静かの夜にぞ白は儚き 壱 部屋は薄暗かった。夕刻なのだが、窓は締め切られていた。座敷の隅に置かれていた蝋燭は、とうに尽きていた。空気は心地よく微睡み、優しく肌を滑る。 「先生、もう……?」 女の掠れた声が響いた。気怠げな、しかし澄んだ声音だった。 「ああ、忙しくてね」 素っ気無く答えた男は、黒い紋付羽織を纏う。その立ち姿には、先程までの情事の名残りはなかった。 女は、素肌を布団に埋めている。彼女はうつ伏せで上体を起こし、豊かな黒髪を乱していた。小さな顔は白かった。潤んだ大きな瞳は黒目がちで、鼻梁は高く細かった。清楚な儚げな美貌だが、半ば開かれた口唇は妖しいほどに紅い。 男は、女に背を向けて身仕度を整える。女は静かに目を伏せて、寝具の中に潜り込もうとした。 「……みぎわ」 呼ばれて、香春郭の唯一の太夫は、男を見上げた。男は懐から小さな袋を取り出す。 汀は畳のうえに散らばっている肌襦袢を引き寄せながら身を起こし、僅かに首を傾げた。童女のような仕種だった。 「頼まれていたものだ」 汀は目を僅かに輝かせ、男から袋を受け取った。手のひらに納まるほどの大きさだった。 「嬉しい……」 薄い口唇を綻ばせた汀に、男は小さく苦笑を返した。 「こんなもの、子供の菓子じゃないか。もっと欲しい物は無いのかね?」 「先生がここにいらしてくだされば、他にはなんにもいらなくてよ」 「可愛いことを言ってくれるがね。もっと、いいものを欲しくはないか……そうだ、洋傘はどうだ? 綺麗な柄の傘を、私の娘も持っているんだが」 「すてきなお話ですけれど、またこんどね」 男は、どこか哀しげな汀を困った顔で見下ろした。他の遊女はこんなとき高飛車に高価な贈り物を欲しがるか、媚びて甘えてくるのだが、目の前の女は違うからだ。軽く咳払いをして、男は懐中時計を見遣った。 「時間だ。急ぐのでね、またすぐ来よう」 汀に別れを告げ、男は座敷を出ていった。男の後ろ姿が襖に向こうに消えた。汀は、親を見送る留守番の子供のような目をしていた。 手の中の小袋に視線を落とす。少しだけ口唇を歪め、汀は布団に身をうずめようとした。 「吉崎先生、帰られたんですか?」 甲高い少女の声がした。吉崎が出ていったほうとは違う方向の襖が、遠慮もなく開かれた。部屋に入ってきたのは、十二、三歳の少女だ。汀は緩慢な仕種で顔を上げた。猫が飼い主に甘えるようだった。 少女は手に行灯を持っている。汀の肌がほのかに照らされ、なめらかな光沢を帯びて光のもとにさらされる。 「綾ちゃん」 「はいはい」 適当な返事を返して、綾は畳に散らばった帯や着物を拾い集め始めた。綾は遊女である汀の禿で、汀の身の回りの世話をしている。 禿というのは、遊女になる前の娘のことで、年上の遊女に遊郭の行儀を教わりながら使い走りもする、いわば見習いのようなものだ。綾にとって汀は主でもあるし、教師でもあった。禿は厳しい礼儀作法を仕込まれ、姉女郎には従順なはずなのだが、綾と汀の場合は少しばかり異なっている。 「綾ちゃんったら」 しつこく名を呼ぶ汀を、綾はまるでついでのように見遣った。 「ほら、見て」 汀は中のものを見せびらかすように、手を開いた。 「何ですか」 綾は訝しげに問うた。その反応に微笑んで、汀は袋の口紐を解いて中味を掌に零した。白い掌の上で、薄桃色や水色をした飴が、行灯の柔らかい光を受けている。仏頂面をしていた綾は、ますます口唇を尖らせた。 「また、こんぺい糖なんていただいて。もっと高いもの頼めば、先生は幾らでも喜んで買ってきてくれますよ」 慣れた手つきで襦袢をたたみながら、綾はあきれたような口調で言った。 「聞こえてましたよ、先生の話。