静かの夜にぞ白は儚き










 いつ、発作を起こすかわからないんです」
 誰かの声が遠くで聞こえた。もう少しだけ休んでいたい、そう思ってはじめて、汀は自分が眠っていたのだと気がついた。いつの間に寝てしまったのだろう。
「お客様なんか、入れられません!」
 甲高い、綾の声だった。
 布団の中からそちらを見やると、半開きの襖の前に綾が立っていた。縁側にいる誰かと口論しているらしい。
「あんたが四の五の言う問題じゃないんだよ。汀をお出し」
 声は女将のものだった。彼女は綾を押し退けて部屋に入ってきて、汀の枕元に立った。綾の大声のおかげで、頭がだいぶはっきりしている。近頃では珍しいことだ。
「起きてるじゃないか」
 女将はいつもと変わらず背筋を伸ばした姿勢で、顔だけを傾けて汀を見下ろした。汀は僅かばかり顎を上げる。綾は女将の向こうから、不安げに汀を見つめていた。
「お妣さん」
「さすがに顔色はよくないね。今日も食べてないのかい」
「……今日……?」
 日付が変わったことさえも知らなかった。
「あきれた。あんた、昨日からずっと寝てたのかい」
「たぶん……」
 女将はその声とは裏腹に、目を細めて痛々しげな顔をした。彼女はまだ四十にはならないはずなのだが、遊女であった頃に大分苦労をしていたのか、目許や口許には深い皺が刻まれている。それでも女としての艶を失わない彼女を、汀は好ましく思う。
「日曜のお昼だよ。あんた以外は、みんな大盛況さ」
 言っているのは、他の遊女のことだろう。ではその忙しい時間帯に、女将がここへやってくるとはどういうことなのだろう。彼女はかつて自分もそうであったせいか、娼妓たちの私室にむやみに入るような真似はしないのに、綾を退けてまで無理に入ってくるなどとは。
「お客様?」
「ああ」
「どなた?」
「……西成様だよ」
 掛け布団を剥ぎ、汀は起き上がろうとした。綾が慌てて止めようとしたけれど、汀はいいと言った。
『嘘ついたままでいいのかい。このまま会えなくなってもいいのかい』
 いいはずがなかった。誤解させたまま離れてもう二度と会えなくなってしまうなんて、怖かった。夢のような淡い幻で、自分たちを終わらせたくはなかった。
「お会いするんだね」
「はい」
「姐さん、そんな、無茶です」
 心配そうな綾の声。
「私は構わないから。もういらしているんでしょう? 少し待っていただいてください」
「わかったよ」
 女将は厳しい顔をして頷いた。
 軋むような痛みを訴える身体を叱咤して、汀はゆっくりとだが、立ち上がることが出来た。
「綾ちゃん、お化粧してちょうだい。こんな顔じゃ、あの人には会えないの」
 綾はまだ何か言いたげな顔をしていたが、黙って汀に化粧を施してくれた。
 口紅を塗る少し荒れた指先が震えているのに、汀は気づいていた。
 鏡の中にいる女の顔を、汀はじっと見つめた。
 大きな暗い瞳、膚は青白く透けそうで、目許には隠し切れなかった隈がある。口唇だけがいやに鮮やかな紅色をしていた。頬にかかる髪が影を作って、いっそうその顔を翳らせている。
 こんな自分を見ても、和司は汀が初瀬なのだとわかってくれた。それはきっと彼を想いながら別の男に身体を開いていた自分への皮肉などではなくて、今まで死なずに生きていた私への、私からの餞なのではなかろうか。だから、両手一杯にそれを受け取っても、罰は下らないのではなかろうか。
 そう思うと気が紛れて、汀は、今にも気持ちを萎えさせてしまいそうな己に向かって微笑んだ。
「……姐さん」
「なあに」
「西成様は、姐さんの、好きな人なんですか?」
 汀は鏡越しに綾を見た。
「そうなんでしょ」
 綾は潤んだ目をしながらも、悪戯っぽく言った。
「うん」
 躊躇いなくそう答えることができた。
 口唇を噛み締めると、舌に紅の不思議な味が残った。
