静かの夜にぞ白は儚き







 汀は、窓からぼんやりと外を眺めていた。宵闇に見えるのは、咲き染めの桜だった。まだ半分ほどはつぼみだった。
 香春郭は、母屋と二つの離れからなる。大きなほうの離れの一角が、汀の与えられた部屋だった。屋敷の庭と塀の近くの桜に挟まれている、香春郭でもっともいい部屋だ。
 冷えるから閉めてくださいと綾に言われたけれど、汀は濡れた髪もそのままで、肩に小袖を引っ掛けた。
 藤原義之が訪れるまでは、まだ少し時間があるはずだった。
 それまでは心地よく冴えた空気と、少し早めの夜桜を楽むつもりだった。廊下に面した襖には、背を向けることになる。だから、静かに襖が開かれたことに、汀は気がつかなかった。
「汀」
 背後から、張りのある男の声がした。
 振り返ると、濃い灰色の背広を着た、若い男が立っている。
 汀は向き直って立ち上がろうとした。
「そのままでいい」
 そう言って、藤原は後ろ手に襖を閉めた。左手には、大きな風呂敷包みがあった。
「もう一月になるな。御無沙汰だったね。すまなかった」
 いいえ、と汀は小さく首を振る。小さく笑みを浮かべた汀に、藤原は少し寂しそうな顔をした。
 通いがないことを咎める遊女もいるけれど、汀にはなぜかそれが出来なかった。それよりも、また訪いのあることこそが嬉しいと思う。彼らはあくまで買うもので、自分は買われるものだから。それを卑屈だと華子は言う。
 汀は、藤原に向かって座り直した。
 すると彼は汀の目の高さまで屈み、汀の顔を覗き込んだ。
「汀」
 彼が奇妙なくらい真面目な顔をしているので、汀はどうしたことかと訝しんだ。藤原は、汀に風呂敷包みを差し出した。
「羊羹が欲しいと言ったら、店の者がこんなに大きな箱詰めを持ってきた。君ひとりでは、とても食べられないね」
 受け取った箱は、びっくりするくらい重かった。やっと胸の高さまで持ち上げられるくらいの重さ。さすがの綾でも食べ切れないだろう。
「ありがとうございます」
「いいや。父の用の次いでだったからね」
「京都から、まっすぐいらしたの?」
「ああ」
「お疲れでしょう? 御食事はなさいました?」
 汀は、湯浴みのあいだに綾の整えてくれた酒と肴に目をやった。 「汽車の中で、済ませてきたよ」
「……急いで、来て下さったのね」
 藤原がそういう男なのだと、汀は知っている。
 彼の照れくさいくらい素直な感情表現は、初めて会ったときから少しも変わらない。
 藤原は、汀に会うまで吉原を訪れたことはなかったのだという。友人に無理に連れて来られたという彼には、遊女を揚げるつもりはなかった。新造上がりの汀は、藤原や友人たちのいた座敷に上がった。汀は歌留多遊びをする年上の遊女たちの後ろに控えて、座敷の隅に座っていただけだった。言葉を交わした覚えもなかった。藤原に対する印象も希薄だった。
 けれども、次の機会に香春郭を訪れたとき、彼は汀を名指しした。ふたりの歳は十も離れていなかった。彼は汀の初めての馴染になり、汀は彼の援助があって地位を築くことができた。
 二人の関係はもう五年になる。悪くない客だった。
 けれどもやはり、彼にとって汀は、幻や夢、そう言った類のものと何一つ変わらないに違いない。高価な霞を買って、ひとときの恋に酔っている。
 そんな藤原を少しだけ哀しく思いながらも、酔っているのは彼だけではないということに気づくのだ。何度も身体を重ねるうちに、汀も心を分けてしまったのだろう。
「ありがとうございます、いつも」
 汀は、藤原の胸に頬を預けた。藤原はまるで子供にするように汀の髪を撫ぜた。風呂から上がったばかりで、少し湿った髪だけれど。
 汀は、あまり髪を結わない。ここ最近は殆どないが、大勢の客の前に出るときは結い上げてもらう。背中に垂らしていたほうが楽だし、どうせ寝床で型は崩れるのだからと、汀は綾を説得していた。
 青年の上着の釦を、汀の細い指先が弄ぶ。
 大きな手が汀の肩を包んだ。一端身体を離されたあと、ふたたび優しく抱き寄せられる。
 緩く締めていた帯に、彼の指がかかる。
「……汀」 
 彼は熱っぽい声で囁いた。
 青年の背に腕を回す。縋り付くように抱きしめると、彼はそれに応えるように強く首筋を吸った。それにぴくりと肩を揺らして、汀は小さく息を吐いた。
 ゆっくりと布団に倒されて、汀は目を瞑った。
 彼と寝るのに、汀は嫌悪を覚えない。他の客に触れられるとき、時折吐き気を感じるほど気持ちが悪くなることがあるけれど、彼はそうではなかった。
 藤原は、もう思い出せないくらい遠いあの人に、少しだけ似ていた。
 歳の頃、声。誠実な目をしていること。褥を共にするたびに、藤原の中にあの人を見いだそうとしている。
 温かい藤原の手が、そっと背のくぼみをなぞった。汀はそれだけでたまらなくなって、男の背に爪を立てた。
 思い出の中のあの人の笑みが、藤原のそれに重なった。
 けれど、藤原は、あの人ではなかった。
 あの人は、私を抱きなどしない。
 身体をまさぐる指先に、汀は意識を委ねた。




