抱擁









 豊かな森に恵まれた広大な土地を、ある若い伯爵さまが治めていました。
 領主さまには、ひとりの妾がいました。
 娘は、もともとは城下の小間物屋で働いていたお針子でした。年老いたお針子が領主さまのお城を辞める際、自分の代わりにと紹介していったのがその娘でした。
 娘には身寄りがありませんでした。両親は幼い頃に流行り病で死に、お針子だった祖母も数年前に世を去っていました。
 お城に上がった娘は陰日なたなくよく働き、お城の使用人たちとも少しずつ打ち解けていきました。特にその子どもたちに慕われ、ごくたまの休みをお城の庭園で子どもたちと過ごすこともしばしばでした。
 ある日、娘は家令の呼び出しを受けました。
 領主さまが、娘に夜伽を命じているというのです。
 娘は驚き、その求めを拒もうとしました。娘はお針子で身を立てようと定め、かつて自分を呼び寄せてくれた老婆のようにこのお城で働いていきたいと思っていましたから。それに、領主さまは怜悧で寡黙だけれども公明で優しいお人柄ということも言われていたので、お話すればきっとわかってもらえると思ったのです。
 家令はこう言いました。領主さまは先代さまの後を継いで間もなく、早く身を固めなければならないが、どこから奥方をめとるか慎重に定める必要があり、当分はご結婚の予定がない。それまでの間、領主さまをお慰めする女が要るのだと。
 聞いた娘は、どうして自分が求められたのかを悟りました。
 お城に来て間もなく、娘が身を汚したからといって悲しんだり、娘をふしだら者と勘当するような親も兄弟もいない。領主さまが奥方をお迎えになったときに、後腐れなく城から出すことができる女だからだと。
 お針子としてずっと働かせてもらいたいとお願いしたところで、甲斐はないように思えました。きっと、たちまち追い出されてしまうでしょう。
 家令は、黙りこみ目を伏せた娘を労わるように言いました。
 若く、真面目で腕も立つおまえだから、お役目を終えた後も、領主さまは悪いようにはなさらないだろう。とても名誉なことなのだから、心からお仕えせよ、と。
 娘は数日のうちに部屋を移されました。
 亜麻の服や、柔らかなリネン類を見て、それらを縫っただろうお針子仲間の顔を思い浮かべ、自分はどれほど彼女たちに軽蔑されているだろうと胸を痛めました。部屋の窓から庭園を遠くに見下ろしては、もう子どもたちに合わせる顔もないと思いました。
 ある夜、娘は領主さまの寝室へお召しを受けました。
 はじめて間近に見る領主さまは、領民の誰もが噂するとおりの偉丈夫に見えました。熱い視線を向けられ、娘は体の芯が震えるような心地がしました。
 寝巻に身を包んだ娘を、領主さまは強い腕で抱き寄せます。大きな手が肩に触れたとき、娘は一瞬だけ身をこわばらせましたが、従順でいるようにと教えられたとおり、その腕に身をゆだねます。
 身のうちに領主さまを受け入れたとき、それまでこらえていた声が唇から漏れ出て、娘は領主さまに縋りつきました。
 破瓜の痛みに零した涙を、領主さまの唇がそっと拭ってくれました。
「初めてだったのか――」
 領主さまの呟きを聞いて、娘は静かに泣きました。純潔を失った女だと思われていたのだろうと、悲しかったのです。
「すまなかった……」
 領主さまは娘を後ろから抱きしめ、耳元にささやきました。
「……すまなかった。だが……」
 男の腕の中はただ温かく、娘を何かに守られているかのような心地にさせました。だから、領主さまが何と言葉を続けたのか、眠りに落ちた娘は知ることがなかったのです。





