静かの夜にぞ白は儚き





 藤原は、今晩汀の部屋に泊まっていくらしい。
 普段ならば、綾は客が帰るまで隣の部屋にいなければならない。だが、泊まりの客となれば別である。
 今日はもう、寝られるだろう。今日は客が多くて、疲れてしまった。さっさと布団に入ってしまいたいと思った。
 部屋には早苗が居るだろう。こんぺい糖はまだ残っていた。
 少し分けてあげてもいいな、そう綾が思ったときだった。
 襖の向こうから、衣擦れの微かな音に混じって、小さな咳が聞こえた。
 嫌な予感がした。
 思った通り、それは、止むことなしに段々ひどくなっていく。
「汀、大丈夫か。おい!」
 藤原の大きな声がした。
「そこに居るな!?」
 それは隣室の綾に向けられた言葉だった。
 綾は居ても立ってもいられなくて、躊躇うことなしに襖を開けた。汀は着物を乱した姿で藤原に抱き留められるように支えられている。
「姐さん!」
 剥き出しの背を丸めたまま、汀は振り返った。
 汀の目には涙が浮かんでいる。いつも白い顔がいっそう血の気を無くして見えた。汀は耐えるように口唇を噛み締めていた。
 綾は、布団の脇に落ちていた小袖を、汀の肩にそっと掛けた。すると、汀は藤原の腕を振り解いて、綾に縋り付いた。綾の着物の袷をきつく掴んでいる。
 藤原と綾は、汀を挟んで向かい合う。
「汀……?」
 藤原は訝しげに呼んだ。綾は、汀の背を擦った。
「姐さん? 姐さ……」
 呼びかけるけれども、華奢な身体は震え続けていた。二人の声など、ろくに耳に届いていないに違いなかった。
 堪え切れないのか、汀は掌で口を塞ぐ。
 また、汀は咳き込みだした。
 聞いているだけで、胸が悪くなりそうな咳だった。恐ろしく苦しげな。空気がひゅう、と喉を抜ける音がした。まともに呼吸できていないのだ。綾には、少しでも汀が楽になるように、背を撫ぜてやることしかできない。
「っ……」
 細い肩がびくりと揺れた。それを見つめている藤原は、眉根を寄せて、きつい表情をしている。
 汀の身体を抱き締めて、綾は藤原から視線を反らした。
 激しかった咳が、少し落ち着いた。
 浅く息を吐きながら、汀は己の内掛けを引き寄せる。
「よしゆき……さん」
 苦しいはずの息の下で、汀は辛うじてそう言った。
「……ごめんなさい」
 汀は藤原を振り返ることなく、小さく首を振る。
 今晩、彼はここへ泊まる予定だった。だが、今の汀に伽などつとまるはずがない。それどころか、客の相手をすることさえできない。
「お帰り、ください」
「いや」
「義之さん……」
「出来ない」
 藤原は語気強く言った。それは彼の優しさなのだろう。
 彼は射るような視線を、ずっと汀の背に注いでいる。不安と、戸惑いの入り混じった表情だった。混乱しているのは、綾も同じだというのに。
 帰ってもらわなければ困る。
 汀は、綾の腕の中で、ずっと口元を押さえたままだった。
 長い髪の間に見えるその指先がほのかな灯のもとで赤く煌めいたのは、気のせいではない。汀の口唇から零れた血は、てのひらを流れて手首にまで伝っていた。
 これは、汀と綾、そして香春郭の楼主と女将しか知らぬ事。客には決して気取られてはならぬ事。ましてや、藤原は汀の上得意の客なのだ。
 今晩は御引き取りください。綾はそう言おうとして、顔を上げた。
「お帰りになって」
 否と言わせぬ口調で、真紅に濡れた口唇が言った。藤原には背を向け、綾に対しては俯いている、表情を悟られぬ格好だ。こんな冷たい声を、汀はどんな顔で出しているのだろう。掠れてはいたが、凛とした声だった。
 藤原は、虚をつかれたような顔をした。綾も同じだった。
「この埋め合わせは、致します。今晩は、どうかお帰りくださいませ」
 きっぱりとそう言い放つ。
 目を瞠った藤原。こんな汀を見たのは、初めてだったのだろう。彼はおそらく、いつも仄かな笑みを湛えた彼女しか知らないのだろう。
