静かの夜にぞ白は儚き




 自分は目を覚ましているのだろうか。それとも夢うつつなのだろうか。何もかもがぼんやりとしていて、輪郭を持っていなかった。まるで霞がかかっているかのように視界がけぶる。
 月明りが少しばかり零れていた。窓が開いているらしい。桜の木の影が見えた。
 汀は布団に仰向けに寝ている。
 誰かの手がゆっくりゆっくり髪を梳く。ときどき耳に手が触れてくすぐったかったけれど、汀はなすがままになっていた。手の主が誰なのかはわからなかった。だが、その指先が心地よかったので、そんなことは気にならない。
「……初瀬」
 懐かしい名前。今の自分の周りには自分をそう呼んでくれる人はいないはずだから、これはやはり夢なのだろう。ずっと昔の、もう戻れない頃の。
「なあに」
 答える汀の声は童女のようだ。
 目を凝らすと、見覚えのある顔が暗闇の中に見えた。大好きな、大切な面影。それは十年前の少年ではなくて、この間別れを告げた、大人の彼だった。
 なんて贅沢な夢だろう。
 もう会わなくていいと諦めたはずなのに、夢の中で、和司はこんなに近くにいるのだ。
 そう、昔のように。
 彼は髪を梳くのをやめた。
「俺のことを、恨んでいるんだろう?」
 和司は低い声で尋ねた。
 これはひとときの幻だ。だから、醒めないうちに本当のことをみんな喋ってしまおうか。
「……少しだけ」
「俺は初瀬を置いていった。その間に兄貴は君を売って、俺には何もできなかった」
 自分を責めないでほしかった。そうすればするほど、今までの自分が惨めに思えてくるからだ。
「あなたは子供だったもの」
「……ああ」
「私のこと、探してくれていたの?」
「ああ」
「どうして、どうして探してくれたの?」
 彼は口を噤んで、黙り込んでしまった。少しして、彼は少年のようにはにかんで、言った。
「初瀬に会いたかったからだ」
「……本当に?」
 彼の笑みが深くなった。
「今まで、辛かったか?」
 和司の手が、汀の額の上に乗せられた。和司の掌は冷たくて、気持ち良かった。
 汀は答えずに、曖昧に微笑んだ。
 自分のせいで汀が辛い思いをしてきたのだと、彼は考えているのかもしれない。だとしたら何だか寂しかった。彼はただ、会って謝るために来たのだろうか。
 和司の手が汀から離れた。彼は膝の上で両拳を握り締めた。
「すまなかった」
「謝るのは、私のほう」
「なぜ?」
「ひどいこと言ったでしょう。会わないほうがいいとか、買うつもりなのかとか。私、昔と全然違ったでしょう」
「……少し、驚いたよ」
「あんなことを、言えるようになったのよ。自分を守るために、あんな顔を使えるようになったの」
「そうか」
「嫌いにならない?」
「ならないよ」
 彼は、汀を否定しなかった。何を言っても彼は頷いてくれるのかもしれない。何をしても許してくれるのかもしれない。そんな甘えた考えが頭を過った。
 汀は和司のほうへ手を伸ばした。静かな部屋に、衣擦れの音が響いた。
 あまり自由のきかない身体を起こして、和司の肩に手を掛ける。
「初瀬?」
 縋るように彼を見上げ、首に腕を絡めた。夢の中なのに、彼の匂いをはっきりと感じることが出来るのは、なぜなのだろう。
 和司の背広の肩口に、頬を預ける。彼の身体は硬かった。綾の柔らかい腕や胸とは違ったが、これはこれでいいものだと思った。
 彼は不思議そうな顔をして汀を見ていた。
 そんな和司に、汀は、ふれるだけのくちづけをした。
「……好き」
 それは、倣い覚えた遊女の手管ではなく。
 心の底からの、渇いて干からびてしまいそうな、もう本当にこれ以外は自分の中にはなにも残っていない気持ち。
 彼の顔を見るのが怖くて、汀は俯いてしまった。嫌悪するだろうか。怒るだろうか。それとも、憐れむのだろうか。
 冷たい言葉は欲しくなかった。夢の中なのだから、たとえ嘘でもいいから、甘くて優しい返事が欲しかった。
「ああ」
 和司の強い腕が、汀の身体を支えた。