 それはもう、十年近く昔のこと。
 自分は、たぶん十歳くらいだったろう。七つ年上の彼は、田舎の町から出て、都会の高等学校へ行くことを決めたのだった。彼が行ってしまう前の晩、離れの縁側で、二人で遅い桜を眺めた。
 都会へ出ると決めた彼は、髪を伸ばしている途中だった。中途半端に髪の伸びた坊主頭を笑うと、彼は自分の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて怒った。
 桜はもう終わりかけだった。桜が、藍色の闇に踊っていた。地面に振り積もった花びらは、土に還るように色を変え始めていた。
 寂しい、と呟いた自分に、彼は、まだ花の残っていた桜の一枝を手折ってくれた。彼の節張った手を差し出しながら、こうすれば散らないだろ、と照れくさそうに言ったのだ。
 寂しかったのは、散っていく桜ではなかった。彼が遠くに行くことが寂しかったのに、彼は気づいてくれなかった。
 そして、彼は、『すぐ帰ってくるから』と言い残していったのだ。
 彼は従兄だった。
 彼の父が、母の兄だった。自分の父と母は、叔父や祖父の反対を押し切って、駆け落ち同然に結婚したのだという。母は信州の西成という豪農の娘、父はしがない小作人だった。
 その関係を周囲に反対されて当然だった二人は、実家から逃れるようにして貧しく暮らしていた。
 けれど、母は自分が二つのときに、父は四つのときに死んだ。自分が一人残されたことを聞いた叔父が、幼い自分を実家に引き取って育てた。母を勘当していた祖父は既に亡くなっていたけれど、家の名に泥を塗った娘の子供は、やはり厄介ものだったらしい。世間体を考えてか、叔父は、自分を大きな屋敷の離れに住まわせた。自分はそこで、ひとり、人形のように暮らしていた。
 彼は、自分に優しかった。親をろくに知らない自分に、彼は同情したのかもしれない。
 それでも嬉しかった。彼は退屈している自分のところに遊びにきたり、読み書きを教えてくれたりした。親も兄弟もなかった自分にとって、彼が唯一家族と呼べる人間だったのかもしれなかった。
 勉強が好きだった彼は、いろいろなことを知っていた。快活で、別け隔てなく皆と接していた。村に居た子供たちのまとめ役だったのは、単に家が裕福だったからという理由だけではなかったはずだ。
 けれども、彼が就学のために家を離れてからは、家はうまくいっていなかった。叔父が亡くなり、彼の兄が家を継いでしばらくのことだった。
 たくさん居た使用人が一人減り二人減り、彼の嫂が泣き暮らすようになって、自分にもお鉢が回ってきた。
 昼も夜も酒ばかり呑むようになっていた彼の兄は、酔いに任せてかそれとも本気でか、幼い従妹を、人買いに売った。十歳になった自分は、工場勤めに出ることもできなかったのだ。
 買い主に、一生身柄を預けてしまうやり方だった。期間を定めて女郎屋に勤めに出すよりも、何倍も高値で売れるのだ。
 一生戻ってくるな、そう言われることと変わりない。
 彼に、別れの一言を告げる暇もなかった。
『すぐ帰ってくるから』
 彼が帰った家に、自分はいない。
 戻れない、帰れない。もう会えない。
 そう悟った後は、もう泣くことさえやめてしまった。
 彼が残した桜の枝は、あのあと、どうなったのだっけ?





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