ほど通っている所だ。 「俺は外科の医者だよ」 「本当に?」 「嘘なんかつかない」 自分たちは病院のどこかですれ違っていたのかもしれない。 そう思うと、何だか笑わずにはいられなかった。 けれども、すれ違い続けて、あのままずっと会うことが出来なかったかもしれない。 今こうやって彼と話すことが出来るのは、彼が自分を捜しに来てくれたからだ。そうでなければ、自分は未練を抱いたまま死んでしまっていただろう。 「どうした?」 考え込んでいた汀の顔を、和司が覗き込んだ。 その目は優しくて、懐かしかった。削げた頬の線、硬そうな髪、全てが生きているのだと思って、愛しさが溢れた。今度は、汀は俯かなかった。 和司は、汀の頬を両手で包み込んだ。それは確かめるような仕種だった。汀は掌を彼の手に重ねた。 「……大きな手」 「そうだな」 「温かい」 「……初瀬」 和司の顔が近くなる。 吐息が届くほどの距離。 「好きだ」 その言葉に、汀は、何か熱いものが胸に滲みていくのを感じた。 「……うん」 汀は少しばかり顎を反らし、目を閉じた。 口唇に温もりを感じた。 くちづけは穏やかな波のようで、汀は酔うようにそれを受け入れた。和司の背に腕を回す。 しばらくそうしていて、息が苦しくなった頃、和司は身体を離した。 それが寂しくて、汀は和司の腕を掴んだ。 腕に力をこめて、和司の肩に体重を掛ける。少しぼうっとしていた彼を、畳に倒した。汀は、乗り掛かるように彼を見下ろした。 彼は驚いたような目をして汀を見下ろしていた。 自分は彼が好きだった。 彼もそうなのだと言う。 こんなときどうすればいいのか、汀は知らない。人の気持ちを確かめる術は、相手と寝ることだけだった。 「……抱いて」 「はつ……」 「抱いて」 それは生きるための行為で、いつのまにか意味をなくしていたのだけれど。 和司の背広の胸に頬を寄せる。 こんなときどうすれば客が悦ぶか、客はどう思うのか、汀は知っていた。 知っていたのに、彼が欲しいと思うのに、汀は出来なかった。 「お願い……」 汀は、たくさんの客に欲しがられて、金を積まれてきた。それはここでは何にも勝る栄誉だった。 汀はあまりそういうものに固執したことはないけれど、他の遊女よりもいい待遇をされているという自覚はある。それは感謝すべきことで、ましてや悔いることではないはずだ。 真っ直ぐな目で見つめてくる、和司が怖いのはなぜなのだろう。彼の中に真摯さを見つけるたびに、自分の汚れを思い知らされた。だから、抱いてもらえなければすまないような気がした。 「……抱かない」 顔を上げ、彼を見つめた。彼は厳しい顔をしていた。 汀は和司の上から退いた。彼は起き上がって、おびえた目をした汀と対峙する。 「そういうつもりで来たんじゃない」 和司は視線を落とした。 「……もう、帰るよ。仕事の合間を抜けてきたから、教授に迷惑がかかる」 汀が止める暇もなく、彼は急かされるように出ていってしまった。 自分は、間違えてしまったのかもしれない。 そう思ったとき、側には誰もいなかった。 |