青く流れる 中 千早が雅嗣に乱暴されたことは、瞬く間に屋敷中に知れ渡ってしまった。雅嗣が、千早を妾に囲いたいと当主である父に請うたからだった。 当主ははじめ激怒して、雅嗣を責めたという。しかし、ことを表沙汰にしたくなかったのだろう、銀行家のもとには他の分家の娘を嫁がせた。 千早は名目上、重い病気にかかって本家に引き取られたということになった。雅嗣の住む離れに小さな部屋を与えられ、半ば軟禁されるようにしてそこに住み始めた。母はすすんで千早の身の回りのものをまとめ、屋敷まで運んできてくれた。 十三の春から十四の夏まで、ほんの短い間を、千早は雅嗣の隣で暮らした。初めて無理強いをされたあとしばらくは、彼が怖くてたまらなかった。床に仕え、ことが済んだ後には泣きながら厠で胃の腑の中のものを吐いた。 雅嗣は千早の前で言葉少なで、千早も自分から口を開くことはしない性分だったので、二人はただただ静かな離れで夜毎体を重ねるだけだった。 病人であるという建前上、千早はほとんど屋敷から出ることを許されなかった。すぐそばの母の住む家にすら滅多に帰ることができなかった。そのあいだに屋敷では雅嗣の母が亡くなった。 千早が十四の夏に、雅嗣が帝都の学校に進学するために屋敷を出た。千早は、自分はもう用済みで、実家に戻れると思っていたが、どうしてだかかなわなかった。 いらい、三年もの間、雅嗣は実家に帰ることはなかった。ひと月かふた月に一度、父に手紙を寄越すのみだった。 雅嗣の下宿から電報が届いたのは、千早が十七の冬だった。彼が事故に遭い、足の骨を折る怪我をして病院に入院しているのだという。連絡を受けてからすぐに、当主の啓造は千早を連れて汽車で帝都に向かった。雅嗣の看病をする者が必要だったからだ。 村を出るのは生まれてはじめてだった。 汽車を見たときはそのあまりの大きさと複雑な仕組みに驚いた。 東京駅に着いてからは、その汽車が当たり前のように何台も並ぶ光景や、建物の大きさ、人の多さに何倍も仰天した。往来ではじめて自動車が走るのを見て、大きな黒い動物なのかと思った。 啓造に連れられて、千早は雅嗣の入院する病院に向かった。病院も、村にある診療所とは比べ者にならないほど立派で清潔だった。 雅嗣は四人部屋の窓際に寝かされていた。 啓造の後ろに千早の姿を認めて、雅嗣はぎょっとしたような顔をした。 「どうして千早を?」 雅嗣は父親に尋ねた。 「おまえの世話をする者がいるだろう」 「たいした怪我ではないんですよ。手術も済んだのだからすぐ治ります」 雅嗣は呆れたようにそう言ったが、啓造は聞かなかった。雅嗣は、十五日は絶対安静、二月は松葉杖なしには歩けない状態だったのだ。 啓造は千早を連れて宿に泊まり、数日後に千早を残して村に帰っていった。 千早は彼の下宿を訪れた。 小さな二階建ての家で、壮年の姉妹が営んでいる下宿屋だった。おかみの姉は千早を暖かく迎えて、雅嗣の部屋に入れてくれた。 「三島さんはお友達も多くて、成績も抜群で、ほら、姿も素敵でしょ。女学生さんの追っかけがいるほどなんですよ」 おかみはにこにこと楽しげに話した。下宿には他に五人ほど学生が住んでいるが、一部屋空きがあるという。おかみは千早に、どこかに宿を借りなくとも、ここから病院に通えばよいと言ってくれた。幸いに、下宿から病院までは歩いて半時もない距離だった。宿賃はいらないから、家のことを手伝ってほしいとも言われ、千早にはとてもありがたかった。雅嗣がそのように願い出てくれたのだとは、おかみから聞いた。 千早は、期せずして、雅嗣のいない彼の部屋の隣で寝起きすることになった。早朝に目覚め、朝食の支度を手伝い、病院に通う。帝都の街は何もかもが珍しくて、病院への行きがけの道さえ歩くのが楽しくてしかたなかった。街角に貼られた活動写真や新発売の菓子のポスターに目を奪われて、子供のように立ち止まってしまうこともあった。 自由に歩き回ることもままならない雅嗣は、病室で本を読んだり勉強をしていることが多かった。 友人が多いというおかみの言葉通り、彼のもとにはたくさんの友人が見舞いに来た。友人たちの前でも雅嗣は決して饒舌というわけではなくて、人の話をよく聞いて、絶妙な具合に口を挟むような話し方をしていた。 友人たちの前で、千早は雅嗣の家の女中ということにされた。 本当のことは口が裂けても明かせないことだったし、妹とか偽るよりはずっと自然に振舞えた。困ったのは、下宿の学生や雅嗣の友人たちに、雅嗣のいないところで、水上バスに乗りに行こうとか、パーラーで果物を食べようとか声をかけられることだった。