静かの夜にぞ白は儚き 四 綾に強く言われ、次の日、汀は病院へ行った。綾が共に行くと言い張ったけれど、結局は香春郭の女将が付き添うことになった。初めて倒れたときから世話になっている病院で、香春郭の掛かり付けの病院よりも大きい。 肺病に関しては第一線の医者がそこにはいて、汀を診てくれている。 汀の左に座る、背筋のしゃんとした中年の女が、香春郭の女将だ。汀が外出したのは、この前の検診以来だった。そのときも女将が付いていてくれた。もとは遊女であったのだが、楼主に見込まれてその手伝いをするうちに、亡くなった楼主の後妻におさまったのだという。 昼頃に香春郭を出た二人だったが、幾つも検査があったせいで、診察にはとても時間がかかってしまった。 女将の呼んだ人力車はなかなかの乗り心地で、汀は少しばかり眠気を誘われた。汀は、ぼんやりと車の中から外を眺めた。 暗くなりはじめた大きな街路には、まだ人が多かった。馬車も通っていた。人力車の脇を、汀と同じ年頃の海老茶の袴の女学生が通り過ぎていった。洋装の人間が多かったが、汀と女将は和装だった。綾が選んだ藍色の紬に、耳隠しという髪型だ。いつもは背に流れているだけの髪が、鏝で焼かれて緩やかに波打ち、結い上げられている。黙々と汀の髪を巻いていた綾を思いだし、汀は苦く笑った。 辺りに視線を泳がせながら、汀は医者の言葉を思い出す。自分の症状がよほどひどいのか、医者は最近、訴えかけるように何度もこう言う。 『今の暮らしを続けるならば、もう肺が持ちません。もうじき、息をするだけで苦しくなります。空気のいい所で静養しなければなりません。それが出来ないなら、せめて仕事をやめるべきです』 新吉原の遊女という自分の職を知っているからこそ、彼はこう言う。娼妓の荒んだ暮らしぶりは、なるほど目に余るものがあるだろう。 今日、先日の検診から日を置かずやってきた汀を診て、医者は頭を抱えた。彼の困惑の表情と、綾の昨日の顔が重なった。 心配だ、と行ってくれた藤原。ひとしきり泣いたあと、汀を怒った綾。痛ましそうに眉を寄せて、何も言わずに汀を病院へ連れていってくれた女将。 自分のために心を痛める人たちを、汀はどこか遠くから見ている。 自分の病気のことは、もう詮のないことだ。医者の言うようにしたとしても、幾許か死ぬまでの時間が伸びるだけだ。難しい肺の病気だから、助かる見込みは殆どないらしい。 それなのに、なぜ自分のために、ああも懸命になれるのだろう。 自分はこのままで構わない。香春郭の自分の部屋で客の訪れを待ち、静かに死んでいく。そうできるならばいいと思っている。それ以外に先のことを考えたことがなかった。 自分には、助かりたいという気持ちが少しもない。心残りなことは少しだけあるけれども、たぶんかなわない望みだから、死ぬときに一緒に葬ってしまえばいい。 心のどこかが欠けているのかもしれない。そう思って、汀はまた声を出さずに笑った。こんな商売をしていれば、まともな心などなくなってしまうだろう。 車は、遊郭大門の前で止まった。女将に手を取られて車を下りた。 門を一歩過ぎれば、そこは喧噪と色の町だ。提灯や店の看板の彩りが、東京の他の場所とは全く違う。帝都は人々の寝静まる夜だが、新吉原では今から昼が始まるのだ。 大通りの中央に植えられた桜も、まだ咲きかけだった。 香春郭はこの色町のほぼ中央にある。二階建てや三階建ての建物の多い中、香春郭は大きな敷地の中に屋敷を持っている。 表門は、客のための門だった。女将と汀は裏口に回った。 帰り道は一言も喋らなかった女将が、汀を振り返って言った。 「薬を飲んで、横になってるんだよ。お客様は入れないから」 抑揚のない声だった。 「私、平気です」 汀が言い返すと、女将は汀を睨むように見た。 「冗談お言い。歩くだけでもやっとだろう」 「お約束のあるお客様もいらっしゃいます」 「お断りの連絡をしておいたよ。いいから、早く戻って寝るんだ」 「でも」 女将の顔が少し歪んだ。口唇を噛み締めて、何かをこらえるような顔をしている。 「また血を吐かれちゃたまらないよ」 女将は汀に背を向けて、戸を開けた。 「それに、あの子がびいびい泣くからね」 あの子とは、綾のことだった。 思い出した。女将の顔は、昨日の綾の顔と同じだ。 「今日からお客様はみんなお断りするよ」 本来の遊女は、春を鬻ぐだけが能ではないのだ。 座敷で茶の湯や舞踊や三味線を披露することもあるし、道中といって通りを練り歩き客を集めることもする。 肺が悪くなってから、汀は座敷に出なくなった。