吉崎先生はね、お菓子なんかじゃなくて、宝石とか、洋服とかを贈りたいんですよ」 「……綾ちゃんは」 汀は不思議そうな瞳をしている。 「こんぺい糖、いらないの?」 「いらないわけないでしょ」 やっぱりね、と笑って、汀は綾にこんぺい糖の袋を手渡した。綾が甘いもの、特に砂糖菓子が好きだということを、汀はよく知っているのだ。 「ありがたく、いただきます」 妙に慇懃にそれを押し戴いた綾は、新しい襦袢を汀に差し出した。汀は吉崎に抱かれたばかりの一糸まとわぬ格好で、布団の中にいるのだ。 「さっさとお湯を頂いてきてくださいね。すぐ、藤原様がいらっしゃるんですからね。私は掃除しておきます」 予定では、次の客が夜の八時には来るはずだ。それまであと二時間もなかった。藤原義之は、汀の馴染みの客の一人だ。三十になるかならぬかの青年で、官営工場の払い下げによって財を為した若い資産家だ。藤寛財閥の御曹司で、汀と最もつき合いの長い客のうちの一人となる。 彼を含めた汀の客は、一月と明けず通ってくるのだ。汀には殆ど休む間もないので、その禿の綾も一緒に忙しいのだ。 「義之さんはね、京都のお土産に、羊羹を買ってきてくださる約束なのよ」 「羊羹?」 綾の声が弾んだ。 「このままじゃ、綾ちゃんは太るばっかりね」 汀は鈴を転がしたような声で笑った。頬を膨らませた綾に微笑みかけて、白い襦袢をさっと羽織った。 汀と綾の居る香春郭は、新吉原と言われる花街にある。 日本最大の色町として知られるここには、数え切れないほどの遊郭や女郎屋が乱立している。 香春郭はその内で屈指の格式を誇る。新吉原のほぼ中心の屋敷で、三十人余りの娼妓を囲っている。香春郭は、鎌倉時代に公娼制度が成立してから、規模こそ変われど長く続いている。 幕府が正式に吉原での売春を認めた元和三年に香春郭と名を改めた。 その後に大火があり、現在の新吉原へ居を移した。明治五年にはひとたび廃娼の決議があるにはあったのだが、上得意の客が御役人や華族の若君、軍人方であればその影響は殆ど無かった。 今汀の部屋には、藤原という大財閥の御曹司がいる。綾は、二人のいる部屋の隣で、客が帰るまで控えていなければならないのだ。 そして、客の案内や、部屋の片付け、遊女の身体の後始末などもしなければならない。 綾はこんぺい糖を咀嚼しながら、内心厭きれていた。 なんだってあの人は、たった一袋の菓子であんなに楽しそうな顔をするんだろう。 汀は、太夫だった。江戸の遊郭において最高位の遊女だ。しかもこの香春郭の太夫であるならば、新吉原の指折りの娼妓なのだ。吉原ばかりか、京都島原や横浜の遊郭のなかでもかなり知られた存在であるはずだ。 遊郭の看板ではあるが、滅多にお目にかかれないのが普通だろう。 ましてや一晩を共にするには、綾の気が遠くなるほどの金子が支払われるのだ。 香春郭の遊女は、舞踊や管弦、茶道に華道など、女として最高の教育を受けさせられる。 綾はときどき音を上げそうなくらいつらい修業であるのだが、汀は普通の禿の二倍の速さ、たった四年でそれを終えてしまったらしい。水揚げから二年で太夫となり、今もその地位を維持し続けている。 さきほどまで汀の部屋に居た吉崎允継は衆議院の代議士で、帝国議会の帰りにここで遊んでいった。 藤原は莫大な財産を持つ資産家だし、汀の馴染はみな、ここに売られてくる前の綾にとっては天上人のような地位の人間ばかりだった。そんな男たちが、二十歳にもならない、あの汀の虜になっているのだ。彼女の最も側近くにいる綾にとっては、嬉しくてくすぐったいことだ。 たくさんの男たちに、どんなものでも貢がせることができるような人なのに、どうして汀はそうしないのだろうか。 