裕福で物慣れた帝大の学生には、田舎臭くて洗練されない千早が珍しかったのかもしれない。 千早には遊び歩く暇はなかったし、自由になる小遣い銭も持たなかった。何より、自分は雅嗣の介抱をするために勤めで帝都に来たのだから、呆けてはいられないと思った。 度々の誘いに困惑する千早に、助け舟を出してくれる人があった。雅嗣の隣の部屋に住む、同じ大学の法学部の学生である小田部という青年だった。 小田部は雅嗣とは対照的に、色白で線が細いものの、上背があって見栄えのする姿をしていた。柔和な顔立ちに笑みを浮かべると少年のような無邪気さがあったが、反面、皮肉屋でもあった。雅嗣と気が合っていて、通過の仲とでも表すべきか、二人の会話は打てば響くような軽快さだった。小田部は二日に一度は病院を訪れ、雅嗣に大学の授業の内容をかいつまんで講義したり、難しい言葉で議論しあったりした。 そして、千早をあいびきに誘う友人たちを、軽口で辛辣に一蹴した。 『遊ぶ暇があるなら勉強しろ。おまえの仏語の成績じゃ、卒業どころか進級もあやういと教授が嘆かれていたぞ』 『こんなことをしていていいのか? 馴染みの女郎に言いつけてやろうか』 千早に誘いをかける人はなくなった。そのころには、雅嗣は松葉杖をつかって歩けるまでに快復していた。 ある日の夕方、下宿に帰ろうとする千早を、雅嗣が呼び止めた。 彼はベッドの脇から革財布を取り出し、1円札を二枚千早に差し出した。 「好きに使え」 二円は大金であったので、千早はびっくりして固辞した。 けれど、雅嗣は千早の荒れた手の中に札を押し付けてしまった。 途方に暮れて下宿に戻った千早は、ちょうど大学から帰ってきた小田部と玄関で鉢合わせた。千早は、二円の使い道を彼に相談してみた。 「じゃあ、僕と出かけよう。朝一番に病院に寄って、浅草で活動を見る。昼飯をカフェーで食べて、午後はぶらぶら買い物する。夕方、帰りに三島に顔を見せるころには二円を使い切っているさ」 千早はあっけに取られ、小田部の顔を見つめた。 「僕は仏語の成績に問題はないし、もちろん馴染みの娼妓なんていない。したがって、君と一日あいびきするのに何ら支障はないよ。君が厭なら話は別だが」 こうして言いくるめられ、千早は翌日、小田部と出かけることになった。街は、病院から下宿までの往来とはまた違い、賑やかで華やかだった。とくに目を惹いたのは女性の格好の多彩さだった。千早と同じ年頃の女学生は海老茶袴を美しく着こなしていたし、妙齢の女性の断髪に洋装の姿など目が釘付けになるほどだった。どこに行っても落ち着かない様子の千早を、小田部は子供にするように見守ってくれた。 活動写真を見たあと、二人は昼食を食べられる場所を探した。その途中で、千早は一枚のポスターの前で足を止めた。大きな瓶を抱えたひとが、グラスから飲み物を飲む姿が描かれていた。 「カルピス。滋強飲料」 小田部が文字を読み上げる。千早はポスターを見上げながら、頷いた。毎日、病院の行き帰りに眺めているのと同じものだった。ふしぎな名前とポスターの絵柄に心惹かれて、何となく気に入っているのだった。 カルピスは美味なだけでなく、骨によい成分が含まれているとかで、滋養に富んだ飲みものとして売り出されていた。骨折している雅嗣が飲めば、怪我の治りが早くなるのではなかろうか。 千早の背中で、小田部は呟いた。 「一瓶一円六十銭。『初恋の味』ね」 千早は財布の中身を確かめた。活動写真の見物料が三十銭だった。十分だった。千早は振り返り、小田部を見上げた。 「これが欲しいです」 彼はちょっと目を瞠った。 「お昼を食べられませんし、お買い物もできないけど……」 「そう」 小田部は軽く頷いて、少し残念そうな顔をした。 「……三島なのかい。君の初恋の相手は」 静かに尋ねられ、千早は瞬きを繰り返した。思わず胸に手をやっていた。どうして自分がそうしたのかもわからなかった。 「ごめん。不躾なことを聞いて」 買いに行こう、と彼が歩きだした。それきり、小田部はその日二度とそのことについて口にしなかった。 夕方、一度下宿に帰った千早は、カルピスの木箱を抱えて雅嗣の病院を訪れた。隣のベッドとの間にカーテンを引き、雅嗣のベッドの隣で木箱を開け、きれいなラベルを貼られた飴色の瓶を取り出した。 「何だ?」 訝しげに見つめる雅嗣の前で、千早はどきどきしながらカルピス液を水で割り、湯呑みを彼に差し出した。 「カルピスです。滋強飲料なのですって」 雅嗣は、白く濁ったその飲み物に顔を近づけて匂いを嗅いだ。そして、一口、二口と味わう。 「どんな味なのですか?」 「甘酸っぱい」 ほら、と雅嗣が湯呑みを千早に手渡した。 