静かの夜にぞ白は儚き 伍 汀は彼を見つめたまま、微動だにしなかった。 間違いない。 彼は、そうなのだろう。 賢くて明るかった従兄。年は汀よりも七つ上のはずだ。 「覚えてるか。和司だ。西成和司」 忘れるはずなど無いのに、なぜ彼はそんなことを聞くのだろう。触ることも出来ないくらい大切に、自分の奥深くに閉じ込めていたのに。 懐かしくて泣き出してしまいそうで、汀は口唇を噛み締める。 随分と大人になったように見える。当然のことだろう。もう十年近くも会っていないのだから。幼さが抜け、顔立ちに精悍さが増した。どこか違和感を覚えた。 「この方、あんたのお知り合いかい」 女将が汀の前に出ようとした。こういういざこざは彼女が仕切るのが道理だけれども、汀はそれを手で制した。 「……存じ上げません」 つとめて明瞭に、汀は告げた。彼の顔が強ばる。 「失礼を申し上げますが、お人違いをなさっていらっしゃいませんか? 私は汀と申します。ここで太夫を勤めておりますけれど、そんな名の娼妓はついぞ聞いたことがございませんね」 初瀬などという、幼い娘はどこにもいない。彼の愛でた小さな従妹は、新しい名を与えられてしまったのだから。 彼は目を見開いたままだった。何か言いたげに口唇を開いた。 「吉原は広うございます。こういうことは、よくあることですよ」 ゆったりと微笑んで、少しばかり小首を傾げて見せる。それは遊女の媚態だった。こうすれば男がどんな反応を示すのか、汀は知っていた。知っているからこの香春郭にいて、今まで生きてきたのだ。 慣れてしまえば、こんなことは生きるための手段でしかなくなる。何のために生きているのか、もうそんなことはわからないけれど。 「お人捜しをなさっていらっしゃるようですけれど。その初瀬という妓(こ)は、あなた様の御親戚かなにか?」 硬い表情の和司。久し振りに、本当に久し振りに見たのがこんな顔だ。汀は寂しかった。そしてこれは、きっと最後になるのだろう。 「お会いにならないほうがよろしいのではありませんか。その妓は吉原の遊女なのでしょう。吉原に売られた娘が、いまさら知己に会って喜ぶなどとお思いですか。大変な思い違いをなさっていらっしゃいますね」 汀は目を眇めた。 「会って、いかがなさるおつもりですの。昔を懐かしんでしんみりとお話でもなさるのですか。それとも、情夫(いろ)にでもなるおつもり?」 彼はそんなつもりで来たのではないだろう。それでも汀は彼に会いたくなかった。 幼かった頃を知る人間に堕ちた現在を知られることが、どれだけ惨めなことか。知っているようで知らなかった。 金のために媚を売り、たくさんの男に抱かれて生きる女。どれだけその美を誉めそやされようが、所詮は穢らわしい娼婦だ。 「お帰りなさいませ」 これでよかった。頭の中で鐘を打ち鳴らす何かを、汀は押さえつけた。 汀は踵を返した。女将は眉を寄せて難しい顔をしていた。 「待ってくれ!」 鋭い声に呼び止められたけれど、汀は振り返らなかった。 「それなら、俺はあなたを買う。初瀬じゃない、あなたを」 汀は、歩を止めた。立ち止まって肩越しに彼に視線を向ける。 怯えたような光を宿した汀の瞳が揺れた。それは一瞬のことで、汀は俯いて、口唇を吊り上げた。こんな若い男に、自分を買える金と身分があろうはずもない。たとえば藤原か吉崎のような男でなければならない。女将が認めた客でなければ汀の元には来られない。親類などもっての外だ。 汀は彼に背を向けた。 これでよかった。彼に会いたいと叫び続けていた気持ちを、汀は噛み殺した。早歩きで部屋へ向かったが、途中で足が動かなくなって、ふらりと廊下に崩折れてしまった。 これは昨日の発作のせいだ。西成和司のためなんかじゃない。 そう思おうとして、けれどできなくて、汀はまた笑った。 それは自嘲の笑みだった。 「ねえ、綾ちゃんには、兄弟が多かったんだっけね」 「たくさんいましたよ。上に六人と、下に一人」 部屋に戻ってくるなり布団の上に倒れ込んでしまった汀を、綾は甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。 横になっている汀の枕元に、綾は座っていた。誰かが傍に居てくれなければ、おかしくなりそうな気がしたからだ。 