 これは汀の持っている、太夫としての顔だ。彼女は滅多にそれを見せることはない。綾に対して汀がそんな表情をすることはなかったし、綾が目にしたことがあるのも数えるほどだ。おのれを偽らねばならないほど今の彼女は危ないということだ。 
 暫くの沈黙のあと、彼は渋々といった体で頷いた。
「今日は帰ることにする。だが、次にこんなことがあれば、女将に話をするよ」
 藤原は汀から視線を外さず、背広を拾った。
「すぐに病院に行きなさい。来週の水曜に、また」
 彼は、静かに部屋を出ていった。
 その間中、汀はずっと下を向いていた。乱れた黒髪と白いうなじ。
「姐さん」
 綾は、咎めるような声で呼んだ。
 汀はそれをはぐらかす。
「ごめんなさい。綾ちゃんのお気に入り、汚しちゃった」
 綾の着ている橙色の小袖には、汀の血が付いていた。
 汀は袖で口元を拭い、憔悴した瞳でそれを見つめている。謝罪の言葉を紡ぐ口唇には、まだ朱が残っている。
 けれど、そんなことにも気づかないほど、綾は不愉快だった。何がそんなに気に入らないのか、綾には分かりすぎるほどわかっている。
「嘘ついてましたね」
 もう大丈夫だと言っていたのに。病気は治ったから、もう心配しなくていいと、汀は笑ってくれたのに。
「御医者様はもう平気だっておっしゃったって、姐さんあたしに言ったでしょう。お妣さんだって、それで一日に何人もお客様を入れるんでしょう?」
 綾が汀の喀血を知ったのは、綾が汀の禿になってからすぐのことだった。だいぶ前から肺を病んでいた汀は、入退院を少しずつ繰り返していたらしい。それでもすぐに香春郭に戻ってきて、客を取り始める。
 だんだんよくなっているから。喀血はかえっていい兆候なのだからと、綾は女将にそう言い聞かせた。
 けれど。
 汀が客を前にして、あんな姿を見せたこと。それこそが、彼女の身体が普通ではない絶対の証拠ではないか。
「良くなんか、なってなかったくせに」
 綾は泣き声混じりに言った。
 良くなるどころか、以前よりもひどくなっている。薬を飲んでいたし、最近は軽い咳が続くだけだったから、女将の言うことを信じ切っていた。
「あたしがいないときにも、血、吐いてたんでしょう」
 汀は答えなかった。
「こんなにひどいのに、どうしてあたしには話してくれなかったんですか! 姐さんは、あたしのこと、ばかにしてるんですか」
 興奮と情けなさのために、涙が出てきた。視界が歪んだ。
 汀は綾を小馬鹿にしてなどいない。綾を信用していないから、話さないというわけでもない。
 綾に心配をかけさせないため。そのために、汀は綾に病気のことを言わなかった。綾は、一番身近にいるのに。
 綾や客が側にいるときは、いつも強がって微笑んでいるのだ。相手に悟らせないようにいらない気を遣っている。本当は苦しくてどうしようもないときだってあるはずなのに、顔にも出さないでいるのだ。
 どうして汀は綾の気持ちをわかってくれないのだろう。汀が好きで、汀の事なら何でも知りたくて、何でもしてやりたい綾の気持ちを、どうしてわかってくれないのだろう。
 いや、汀は、全部を知っているからこそ何も言わないのだ。
 汀は優しすぎる。
 優しすぎて、自分を壊してしまうほど。
 綾は堪らなくなって、声をあげて泣き出した。汀を抱く腕に力を込めた。洟と涙で、綾の顔はぐしゃぐしゃだった。
「綾ちゃん」
 汀は顔を上げた。寂しそうな笑みを浮かべて、汀は綾の頬に触れる。優しい指だった。
 辛いのは汀のはずなのに、どうしてそれでも人を労ろうとするのだろう。
「綾ちゃん、ごめんね」
 汀は、綾の頭を抱き返した。綾は母親に縋る子供のように、汀の胸に顔を埋めた。
「黙ってて、ごめんね」
 綾は、ひたすら頷いた。
「もういいの。わたしは、もういいのよ」
 しゃくり上げる綾を、汀はずっと抱いていた。
 汀の身体は、花と、血の匂いがした。
 混ざり合い、香りは空気に溶ける。
 それはとても甘く、とても危ういものに感じられた。





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