 領主さまは、春の夕暮れの庭園で、娘に恋をしました。
 水の止まった噴水の縁に、女の子が腰掛け、その前にひとりの若い女が跪いていました。通りがかった領主さまは、何をしているのか気になって、女の手元を見遣ります。女は、子どもの青いコタルディの裾を繕っていました。
 子どもは今にも泣きそうな顔をしています。
 女は口元に微笑みを浮かべ、子どもを見つめました。
「だいじょうぶ、すぐに元通りになるわ」
「ほんとう? だって、こんなにおっきな穴なのよ」
「ほんとうよ」
 そう言って、女はまたよどみのない手つきで針を動かし始めました。
 領主さまはすぐにその場を去ったのですが、女の優しい甘い声音だけが、いつまでも耳から離れませんでした。
 次に女のことを思い出したのは、庭園を走り回る子どもの青いコタルディを見たときでした。もう一度女の声が聞きたいと、優しく微笑みかけられたいと、領主さまはそう思いました。
 領主さまは女の素性を家令に調べさせました。娘は一年ほど前にお城に奉公に上がったお針子で、それまでは女ひとりで城下に住み、小間物屋の店番も兼ねたお針子として雇われていました。お城ではお針子に囲まれて若い男衆との交流など全くもっていない様子ですが、領主さまも家令も、まさか娘がおとめであるとは思いもしませんでした。
 そうでなくとも、気立てがよく腕もよい若い女なら、お城に出入りする男に見初められて求婚されることもじゅうぶんにありうるだろう。娘を手に入れたいという思いはいっそう募り、領主さまは娘に部屋を与えて囲うことにしました。
 娘が無垢だったことで、可愛そうなことをしたと思いましたが、手放すことは考えられませんでした。
 毎晩、執務を終えた領主さまが寝室に戻ると、娘が湯の支度をして待っています。沐浴のあとは残り湯で身を清めた娘とともに寝室に入り、娘を抱いて眠りました。華奢で温かな、やわらかなからだは壊れもののようでした。
 娘は言葉少なで、領主さまの前で笑みを見せることはありませんでした。ただ黙って彼に仕えました。
 お針子の仕事を取り上げ、無理やりに自分を囲った男を、恨んでいるのかもしれませんでした。
 領主さまの床に仕えるようになってから、娘は領主さまの身の回りの品で、お針子部屋に持ち込む程もないこまごまとしたものの繕い仕事をするようになっていました。
 ある冬の日、娘が、領主さまに着せかけようとしたガウンの裾がほつれているのに気がつきました。
「新しいものを用意しましょう」
 領主さまは、そう言った娘に、「いま、直せないのか」と尋ねました。娘は戸惑っていたようですが、領主さまが乞うので、自室から針箱を持ってきて、目の前で手早く繕ってしまいました。それが、どこが繕い跡なのかわからぬほど元通りになってしまったものですから、領主さまは目を見張りました。
「これほどきれいになるとは」
 思わずそう領主さまが漏らすと、娘は、はじめて領主さまの前で微かな笑みを見せてくれました。
 数日ののち、領主さまは、娘に贈り物をしました。町で買い求めた金の櫛でした。
「こんなに高価なもの……、わたしにはもったいのうございます」
 喜ぶ顔が見られると思っていたのに、娘は礼こそ丁重に言ったものの、悲しげでした。
「いらぬなら仕舞っておけ。暮らしに困ることがあったとき、何かの足しになろう」
 領主さまは皮肉っぽく言いました。その自分の言葉が、娘がここを去ることを――ふたりの終わりがくることを前提にしていることに気づいて、領主さまは思わず娘の顔色を窺いました。
 娘は微かに目を見はって、唇を震わせていました。けれど、すぐに、目を伏せて、顔をそむけてしまいました。
 その夜、領主さまは娘を部屋に残し、供を一人連れて城下の娼館に泊まりました。
 翌朝、領主さまは昼過ぎにお城に戻りました。領主さまは、出迎えた娘のそばを通り過ぎて、寝室に入りました。脂粉と紅の残り香に、娘が青ざめた顔をしているように見えました。
 領主さまは、娘を遠ざけるようになりました。
 領主さまのお仕事はもともととてもお忙しいのですが、娘に夢中になっている間は、万難を排して娘と過ごす時間を何とかつくったものでした。折よくと言うべきか、国境に山賊が出たり、都で王族の結婚があったりと、お城を空ける用が続いたこともあり、娘に会うことが恐くなった領主さまは、娘を部屋に呼ばなくなってしまいました。
 ひと月ぶりに領主さまがお城に帰ると、ちょうど娘が領主さまの寝室でリネンを取り換えている最中でした。
 娘は、手を止め、縋るようなうるんだ目で領主さまを見つめました。
 ふたりはしばらく見つめ合い、先に領主さまのほうが目をそらしました。
「今晩、沐浴の支度をしておけ」
 娘は小さく、はい、と答えました。





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