大勢の目に触れる花魅道中にも出ていない。そういう派手な役回りはすべて、格子の華子に回っているはずだ。 太夫という地位にあるのならば、床で客の相手をすることは、滅多に無いのが本当なのだろう。 初会の相手には口も聞かないし、裏(二度目の登楼)でも肌は許さない。好まない相手ならば、無下に断ることなど日常茶飯事だ。 けれども、汀はそうしてこなかった。汀を望む客は誰もが社会的な地位の高い男ばかりで、金払いがよかった。たとえ太夫であろうとも、断れば香春郭に圧力のかかる大物の客が多かった。そう思って、客を振ることをしなかった汀に、女将はあまり良い顔をしていなかった気がするのだけれど。 汀の病気がわかったのは、三年ほど前だ。太夫になって少し経った頃のこと。 初めての喀血の後、女将は二週間ほど汀に客を取らせなかった。伝染しない病気なのだとわかっていてもだ。 けれど、構わないと言って、汀は馴染みの客だけでも相手をした。 「ねえ、汀」 汀という源氏名を付けてくれたのは、女将だった。 振り返った女将と、肩越しに目が合う。 「なんで、あんたはわかってくれないんだろうね」 何を分かれと言っているのか、汀には、それさえわからない。 香春郭の裏口は、台所の入り口を挟んで帳場に繋がっている。 見世の者はそこから屋内に入る。 戸を閉めた汀は、帳場の方が妙に騒がしいのに気がついた。女将は草履を脱ぎかけたまま、表玄関の方を見遣った。 「今は、どなたもお断りしているんですよ」 壮年の女の金切り声が聞こえた。帳場を仕切っている、女将の片腕のような女だ。いつもは柔らかい表情と鼻にかかった声をしている彼女が、一体どうしたことだろう。女将は、眉を顰ている。 困った客がいるらしい。 「身体の調子がよろしくなくて、病院に行っております。どなたもお入れしてないんですよ!」 これは、自分のことを言っているのかもしれない。 大声を出している女の後ろ姿が見えた。女将は着物の裾を裁いて立ち上がり、そちらに向かった。話をつけるつもりなのだろう。 汀は草履を脱いで、靴箱に仕舞った。 「あの子は病み上がりなんです。それに失礼ですが、どんなお客様も、あの子に振られても文句は言えないのがお約束ですよ」 女将の声だった。やはり、客は汀を所望しているらしい。 女将は、普段ならばこんなことは決して口にしない。ここに来るのは、遊郭遊びの手順を踏まえた客だけだからだ。客は、遊び方を知らないずぶの素人らしい。揚屋も通さずに見世にいきなりやってくるなんて、笑われてもしかたない無粋なのだ。そういう手合いの相手をするのは男衆や女中のはずなのだけれど。 「顔を見るだけでいい。会わせてくれ」 初めて、男の声が聞き取れた。 香春郭の太夫は、滅多に人前に出ることがない。汀の顔を知っているのは、相当な花代を払った者だけだ。よほどの金子を積まない限り、太夫とまみえることなどできない。 奥座敷で女将のお墨付きの客だけを取る遊女のことは、新吉原では大きな噂だ。香春郭の太夫というだけで立派な箔が付くというのに、さらに顔も知られていないとなれば、人々の興味が集まるのは自然なのことだろう。 「金は払う。確かめたいだけなんだ」 一目見るだけでもいいという客が居るのは、当然なのかもしれない。 女将はきっと辟易している。執拗な客だ。 自分が少し顔を見せれば、大人しく帰ってくれるだろうか。 それは些細な思いつきだった。それで事が済むのならば、それでいいと思った。 台所の入り口を通り過ぎ、女将の前に出た。 目の前に居るのは、仕立てのよさそうな背広を着た、若い男だった。男は玄関に立ったままだったが、その背の高さは見て取れた。 きつめの顔立ちだった。歳は二十六、七といったところ。ここの客としては若いほうだ。少し藤原に似ているような気がした。歳の頃と、目が。 その切れ長の目は、見開かれていた。 まるで汀しか目に入らないとでも言うように、汀を凝視している。 男の薄い口唇が、何事か小さく呟いた。一度だけ、呟いた。 「……はつせ」 男の低い声が口にしたそれは、忘れて久しい名だった。 女将が息を呑んだのが、背でわかった。 この男は、藤原に似ている。 では、藤原は誰に似ていた? 幼い頃慕った、もう会えないとたくさん泣いた、桜の枝を残していった人に。大好きで、恋しくてたまらなかった人に。 それは、初瀬、と優しく呼んでくれた従兄。 「初瀬なんだろう?」 目の前にいるはずの男が、手が届くほど近くにいるはずの男が、ひどく遠く感じられた。 |