同じ部屋で寝起きをする、早苗という禿が言っていたことを思い出した。 格子(太夫に次ぐ、第二位の遊女)の華子が、二連の真珠の首飾りを戴いたのだという。 華子はきつい方言で喋る、とても気の強い遊女だった。汀よりも三つほど年上なのだが、汀をたいそう敵視している。遊郭の内でのこういう争いはそう珍しいことではなくて、ときには陰湿ないじめに発展することもある。女ばかりがその日の暮らしをかけてせめぎあう場所であれば、表向きはいかに絢爛なれど、その実はしっとや敵意に満ちた牢獄であるという見解を持つ人間もいないではない。 華子の態度は禿の早苗にも影響しているらしく、早苗はいつも綾に喧嘩腰で話を振ってくる。 綾はそんな早苗と口喧嘩をして、よく女将に叱られる。ときには取っ組み合いの喧嘩をすることもあり、やせっぽちの綾は背の高い早苗にいつも負けている。 その一方で、汀は華子のひどい言葉を、穏やかな顔で聞いている。 無視していると言えば聞こえがいいかもしれないが、汀は本当に黙って聞いているだけなのだ。だから時折、そんな汀が不安で仕方なくなる。 もちろん、香春郭の女将は汀を一番の遊女として扱うし、何より客の態度が違う。客からの贈り物もそれは珍しい高価なものばかりだ。絹織物や紬、簪や真珠や指輪もある。けれども汀はそれを身に付けたがらない。むしろ、箪笥の底に仕舞っておきたがっている。 汀を綺麗な人だとは思う。 数えで二十歳、水揚げからはもうすぐで六年になる。肌は染み一つないし、手はきれいだし、立ち姿も優雅だ。髪は黒くてつやつやしていて、体は少しやせ気味だが胸や腰は豊かだった。目は大きくてきらきらしていて、鼻や口唇などは造りもののように整っている。本当な人形なのではないか、と疑ってしまうくらいだ。 けれども、華子のような女が、伸し上がっていく遊女としては自然な姿なのだろう。以前に綾が世話していた遊女も、華子とまではいわないがとても気の強い女だった。 汀は、他の遊女とは違う。 彼女は、大勢の遊女のように媚を売らない。華子のように気位が高かったり冷たかったりもしない。 その雰囲気は、柔らかい、という表現が一番ぴったりくるだろう。優しげでいつも微笑んでいて、ときどき消え入ってしまいそうに儚い。無垢なただの娘のような、そんな女だ。 汀は客から豪華な贈り物をされるたびに哀しそうな顔をする。その場で贈り主に返してしまうこともままある。だが、男たちはそれを可愛らしい遠慮だと勘違いして、ますます熱を上げて、多くのものを彼女に貢ぐのだ。娼妓に金をかけることを遊びだと考えているような輩だ。 汀はますます辟易して、「今度は菓子がいい」と男たちに頼むのだ。それが更に彼らの心を煽るということに、彼女は気がついていないらしいけれど。 そうして貰った菓子を、彼女は綾にくれる。 禿は自身で金を稼がないので、質素な生活を強いられる。それでも日に二回の食事ができるだけ故郷にいた頃よりは増しだが、甘いものなど本当は滅多に口にできない。 そんな綾のために、汀は菓子を選んだ。宝石や織物でなければ、花でも何でもよかったはずなのに。 そんな汀だから、綾の心は苦しいやら嬉しいやらで複雑だった。 どきりとするくらい妖艶なくせに、ふっと子供のような表情を見せるところも少し困る。 だが、他の禿よりも、自分は何倍も大切にされている。なぜか、近くにいると心が落ち着く。彼女の一つ一つの言葉に包み込まれるような感じがする。大事にされていることがわかる。だから、汀の客は、彼女を買い続けるのかもしれない。彼女のもとに安らぎを求めているのかもしれない。 彼女は太夫らしくはないけれど、最もその名に似つかわしい。 |