静かの夜にぞ白は儚き 陸 藤原が約束を守って登楼したのは、水曜の夕刻だった。 律儀に連絡を寄越し、客を取らせられないと言った女将と話を付けてから、彼は汀の部屋に来た。 「……身体の具合はどうだい」 「だいぶ、いいです」 果物の入った籠を下げた藤原は、襖を静かに閉めた。彼が抱えて歩くには、いささか不似合いな果物籠。く 汀は、西成和司の訪れたあの日から、立ちあがることもできない状態で寝込んでしまっていた。 薬のせいで頭がはっきりとしていない。それでも考えることは和司のことばかりだった。 もう諦めようと決めて、あれで十分だったのだと思い切ったはずなのに、いつまでも未練がましく彼のことを考えていた。そんな自分が嫌で、汀は今目の前にいる藤原のことだけを考えようとした。 汀はゆっくりと上体を起こした。 藤原は籠を畳に置き、開け放されていた窓を閉めた。綾が空気を換えようと言ったまま、閉めるのを忘れていたのだ。 「身体を冷やすのはよくないよ。食事はきちんとしているかい? また痩せたように見える」 藤原は汀の横に胡座を組み、顎に手を当てて呟いた。 汀はここ三日ほど、まともな食事を摂れないでいた。よくないことだとわかってはいるのだが、どうしても食べ物が喉を通らなかった。 「病院に行ったんだったね。何か病気に罹っていたんだろう?」 「風邪を、こじらせてしまったようです」 本当のことを藤原に言ったら、彼はどうするだろう。 彼はきっと、何とかして汀を助けようとしてくれるだろう。いい医者を探して、汀を無理やりにでも入院させるだろう。そして悲しんでくれるだろう。 彼の純粋な好意はとても嬉しいけれど、そうしたいとは思えなかった。 「本当かい」 「ええ」 彼は何か深く考え込むような顔をしていた。 「なあ汀」 突然に彼の声の調子が暗くなった。汀は首を傾けて彼を見つめる。 「ここの暮らしは、あまり君にとってよくないんだと思うんだ」 「……そうかもしれません」 「僕の他に君には何人もきまった客がいるし、こんな生活をしているし、その……つらいと思う」 藤原は言い難そうだった。 「こんなことは初めてじゃないんだろう?」 汀は俯いて返事をしなかった。いつもならば、そんなことはないと微笑む事が出来るのに。 その仕種に何を悟ってか、藤原は痛々しげに眉を寄せた。 「君の年季は、まだ長く残っているそうだね。いままででもこうだったんだ。これからもここで働き続けるのなら、本当に君は身体を駄目にしてしまうと思うんだ。僕はそうなってほしくない」 「……ええ」 瞳を伏せて、小さく頷いた。 彼の必死さが愛しい。けれど、同時にどうしようもなくそれをつらく感じてしまう。藤原の想いの先には汀という遊女がいて、彼は彼女を愛していて、玩具を弄ぶようにではなく少年のように恋をしている。彼の優しさは紛れもなく本物だけれど、自分はそれを受け入れることができない。 「ずっと昔から考えていたことなんだ。君の馴染になった頃から。もし、君に帰る場所があるのなら話は違う。御両親や兄弟が君を待ってくれているのなら、君はそこに帰ったほうがいい。でも、そうじゃないのなら、僕は君を、香春郭から譲り受けたいと思っている」 落籍させる、という言葉を使わなかったのは藤原らしいと思った。汀は笑おうとしたが、できなかった。 閉め切った窓が、風にかたかたと鳴った。汀は、それ以外には音のない中で、見開いた目で藤原を見ていることしかできなかった。 夕陽が差して、藤原の姿が逆光によって影になる。 「君さえいいのなら、田舎にでも屋敷を買って、君を住まわせることができる」 「義之さん……」 「もう辛い思いはしなくていいんだよ。ただ、僕の側にいてくれればいい」 汀は俯いた。彼を正視することができなかった。眩しいものを見るとき目を細めてしまうような感じだった。 「驚いたかい。でも僕はもう長く、こうしたいと思っていたよ。君はこの五年でたくさん客を取って、本当に綺麗になったけど……僕はそれが嫌だった。僕だけのものでいてほしかったよ」 藤原はそう言って、汀の目を見た。 「返事を聞かせてくれるかい」 「すぐには……お返事できません」 「今聞かせてくれ」 「……できません……」 汀はたまらなくなって、藤原から目を反らした。 