「飲めばわかる」 千早はおそるおそる湯呑みに口を付けた。ぬるいカルピスは、今までまったく口にしたことのない味がした。口の中でまろやかに甘く、けれど酸っぱく、何だか切ない気持ちになった。 「小さい頃みたいだな。こうして、おまえが毎日俺のところにくると」 あの頃のように雅嗣に煩わしがられているのかと、千早は不安になった。顔をうつむけて、湯呑みを握る手に力を込めた。 「雨の日も雪の日も、よくも休まず通ったな。おまえが四つくらいのとき、俺は言ったことがあるんだ。一緒に住めば、雨にも雪にも濡れずに済むのにって」 そんなことがあったのだろうか。 千早は小首を傾げて雅嗣を見つめる。 故郷での日々が遠かった。本家の広大な屋敷のなか、離れでひとりで暮らした。主のいない庭のように、心は寂しくて、彼を恋しく思っていた。 「どういうことかとおまえが聞くから、嫁にくれば毎日会えると教えた。そうしたら、おまえは笑って、きっとそうすると言ったんだ」 布団の上で、雅嗣の手が握りしめられた。 その手が伸びてきて、千早の肩を引き寄せた。 千早は顎をとらえられ、あおのかされる。 雅嗣はゆっくりと唇を重ねた。 くちづけは三年ぶりだった。彼の舌は、自分と同じ味がした。 雅嗣が退院し、松葉杖が必要なくなったころ、千早は村に戻ることを決めた。おかみの姉妹はもう少し居たらいいと勧めてくれたが、そういうわけにもいかなかった。 雅嗣は、村に戻る千早に、帰りの切符代のほかに大金を預けた。入院代の残りだというが、額面にして職業婦人の月給の一月分ほどもあった。ある日の夕方、千早は金を大切に包み、無くさぬように懐にしまった。小さな風呂敷包みを抱えて、千早は二月暮らした下宿を出た。雅嗣とは、部屋の中で別れの挨拶を済ませていた。 玄関でおかみ姉妹に見送られた後、千早は門の裏に立つ小田部を見つけた。 「駅まで送ろうか」 「いいえ。ありがとうございます。お気持ちだけ、ちょうだいします」 千早は首を振った。 東京駅までの道のりは、滞在した二月のあいだにすっかり覚えてしまっていた。 「そう」 小田部はいつもの小倉織の袴に両手を突っ込み、門の柱に背中を預けた。 「帰って、これまでのように暮らすのかい。細君でもないのに、三島の帰りを待って」 彼の言葉は穏やかだった。 それだけに、千早の胸を衝いた。腕の中の荷物をきつく引き寄せた。 「三島の家のことは、薄々わかっているつもりだよ。君の立場についても」 千早は頬が火照るのを感じた。 「あいつは卒業すれば家に戻って、どこか相応しい家の令嬢を妻に娶るよ。それでも今のままでいるのか。日陰で一生を仕舞いにするのか?」 厳しい小田部の物言いに、千早はどこか懐かしさを感じていた。 小田部は、そう、千早の父にとてもよく似ていたのだ。 千早の母は、もう仕方の無い人だ。あらゆる意味で、三島の囲いの中でしか生きていけない。幼い千早を本家に差し向けて雅嗣に会わせ、媚び付かせようとしていた。だから、十三の千早に雅嗣が手を付けたときも、歓喜こそ見せなかったものの、ほっとしたような顔をしていた。 けれど、父は三島の家を憎んでいた。少年のころはとても成績優秀で、学校の教師にも高等学校進学を勧められていたのだという。しかし、本家の意向でどうしても許されなかった。そのうちに本家の決めた嫁と結婚させられ、村に、家に縛り付けられた。だから、娘である千早を村から出して、外で生きる道を見つけさせようとしていた。 「そういうのを、奴隷根性というんだ」 小田部は苦々しそうに吐き捨てた。 母の妄信も、父の苦悩も、きっと、そういう名前の付くものなのだ。 千早は唇を噛み締めた。そして、ゆっくり口を開いた。 「……ここに来て、小田部さんや、おかみさんや、いろんな人に会いました。たくさん、珍しいものも、新しいものも見ました。女の人が一人でだって、働いて暮らしていけるということもわかりました」 帝都の人たちは優しく、親切だった。毎日が楽しくて、何かに驚かない日はなかった。 独立して働いて生きていく女性の姿は、村で生まれ、女は家に属するものという考え方しか知らなかった千早には、天地がひっくり返るほど眩しく見えた。 「でも、一番嬉しかったのは、雅嗣さんのお世話をできたことでした」 胸元の包みにそっと触れた。一月、不自由せずに暮らせるだけの大金だ。 信じて預けてくれた雅嗣を、千早は裏切りたくなかった。 「近くにいられて幸せなんです。言えないのが、家のせいだというだけ」 千早は顔を上げた。 小田部の肩の向こうで、夕日が沈もうとしていた。 彼の姿は逆光にまぎれて、眩しかった。 |