抱擁 後 領主さまの結婚が来春に迫った秋、遥か東方で、異教徒から聖地を奪い返すための戦がはじまりました。名だたる騎士が遠征に加わり、国王さまも、そして領主さまも、軍を率いて東国へ赴くこととなりました。 領主さまは常に国王さまの側にありました。 さる激しい戦闘の折、領主さまは敵の矢から国王さまをかばい、左目と利き腕に傷を負いました。ひと月寝付いたのち、領主さまはおのれの左目が光を失ったことを知りました。けれど、次々と仲間が命を落とす中、生き永らえたことは砂漠の砂の中に砂金を見つけるような幸福とも思え、神に感謝したのでした。 故郷を後にして二年、国王さまの軍が敵方の根城を陥落させると、国王さまの軍は他の国の軍を残し、速やかに戦地を去りました。国王さまは大変な愛妻家でいらしたので、王妃さまと離れた暮らしが耐え難くていらしたのでした。 領主さまは、疲れ切ったからだで、二年ぶりに領地に帰還しました。 ようやくたどり着いた城は、目にしみるほど懐かしく美しく映りました。 戦場にいた間も、家令からは、領地の様子を知らせる手紙が届けられていました。けれど、娘の消息だけは聞けずじまいでした。 既に城を去り、どこかで所帯を持っているかもしれない。結婚はせずとも、城下に降りてしまったかもしれない。 城門で領主さまを出迎えたのは、家令をはじめとした使用人たちでした。その中に娘の姿はありませんでした。 導かれるまま進み、領主さまは自室に入りました。 窓際に見慣れぬものがありました。 白いサーコウトが掛けられた、背の高いトルソーでした。 よく目を凝らせば、そのサーコウトには、金糸でもって、伯爵家の紋が全面に刺繍されています。背には、黄金色の火を吐く竜が翼を広げていました。 領主さまは息を止めて見入りました。 「あれは……」 「……旦那さまがおでかけになってすぐ、あの娘が仕上げました。いつでも仮縫いできるよう」 家令は静かに言いました。 「その後は、何も手につかない様子で、毎日城下の教会に通っていました。礼拝堂にこもって、祈り明かしていたこともあったと」 家令が神父から伝え聞いたところでは、娘は、領主さまの贈り物をみな金に換え、寄進してしまったというのです。黄金の櫛も、宝石も、何一つ惜しまなかったと。 「寄進するものがなくなると、孤児や寡婦の世話をするために教会を手伝うようになりました。そのうちに女子供に刺繍を教えはじめ、今も週のうち三、四日は相手をしているとか。旦那さまがお帰りになると伝えたときは、涙を流して喜んでいましたが……、お会いすれば未練が芽生えるので、お顔を合わすまいと出かけて行ったようです。ご無礼を、私に免じてお許しいただけませぬか」 吸い寄せられるかのように、領主さまは、婚礼衣装に近づきました。そして、そっと肩の部分に触れました。しっとりと柔らかく、温かく感じられました。 「結婚の話は、反故になった」 領主さまは、ぽつりと言いました。背後で家令が息を飲むのがわかりました。 「二年前、城を発ったあと、あちらの城に出向いて、既に婚約を破棄している。国王さまもお許しくだされたからな」 姫君は旅立つ領主さまのために真珠のような涙をこぼし、貴婦人と騎士のならいとしてレースで飾られた袖を贈ろうとしましたが、領主さまはそれを固辞しました。そして、いつ終わるともしれぬ戦に身を投じるおのれが、うら若い姫君を約束で縛ることは不誠実と、婚約の破棄を願い出、国王さまにそれを認められたのです。 領主さまは本当は、娘にも、きちんと告げてゆきたかったのです。 お針子だったのを無理やりに側に召し上げたのは、決して、身寄りがないとか城に来て間がないとかで立場を軽んじたのではないこと。婿を取らせようとしたのは、せめてもの罪滅ぼしだったこと。娘には、幸せになってほしいと思っていること。 「帰途で、国王さまより、褒賞に王妹殿下とめあわすとまで言っていただいたが……、ろくに剣も握れず、弓矢も使えぬようになった身ではおそれおおいと辞退させていただいた」 領主さまは、眼帯の下の左目を、そっと左の手で押さえました。 残った右の目に、娘のつくった婚礼衣装は、真昼の日を浴びてひどく眩しく見えました。 「…婚礼衣装は、どうなされます」 家令の問いに、領主さまは、答えることはしませんでした。 ただずっと、窓の向こうを見つめていました。 豊かな森に恵まれた広大な土地を、ある若い伯爵さまが治めていました。 伯爵さまは、戦の折に国王さまをお守りして、腕と左目とに大きな傷を負いました。ご帰還のあと、姉君の子に家督を譲り、若くして隠居してしまったのは、湯治の旅に出かけるためとも、最愛の女と秘密結婚するためとも伝えられていますが、定かではありません。 後世に残されているのは、見事な白いサーコウトを纏い、眼帯を掛けた、その肖像画が一幅だけなのですから。 |