 彼の腕は温かくて、汀は彼の背に腕を回し、彼がどこかへ行ってしまわないようにきつく抱き締めた。背に爪を立てて、胸に顔を押しつけ、ただ目を閉じて彼を感じていた。
 夜が明けても忘れないように。離れても忘れてしまわないように。
 この夢が醒めないように、汀は意識を繋ごうとしたけれど、いつしかそれは彼の体温に溶けていくように、なくなっていった。




「姐さん。もう、お昼になりますよ」
 そんな綾の声で目を覚ました。綾はいつものように汀の布団の周りで立ち働いていた。窓が開けられていて、陽射しが少し眩しい。
 汀は、幸せな夢の余韻で、心が穏やかだった。
「お客様、もうとっくに帰っちゃいましたよ」
「お客様?」
 綾は何を言っているのだろう。昨晩は客などいなかった。昨日は一日中床に伏せていた。薬を飲んだせいで眠くなっていて、ずっと微睡んでいた。
「覚えてないんですか?」
 綾は枕元に座って、汀の顔を覗き込んできた。夢の中の和司が、そうしていたことを思い出す。
「お客様なんて、いなかったじゃない」
「いましたよ。姐さん、喋ってたじゃないですか」
「喋って……?」
「お妣さんは、初会の方だから無理はしないだろうって言ってました」
「私が寝ている間に帰られたの?」
「そうですよ。また近いうちに来るって、おっしゃってましたよ」
「……若い……方?」
「それはもう。藤原さまと同じくらいでした」
「洋服を着ていて、髪は短かった」
「なんだ。覚えてるんじゃないですか」
 綾は真面目な顔をしていた。
 あれは、夢ではなかったのだろうか。
「嘘……」
「姐さん?」
 綾は不思議そうな顔をしている。
 あの夢は、夢ではなかったのか。
 汀は腕を突っぱねて乱暴に身体を起こした。綾はそれを慌てて止める。
「お妣さんがその方を入れたのね?」
 女将のところへ行かなければ。どういうつもりなのか、話を聞かなければ。
「その方は、また来るっておっしゃっていたのね?」
「え、はい」
 綾は戸惑った顔で、小袖を羽織る汀を見ている。
 汀は慌ただしく襖を開けた。
「お妣さんのところへ行ってくる」
 短くそう告げて、汀は部屋を出た。
 険しい顔つきで廊下を突っ切る香春郭の太夫を、すれ違う客や遊女は目を丸くして見ていた。汀はもともと大勢の前に姿を現わすことをあまりしないから、たまに外へ出たときは注目されるのが常なのだが、今日は汀の様子が違う。小袖に帯も巻かぬまま、背に垂らした髪を乱して、走るように帳場を目指した。
 はたしてそこに女将はいて、一昨日に発作を起こしたばかりである上に、太夫にあるまじき格好で掛けてきた汀を見て眉を寄せ、そのあといつものように凛とした声で言った。
「どうしたんだい」
 言いながら、女将は汀の背後に回って髪を直し、ずれていた着物を着せ掛けた。
「昨日の、お客様のことです」
「ああ」
「この間、ここにいらした方ですね」
「そうだよ」
「どうして入れたんですか? 私はあの方を振ったんですよ!」
「大きな声を出すんじゃないよ。あんた、胸に響くだろう」
 女将は顔色ひとつ変えずに帳場の奥の小部屋へ向かう。汀はそれに従う。
 女将は汀の分も座布団を敷いた。
 向かい合って、汀は真っ直ぐ女将の顔を見た。女将は泰然としている。
「お妣さんはいつも、私がたくさん客を取ろうとしたら、嫌な顔をするでしょう。それなのに、どうして私が振ったお客様を入れたりなんかするんですか」
「あんたは今、御泊まりのお客様を取ってないだろ? 深江様も近藤様も、あんたが病気だって聞いて御予約をやめなすったんだよ。でもあの方は初会の方だったしあんたを悪いようになさるとは思わなかったから、あたしが入れたんだよ」
 女将は厳しい口調で言った。汀は、何も言い返すことが出来ない。
「あんたの知り合いじゃないんなら、お断りする理由はないじゃないか。あんたは、他の全てのお客様はよくって、あの方だけは駄目なのかい。それとも、本当は知り合いなのかい」