 汀は綾を化粧部屋に置いて、寝室を通り過ぎて、中庭に面した縁へ出た。彼を迎えるために。
 部屋の窓から見る桜はもう満開なのだが、香春郭の中庭にはまだ花は少なかった。今年の桜は、いつもよりも早咲きだったらしい。芍薬や牡丹には時期が早すぎた。黄色の水仙が、花の落ちたあとの梅の木の下に見えた。小さい花は愛らしかった。
 見惚れるでもなく庭に意識を遣っていたから、汀は、彼が現れたことに気がつかなかった。
「初瀬」
 低い優しい声が、汀を引き戻した。
 視線の先にはネクタイの結び目があって、少し顔を上げると、和司の顔があった。 和司は少し驚いたような顔で汀を見下ろしていた。
 汀は息を呑んだままだった。
 汀は、何か言わなければいけない言葉があると思ったのだけれど、そんなことを思い出せないくらい、和司に会うことが出来たという事実が大き過ぎた。
 これは片肘を張って自分も彼も傷ついたときとも、夢なのだからと言い聞かせ終わりを恐れていたときとも違う。
 彼は和司で、自分は初瀬でも汀でもある。
 彼の姿が目に染みて、輪郭がぼやけてきた。
 もっとはっきり彼の姿を見ようと思って目を凝らしたけれど、和司の顔はだぶったり揺れたりしていた。目を擦ると、指先が温かく濡れた。
 冷たくしたり、弱くなってみたり、いきなり泣いてしまったり、自分は彼の前では何て不安定なのだろう。
 そんな自分が恥ずかしくて目を落とすと、和司の黒い背広の肩に、白い小さなものが付いていた。それは何かの花びらのようだった。
 汀は手を伸ばして、それに触れようと思った。
 指先は彼に届き、その花片を摘み上げた。
 それはしなやかで温かかった。
 何の花だろう。
 そう思って手を戻そうとしたとき、汀の手を、和司が掴んだ。
 彼は強くない力で汀の腕を引き寄せ、汀を柔らかく抱き締めた。肩に回った腕は壊れそうなものを扱うように無器用だった。
 汀はもっときつくしてほしくて、和司の背を抱く手に力を込めた。
 彼の洋服越しの身体の熱を、汀は確かに感じていた。頭を首筋に埋められたので髪が肌にかかった。その硬さも、自分を抱き締める腕の強さも、疑いようもなく本物だった。
 だから、汀は自分はまだ生きているのだと思えた。
 離れることは考えたくなかった。
 このまま彼の腕の中で死ねたら、どれだけ幸せなことだろう。
 そう思ったけれど、そうするよりも彼にずっと抱き締められていることのほうが幸せなのだと思った。
 胸に顔を埋めると、つんとした匂いがした。病院独特のものだ。汀は最近頻繁に病院に通っているから、嫌でも覚えてしまっていた。
 汀は少し身体を離す。
「……どこか、悪いの?」
「ん?」
「病院の匂いがする」
「ああ、まっすぐここに来たんだ。そんなにきついか?」
 言って、彼は自分の腕を見下ろした。
「怪我?」
「なぜ?」
「病院へ行ったんでしょう?」
「怪我なんかしてないよ。話しただろう? 俺は医者なんだぞ」
 聞いた覚えがなかった。汀は惚けたように和司の話を聞いている。
「知らなかった」
「嘘だろう。俺が医者だと言ったら、君はすごいって驚いていたぞ」
 それはもしかしたら、自分が薬で朦朧としていたときではなかろうか。心地よく微睡んでいた途中の記憶はあまりなかった。
「そのときはきっと、ぼんやりしていたのよ」
「俺は一晩中話していたのに?」
 彼は少し怒ったような目をしていた。けれどそれは、いつかに汀が彼の髪型をからかったときの優しい目に似ていた。
 入りましょう、と言って、汀は襖を開けた。窓から陽が入っていた。風が吹き込んだのだろうか、桜の花が蒲団や畳の上に散らばっていた。
「もう一度話してほしいわ。初めから」
 眠りかけて彼の話を聞いていなかったなんて、勿体無いことだと思った。

 

←back top next→