「ずっと、会っていないのよね」 「もちろんです。もう六年くらいかなあ」 「綾ちゃんをここへ売ったのは、お父さん?」 綾は少しばかり目を見開いた。普段の汀ならばおそらくは尋ねないことだった。 「……そうですよ」 「嫌だった? お父さんを嫌いになった?」 「なりました」 「兄弟を恨んだ? 自分を売った金で暮らすなんて、許せないと思ったことはある?」 「ありますよ。でも、仕方ないとも思ってました。あたしの上の兄弟は、みんな男ばっかりなんです。下に妹がいましたけど、すごく小さかったから。あたし泣いて泣いて大暴れしました。でも、年季が明ければ戻ってこられるって思って」 そう言う綾の横顔は、とても清々しく見えた。 ここに売られてくる女たちは、たいていが二十五になる前に年季を終える。けれど、そのあと故郷へ戻る者は少ない。花の盛りの時間を売って稼いだ金は、殆どが親の借金のためのものだからだ。遊女をしていた娘を受け入れる家もそうありはしない。明治の文明開化いらい、遊郭の地位は明らかに変わりつつある。確かに、遊郭遊びは裕福な殿方の格好の暇つぶしだ。けれど、西洋の『情操教育』とやらが輸入された結果、色や恋といった男女のことは広くは認められなくなり、色町の女たちは情欲のはけ口とみなされてしまうようになった。 今は、馴染んだいい客のもとへ嫁いだり妾奉公したりする遊女のほうが多いだろう。娼妓だった過去をひた隠しにして生きる者もいる、いいや、年季の明ける前に何らかのかたちで命を落とす女こそもっとも多いかもしれない。江戸時代の遊女の平均寿命は、二十とも二十一とも言われていた。大正の時代も、さほど変わらないに違いない。 それを知らないはずはないだろうに、綾は家族のもとへ帰ると言えるのか。汀は綾が少し羨ましくなった。 いや、それは、綾が未だ客を取ったことがないからかもしれない。この仕事の本質を知れば、綾はそんなことは言えなくなってしまうのかも知れない。 「綾ちゃん、私ね」 指で、布団の端を弄ぶ。 「好きな、人がいたの」 「……故郷にですか?」 「そう。でも、私は、こういう商売をしているでしょう。その人は昔の私しか知らないから、今の私を見たら、きっと嫌われると思ったの。見世物みたいに着飾って、お金のためにたくさんの人と寝て」 綾は何も言わなかった。汀は布団をぎゅっと握り締めた。汀は、綾にはそうなってほしくないと思った。この涙脆くてお人好しの綾が自分と同じ思いをしないように、自分は何かをしたいと思った。 それはそうできなかった後悔と、そうしたかった汀の望みを綾に押しつけるということになるのだろうか。 今までたくさんの吉原の女がこうして自分の人生を悔やんで、泣いてきたのだろう。汀は、自分にも当たり前の心があったのだと気がついたけれど、気づかなかったほうがよかったのかもしれないと思った。 心が生きているということは、こんなに苦しいことだから。 「その人がね、さっき、ここに来たの。嘘だろうって思ったけれど、本物で、私の名前を呼んで……本当の名前をね、それで、君なんだろうって、言ってくれたけど……あなたなんて知らないって、言ってしまった」 綾は頷いた。下手に言葉を挟まれるより、よほど気持ちのいい返答だった。 「その人は、たぶん、私がそうなんだってわかっていたの。でも私はひどいことをたくさん言った。私は、ほんとは会いたかったのよ。昔みたいに優しくしてほしかった」 汀は目を伏せた。 「言いたいこと、たくさんあった。たくさんありすぎて何も言えなくて、結局すぐ帰してしまった。もったいないことをしたかしら」 「姐さん」 「嫌われたくないって思った。このままあの人が私を諦めれば、あの人の中の私は、綺麗なままでいるでしょう? 私は、汚いところを知られないまま、綺麗な思い出で終われるでしょう?」 声が震えた。和司の顔が思い出された。 「だから、これは、おまけだと思うの。最後にほんの少しだけ、あの人を見て、私はそれでいいんだって思うの」 汀は目を瞑った。目の端から涙が零れて、こめかみを流れた。 「ほんとに、いいんですか」 綾は不機嫌そうな言い方をした。汀は両手で顔を覆い、くぐもった声で、呟いた。 「もう、いいの」 昨日と同じ台詞は、しかし、その響きを違えていた。 |