青く流れる 前 水桶と雑巾を抱えて、千早はくれ縁に出た。 庭園は晩夏であった。九月の初め、蝉の鳴き声がようやく途絶えて、日差しばかりが名残を惜しむように厳しく照りつける。 千早は、荒れた手で前掛けをぎゅっと掴み、手入れの行き届いた庭を見つめた。広大な日本庭園は、百年ほど前に高明な作庭家を招いて造ったものだという。 千早の知らないどこかの景色を模した、ちいさな山河。 まだじゅうぶん明るいというのに、どこか物寂しかった。 それはきっと、この屋敷にあの人がいないせいだろう。 この離れの主で、三島本家の跡継ぎでもある雅嗣だ。年は二十三、三島家を離れ、帝都で下宿を借りて大学に通っている。 千早は彼の二つ年下のはとこで、そして妾だった。 今日の夕、六年ぶりに彼が帰郷する。 そしておそらく、会うのは最後になるだろう。 年の四半分は雪に降り込められる、小さな山村に二人は育った。 集落は、山の斜面に背中を預けるように広がっていた。 一帯の地主で、古くから祭事を司ってきた三島家の本家邸宅は、村を隅々まで見渡せる高台にあった。屋敷は莫大な敷地をもっており、十数人の使用人が常に仕えていた。 集落のひとびとには、さながら小さな城のように思われていた。 その足下に添うように、千早の育った家がある。 千早の父は三島本家当主の従弟だった。母はもっと遠い三島分家の出で、両親はいわゆる分家同士の血族婚だった。 幼い頃から、千早にとって、本家の敷居をまたぐのはおおごとだった。冠婚葬祭はもちろん、普段の出入りの際にさえ、母は千早の着物や履物が不相応に上等なものでないかに気を遣い、挨拶を熱心に仕込んだ。父はそれを黙って見ていることが多かった。 本家に住んでいるのは当主の夫妻と跡継ぎの雅嗣、そして当主の母だった。彼女は病気で寝付いていたので、本家の決め事はすべて当主の胸三寸だった。 事実、三島本家に疎まれてしまえば、集落では生きていくことができなかった。役場でも学校でも、重要な位置は三島の一族が締めていた。よそものはよほどのことがなければ居着けなかった。学校の教師など、何度入れ替わったかわからないほどだった。 母は、千早によく言い含めたものだった。 『雅嗣さんと遊んでいただきなさい。おまえからお願いしにいかなければだめ。雅嗣さんはうちの敷地には入っていただけないからね』 晴れの日も雨の日も、千早は本家に通って雅嗣に会いに行った。五つにもなるころには、千早は、女の子の友達と絵描きやままごとをして遊びたくてしかたなかったのだけれど、母が許さなかった。 雅嗣は、屋敷の軒下に小さな千早の姿を見るたびに、仕方ないというような、呆れたような顔をした。 けれど、彼は、千早を家に帰せば千早が母に叱られるだろうということをおそらく知っていた。少し不満げに男の子同士の遊びに混ぜてくれた。それどころか、きっと不本意ではあっただろうが、うまくついてゆけない千早に手を貸してくれたり、見守っていてくれたりした。 それは雅嗣が町の学校に入るまで続いた。 それが、千早が小学校の四年になったころだった。 父は、居間の囲炉裏のそばで、二人きりのときに千早に尋ねた。 「千早、おまえも勉強を続けないか。いろいろなものが見られるよ。将来、村から出て自由になれる。帝都で働けるかもしれないよ」 「ここから出るの? 父さんや母さんとは暮らせないの?」 千早の戸惑いと怯えを感じ取ったのか、父は微笑んで千早の肩を抱いた。 「ずっと大人になってからだ。そのときにはもう、おまえは私や母さんと一緒じゃなくても寂しくなくなっているかもしれない」 千早は、父に自分のからだをぎゅっと押し付けた。 「父さんと一緒がいい。ここが好き」 「でも、外を知ったら、外が好きになるかもしれないよ。おまえはここしか知らないから」 十の年の千早は、それでも全くかまわないと思った。父母のいる暖かい家が千早の全てで、それで千早の世界はおしまいだったのだ。 父は、千早の意思に反してでも、学業を続けさせたいと考えていたようだった。千早は、母がやめてくれと父に泣きついているのを見たことがある。