抱擁









 娘は、久しぶりに領主さまに抱かれました。
 もう二度と夜伽を命じられることはなく、このまま捨て置かれるか追い出されるものと思っていたのです。一人寝の夜を過ごすたび、主のいない部屋の掃除をするたび、次に領主さまに会うときはお別れする時なのだと覚悟を決めていたのです。
 娘は、おのれに言い聞かせていました。
 領主さまを嫌いにはなれない。けれど、愛してもいけない。いずれ、離れることになる方なのだから、と。
 領主さまの腕枕でうとうとと眠りに誘われていた娘は、髪を撫でられ、めもとにくちづけを落とされるのに気づいて目覚めました。
 娘は、領主さまのお顔を見つめました。領主さまは、いつもの険しい顔とは違う、どこかさびしそうな目をしていました。
「おまえに頼みたいことがある」
 領主さまは、掠れた声で言いました。温かい掛け布にくるまれているのに、娘はなぜだか、さむけを覚えました。
「再来年の春、結婚することになった。国王さまのお薦めで」
 娘は言葉を失いました。いつかこの日が来ることをわかっていたのに。
 震える声で、娘はおめでとうございますと言いました。それがやっとだった娘に、追い打ちをかけるように、領主さまは言いました。
「私の婚礼衣装を作れ。詳しいことは、家令に聞くといい」
 娘は何も考えられず、ただ頷きました。
 その晩いらい、何事もなかったかのように、娘は再び領主さまのお部屋に呼ばれるようになりました。夜は領主さまの床に侍り、明け方に自室に戻り、少しの間眠っては、針仕事に精を出す。そのような日々が始まりました。
 家令は、領主さまの婚礼衣装のため、手を尽くして最上等の純白の布地を取り寄せていました。どう扱い、どのような衣装にするか、その一切が娘に任されました。
 どうしてこのような仕事を託されたか、薄々わかってはいながら、娘は針を持つ手を止めることはありませんでした。未熟ながら、おのれの技と力を尽くして、領主さまの威光にふさわしいものを作ろうと、心に決めていました。
 領主さまは、折々に、娘に下されものをするようになりました。それは東国の絹であったり、宝石であったり、都で流行りの飾り帯や付け袖であったりしました。娘はそれらをありがたく押し戴くようになりました。
 娘は、はじめて黄金の櫛を贈られたとき、領主さまの口にした言葉を忘れることができませんでした。暮らしに困るようなことがあったとき、売れば何かの足しになるだろう。そのときが目に見えるほど近づいている今、自分を喜ばせようと領主さまがなされる贈りものを、もうわざわざ拒むこともないと思うようになったのです。
 娘は領主さまの下されものを、ひとつひとつ、大事に仕舞っていました。時どき取り出して矯めつ眇めつ、丁寧に手入れし、また元の場所に戻すのが娘の楽しみになっていました。
 そんな折、領主さまは、寝物語に、また一つ、娘に贈り物をしようと試みました。
「おまえが婚礼衣装を作りあげたら、婿を取らせよう」
 娘の髪を撫でながら、領主さまは言いました。
「きちんとした相手を見つけて、持参金も持たせてやる」
 きっと、家令の言っていた、領主さまなりの誠意なのでしょう。
 娘は首を横に振りました。
「結婚など、しなくてもかまいません。祝福してくれる者もおりません。何より、相手の方に申し訳が立ちませんもの」
「こんなふうにおまえの身を穢したことを、恨んでいるのか」
 娘は恨んでなどいませんでした。
「いいえ。とても名誉なおつとめだと思っています。婚礼衣装を、あんな上等の布地をお任せくださったことも……」
 やっと口にすることができたのは、家令の受け売りでした。娘には自分の気持ちを表す言葉がわかりませんでした。たとえわかったとしても、口にすることが許されるとも思えませんでした。
「つとめか……」
 そう呟いて、領主さまはふたたび娘のからだをおのれの下に組み敷きました。
 どうして領主さまが恐い顔をするのかわからないまま、娘はされるがままに任せて目をつむりました。




 娘の自室を家令が訪れたのは、それから数日が経った日のことでした。
 娘の手仕事がきちんと進んでいるのか確かめるため、週に一、二度やってくるのです。
 領主さまの婚礼衣装として、娘は、白いサーコウトを縫っていました。気の遠くなるような細かな刺繍はまだ一部分しか完成していませんでしたが、婚儀までに必ず仕上げるつもりでした。
 娘は、一日のほとんどの時間をこの仕事に傾けていました。
 あまりに熱中しすぎて、食事も忘れ、布地を抱きしめたまま眠ることもままありました。
「どうして、結婚をいやがったのだ?」
 唐突にそう家令に尋ねられ、娘は戸惑いました。
「ありがたい申し出だろう。旦那さまはおまえのために、持参金も、花嫁支度も、惜しむおつもりはないのだぞ」
 娘は、眉をひそめました。家令は言い継ぎます。
「おまえに身寄りがないから、頼りになる者をと……」
「……旦那さまがこうして面倒を見てくださろうとするのは、私が生娘だったからですか」
 初めての晩の出来事は、思い出すたび悲しく思えるのでした。
 娘はあの時に、人並みの幸福を諦めたのでした。教会で祝福されて結婚し、子供を産み、家庭をつくることを。
「私が、身持ちの悪い女だったら、御手当てを与えられるだけしてお城を出されていたのでしょうか」
 二度と日のあたる場所にはでられずとも、お城を辞したあとは、ひっそりとお針子仕事で生計を立て、領主さまのお幸せを祈ろう。
 婿取りのお話をされたのは、娘が婚礼衣装のひと針ひと針を刺しながら、ようやくそう心を決められた矢先のできごとだったのです。
「領主さまも、家令どのも、お恨みなどしていません。ただ……」 
 娘は、白いリンネルを指先でそっと撫でました。
「あの方が、これをお召しになったお姿を、ひとめ見られるなら」
 そして、ささやくような声で言いました。
「ひとめ見られるなら、それでよいのです」