静かの夜にぞ白は儚き





「今は、大学の教授のところにお世話になっている」
 畳の上の桜を払ってから、和司は座り込んだ。汀も彼に向かって正座した。
「中学の先生が目を掛けてくれて、大学に行かないかと言ってくれたんだ。その先生が大学の教授の知り合いで、俺は学校に行きながら手伝いをしてる」
「東京に出てきたのはいつ?」
「大学がこっちなんだ。出てきたのは六年前だな」
 医者なのだと聞いたときは驚いたが、和司は賢い少年だったから、納得がいった。
 きっと優秀な学生なのだろう。
「お医者様……」
 汀はぽつりと呟いた。
 独特の匂いを思い出すと、それとともに先日会った医者の顔も頭に浮かんだ。汀はあのとき、仕事をやめるよう勧められ、遠くない死を宣告された。
 不安の落とす影を振り切るように、汀は話題を変えた。
「……お兄さんは、元気?」
 汀を人買いに売った従兄だ。
 あまりよくは覚えていないけれど、西成の家を出た頃、彼はだいぶ荒んでいた。彼を恨む気持ちはあるが、あれは仕方のないことだったと、汀は思えるようになった。
「ここ何年か帰っていないから、よくはわからないんだが、元気でやっていると思う」
「どうして帰らないの?」
「帰りたくないからだ」
 それは単純すぎて答えになっていなかったけれど、少し暗い顔をした彼を見て、汀はそれ以上を聞くのをやめた。
「……いや、その、勉強で忙しかったり、仕事が重なったりして、時間がない」
 付け足されたのは尤もな理由だったが、彼の瞳の翳りを隠せはしなかった。
「君は? 風邪はよくなったか?」
 風邪などに罹ってはいないけれど、綾と女将以外には、病気のことは伏せてあるのだった。一番の馴染みの藤原も知らない。
「この間は熱があるようだったから、心配していたんだ」
 ましてや、和司に話すことなど出来なかった。
「もう、平気よ」
「それならよかった」
 彼は安堵した様子だった。
 そんな和司を見て、汀も落ち着いた。
 誰かに心配してもらうということは、大切に思われているという証拠なのだけれど、汀にとってそれはどこか苦くてくすぐったい。自分のせいで人が不安を感じてしまうというのならば、いっそ自分のことなど考えてくれないほうがいい。
「さっきまで、何を?」
「寝ていたの。他の妓は忙しいみたいだけど、私はお客様が来なかったから」
 来ないのではなく女将が入れさせないだけなのだが。
「それで、俺を迎えに出てきてくれたのか?」
 その通りだったけれど、嬉しそうな、悪戯っぽい声の和司に、少しだけ意地悪を言ってみる。
「たまたまよ。庭がきれいだったから、見ようと思って外に出たの」
 すると、彼は笑った。
「花はまだだったような気がする」
 やはり、年上の彼の方が一枚上手だった。
 今度は汀も笑った。
「でもね、見て。桜は綺麗でしょう?」
 和司は窓の外を見て、頷いた。
「もうすぐ満開かな。そういえば、大学病院にも桜並木があったんだ」
 たった一本だけ植えられた桜は、汀の部屋の窓からしか見えない。毎年それを楽しむのは汀だけだった。
 けれども、今は和司がそれを見てくれる。
 汀が暮らしていた西成の離れにも、桜があった。まだ若い木で花は少なかったけれども、昔は和司と二人でよく眺めていた。あの木は大きくなったのだろうか。
「……大学病院?」
 そう呼ばれているのは、東京では一つだけだ。
 汀が月に一度ほど通っている所だ。
「俺は外科の医者だよ」
「本当に?」
「嘘なんかつかない」
 自分たちは病院のどこかですれ違っていたのかもしれない。
 そう思うと、何だか笑わずにはいられなかった。
 けれども、すれ違い続けて、あのままずっと会うことが出来なかったかもしれない。
 今こうやって彼と話すことが出来るのは、彼が自分を捜しに来てくれたからだ。そうでなければ、自分は未練を抱いたまま死んでしまっていただろう。
「どうした?」
 考え込んでいた汀の顔を、和司が覗き込んだ。
 その目は優しくて、懐かしかった。削げた頬の線、硬そうな髪、全てが生きているのだと思って、愛しさが溢れた。今度は、汀は俯かなかった。
 和司は、汀の頬を両手で包み込んだ。それは確かめるような仕種だった。汀は掌を彼の手に重ねた。
「……大きな手」
「そうだな」
「温かい」
「……初瀬」
 和司の顔が近くなる。
 吐息が届くほどの距離。
「好きだ」
 その言葉に、汀は、何か熱いものが胸に滲みていくのを感じた。
「……うん」
 汀は少しばかり顎を反らし、目を閉じた。
 口唇に温もりを感じた。
 くちづけは穏やかな波のようで、汀は酔うようにそれを受け入れた。和司の背に腕を回す。
 しばらくそうしていて、息が苦しくなった頃、和司は身体を離した。
 それが寂しくて、汀は和司の腕を掴んだ。
 腕に力をこめて、和司の肩に体重を掛ける。少しぼうっとしていた彼を、畳に倒した。汀は、乗り掛かるように彼を見下ろした。
 彼は驚いたような目をして汀を見下ろしていた。
 自分は彼が好きだった。
 彼もそうなのだと言う。
 こんなときどうすればいいのか、汀は知らない。人の気持ちを確かめる術は、相手と寝ることだけだった。
「……抱いて」
「はつ……」
「抱いて」
 それは生きるための行為で、いつのまにか意味をなくしていたのだけれど。
 和司の背広の胸に頬を寄せる。
 こんなときどうすれば客が悦ぶか、客はどう思うのか、汀は知っていた。
 知っていたのに、彼が欲しいと思うのに、汀は出来なかった。
「お願い……」
 汀は、たくさんの客に欲しがられて、金を積まれてきた。それはここでは何にも勝る栄誉だった。
 汀はあまりそういうものに固執したことはないけれど、他の遊女よりもいい待遇をされているという自覚はある。それは感謝すべきことで、ましてや悔いることではないはずだ。
 真っ直ぐな目で見つめてくる、和司が怖いのはなぜなのだろう。彼の中に真摯さを見つけるたびに、自分の汚れを思い知らされた。だから、抱いてもらえなければすまないような気がした。
「……抱かない」
 顔を上げ、彼を見つめた。彼は厳しい顔をしていた。
 汀は和司の上から退いた。彼は起き上がって、おびえた目をした汀と対峙する。
「そういうつもりで来たんじゃない」
 和司は視線を落とした。
「……もう、帰るよ。仕事の合間を抜けてきたから、教授に迷惑がかかる」
 汀が止める暇もなく、彼は急かされるように出ていってしまった。
 自分は、間違えてしまったのかもしれない。
 そう思ったとき、側には誰もいなかった。





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