 汀は、女将の認めた客ならば、言われるままに会ったし、抱かれてきた。財力があり社会的地位がある男たち。その中には、妻がありながら戯れに遊女を買う男から、藤原のように熱を上げて通ってくる者までさまざまだったけれども。
 それを今更、と女将は笑った。
 汀が彼と繋がりのある人間なのだと、彼女は知っているはずだ。その上で、わざわざ話を拗らせるためのように和司を汀と会わせた。汀には、口の端でからかうように笑んでいる、女将の真意が掴めない。
「あの方は十分に花代を支払ってくださったよ。あんたが身体がよくないって言ったら、無理はさせないともお約束なさった」
「……病気のことを、話したんですか?」
「風邪をこじらせたってね」
「……そうですか」
 汀は立ち上がった。
「おや。もういいのかい?」
「……私、もう、あの方には、会いません」
 返事を待たずに部屋を出ようとした。そのとき、静かな声に呼び止められた。
「初瀬」
 汀は、無意識のうちに振り返った。女将が自分をそう呼んだのは、実に五年振りだった。水揚げのとき女将に汀の名を貰ったときから、初瀬の名は忘れられたものだと思っていた。
「あんた、ここをやめたいと思ったことはないのかい」
 女将の顔からは薄笑いが消えていた。
 楼主は、普通の値よりも高く汀を買い上げた。その分汀の年季は長い。汀は二十八になるまで、ここを出られない決まりになっている。太夫であっても、借金に縛られることに変わりはない。むしろ、その逆だろう。
 今度は、汀が笑った。
「やめられないでしょう」
「それじゃあ、あんた、年季が明ける前にここで死ぬよ」
 汀にとって、死は、そう遠いところにあるものではない。医者の話ではもう何年ももたないというし、早く駄目になってしまうこともあるという。
 今まではそれに何の感慨も持ってはいなかっけれど、今は少し違うような気がする。死と自分の間に何かが、とても小さいのだけれど、確かにあるような気がするのだ。
 でも、それを誰かに知られてしまうのは恥ずかしいと思った。
「しかた……ありません」
「無縁仏になるんだよ。死んでも、あんたは一人っきりになるんだよ」
「お妣さんには、関係ないでしょう」
 女将の顔が苦しげに歪んだ。女将は押し殺すような声で言った。
「本当にそう思ってるのかい」
 思ってはいないけれど、今頃こんなことを言っても、寿命が伸びるわけではない。後悔して今までの時間を悲しむことはしたくない。
「あの方は、あんたの、大事な人なんだろ?」
 女将は汀をひたと見つめて、静かにそう言った。
「あんたはいつも、何でも受け入れるみたいに謙ってるね。どんなお客様にだって従順だよ。でも、あの方だけは違ったね? あんたはあの方の前で初めて、自分から何かを思ったんだろ?」
 けれど、それが本当だとしてもどうなのだろう。自分はここから出ることができなくて、和司に嫌われることはしたくない。客として彼が来ることなど望めない。
 それでも近くにいたいという気持ちはどうすればいいのかわからなくて、いつものように押し殺してしまうことにした。それは一番苦しいけれど、一番手っ取り早い方法で、汀は子供の頃からそれしか知らなかった。
 汀は口唇を噛み締めて、俯いた。
「あんたはそうやって、下を向いて、何にも言わないけどね。いつまでもそのままでいいのかい。言いたいことの一つも言えないまま、嘘ついたまま、会えなくなってもいいのかい」
 女将の声は少し震えていた。汀はそれを聞きながら、目を閉じた。ゆっくりと息を吐く。
「私は、娼妓だもの」
「そんなこと、あの方は初めから承知なんじゃないのかい」
 汀の肩が揺れた。
 冷たくあしらい、ひどい言葉を浴びせかけても、彼は汀を呼び止めた。自分が初瀬なのだと、嘘を吐いているのだと知っていて、何もかもわかっていて、それでも自分を欲しいと言ってくれた。
 一番大事なことに気がついていなかったのだと、汀は悟った。





←back top next→