「僕は、もう待てない」 「あ……」 藤原は汀の肩をいつになく乱暴に掴み、痩せた身体を引き寄せた。倒れ込んできた汀を腕の中に捕えるようにして抱き締める。 「義之さ……」 左手は腰に回り、右手は背をなぞり上げてうなじを支えた。仰のいた姿勢で、藤原の底知れない熱を宿した瞳を見上げた。こんな激しい感情を、汀は今まで彼の中に見たことはなかった。いや、今まで自分が見まいとしてきただけなのか。 身体がうまく動かなくて、汀はろくに抵抗できなかった。たとえ抗うことが出来たとしても、弱った汀の力では、屈強な藤原に簡単にねじ伏せられてしまうだろうけれども。 見つめ合いながら、藤原は顔を傾けて頬を寄せてきた。くちづけられるのだとわかって、汀は顔を背けた。背広の襟を握り締めていた腕にある限りの力を込め、彼の厚い胸板を引き剥がそうとした。 「いや……」 吉原の遊女は、身体は客に許しても、口唇だけは売らない。くちづけはたった一人の心に決めた恋人のもの。それは江戸の時代から伝わる所以の知れない不文律だった。汀も、客の内の誰ともくちづけをかわしたことはなかったけれど、自分はあまり関係ないのだと思っていた。 それなのに、今の汀は、それが怖かった。 心を奪われるような気がした。誰にも見せられないものを、人前に晒してしまうと思った。 怖くて悲しくて汀は弱々しく首をうち振る。 しばらくして、頭の上から、低い声が降ってきた。 「駄目かい」 求めてくれる、彼の気持ちが嬉しかった。けれど、受け入れることはできなかった。 「風邪が……移ってしまいます」 「かまわないよ」 汀の苦し紛れの言い訳を、藤原の熱は簡単に崩してしまう。 「義之さんのお仕事に障ります」 「いいと言っている」 もう一度顔を寄せてきたので、汀は口唇を噛み締めて、眉を寄せた。 すると彼は顔を離して、真正面から汀の顔を覗き込んだ。 「この間のように撥ね付けはしないんだね」 血を吐いた夜のことだろう。 あんな余裕は、今の汀にはなかった。 藤原は、きついほど汀を抱き締めていた腕から力を抜き、汀から身体を離した。無器用な手つきで、まるで傷をいたわるかのように肩や背を撫ぜる。汀は俯き、黙ってしまった。 彼の手が、止まる。 「心を預けた男が?」 そんなものはいない。きっといない。 いたとしたらどうなのだろう。もう会わないと決めたのに。面影を思い浮かべるだけで、こんなに胸が痛くなるのに。 「いいえ……いいえ」 汀はふたたび首を振る。それは藤原に言っているのではなくて、自分に言い聞かせる言葉だった。藤原はそれ以上何も訊かなかった。 「乱暴した。病み上がりなのに……すまなかった」 藤原は汀の背を支え、ゆっくりと汀を横たえた。ずれた枕を元に戻して寝かせ、布団を肩まで掛けてくれた。 彼は立ち上がった。 「今日は本当は、君の様子を見るために寄ったんだ。君が元気だとわかったらすぐ帰るつもりだった。女将とも無理に話を付けたしね。こんなことを言うつもりはなかった。でも、君があんまり思いつめた顔をしていたから、話せば喜んでくれるんじゃないかと思ったんだ。……浅はかだったな」 その表情はやはり夕陽のせいでわからなかったけれど、今の彼がどんな顔をしているのか、汀は知っている。 「返事はいつでもいいよ。また、近いうちに来る」 彼は歩いていって、襖を開けた。 「……義之さん」 彼が振り返った。 「何だい? もう来ないでくれ、なんて言わないでくれよ。寂しすぎる」 「ごめんなさい……」 「謝らないでくれ。かゆくなる」 「……ごめんなさい」 彼は苦い顔をして、それを見せまいとするように後ろを向いてしまった。彼が襖の向こうに消えて、汀は目を閉じた。 その途端に息が苦しくなって、喉からひゅるりと乾いた音がした。 胸か何かが迫り上がってくるような感じがして息を止めたが、長くは持たずに小さく咳をしてしまった。するとそれは止まらなくなり、大きな音とともに汀は何度も何度も咳をした。 手で口を押さえたがその手が震えはじめた。背を丸めるといくらか楽になったが、咳はますます激しくなった。苦しくてたまらなくて、身体は痛むためにあるようだった。 やがて綾が隣の部屋から駆けてきて、悲鳴のように何事か叫んだ。 けれども汀には、彼女が何と言っているのかはわからなかった。 ほどなく汀は意識をなくした。 |