しかし結局は、本家が許さなかった。 千早は家にとどまり、母とともに家事を手伝うようになった。雅嗣の姿は、彼が遠くの学校に通うために朝早く出て行き、夜遅くに帰ってくる、その折にしばしば見かけた。 すれ違えば足を止めて挨拶し、二三言葉を交わすこともあった。 十三になった春、千早に縁談が持ち上がった。本家の当主が持ち込んだ、千早を帝都の銀行家の後妻にという話だった。相手は父より年上で、千早より年上の子が三人もいるという。 父は激しく憤った。 「たった十三の千早を、老人の後妻になどくれてやるものか」 「本家のご意向なら、しかたないじゃありませんか……」 母はそういいながら不満げだった。千早の行き先については、何か彼女なりに心積もりがあったのだろう。 「千早を嫁がせれば、その銀行家とやらと繋がりができる。跡継ぎのいないこの家と土地は本家のものになる。本家が仕組んだからくりだ」 千早を寝間に追いやった後、父は母にそう懇々と説いていた。 「私はこんな家にも土地にも執心はないが、おまえたちに何も残せないのはつらい。どうしてわからないんだ?」 父のため息を襖の向こうで聞きながら、千早ははじめて本家の恐ろしさを思った。父も母もがんじがらめに縛られて、思うこと一つ自由にできずに、ただただ本家に額づいている。自分も同じように生きていくのだろうかと思うと、背中を冷たい汗が流れた。 「あのとき家を出しておくんだった」 その夜からほんの数日後、父が畑で突然に倒れ、そのまま息を引き取った。 千早を帝都に嫁がせたくないという願いは、父の死後、まったく思いがけない形でかなうことになった。そして、密かな母の思惑も。 父の葬儀は、三島本家の屋敷で行われた。 喪主は本家の当主である雅嗣の父で、母と千早はまったくの蚊帳の外に置かれた。通夜から葬儀まで、二人は本家に泊まりこんで、葬列客に出す茶の支度、食事の準備に明け暮れた。二人で厨房に詰めて、ろくに父のなきがらと対面するいとまもなかった。 土葬がすみ、親族は一同で本家に戻った。 千早が厨房に入ろうとしたとき、中で屋敷の女中が二人、ひそひそと話しているのが聞こえた。常なら知らぬ振りをしているところだったが、足を止めてしまったのは、自分の名を耳にしたからだ。 「これでしばらく千早さんの祝言は日延べしなきゃいかんね。日取りまで決めてあったのにさ」 「なに、喪が明けたらすぐにでもって旦那様はお考えだろ」 「そこまで酷なことするもんかね?」 「高雄さんが亡くなったら、あの家はもう旦那さまの思い通りだろ。残った美知さんは旦那さまの言いなりなんだから」 「偶然にしては出来すぎだねえ……、こわいねえ」 「山神様のたたりだろ。ことあるごとに旦那さまにたてついてさ」 千早はそこまで聞いて、思わず厨房から駆け出していた。厠のそばまで走りついて、縁側にしゃがみこんでしまった。胸の動悸と、手の震えが止まらなかった。 顔を覆ってしまうと、気が抜けて、嗚咽がこぼれた。 父が倒れたと聞いてからこれまで、涙一つ零さなかったのに、もう止まらなかった。前掛けで顔を拭い、拭ってはまた泣いた。 「……千早?」 呼ばれ、千早はびくりと肩を震わせた。慌てて頬を拭き、顔を上げた。 立っていたのは、黒の紋付を着た雅嗣だった。浅黒い顔に鋭い目、甘さのかけらもない顔立ちには、幼い頃の面影は残っていない。 雅嗣は、乱暴に千早の腕を掴んで、立ち上がらせた。引きずられて行った先は、廊下向こうの離れだった。千早はその一部屋に押し込まれた。 雅嗣の部屋のようだった。壁際に文机があり、衣紋掛けに学生服がかかっていた。 どうしたらいいのかわからない千早を、雅嗣は座布団のうえに座らせた。戸惑う千早を畳の上に押し付けるようにして自分も向かいに座った。 「ほら、泣け」 そう言われて、泣くはずもなかった。千早は真っ赤な顔で俯いた。 「……もう、平気です」 千早は膝の上で拳をにぎる。 そうして、しばらく時間が流れた。沈黙が重く重く積み重なって、崩れ落ちそうになる頃、口を開いたのは雅嗣だった。 「帝都に、嫁に行くらしいな」 思わず顔をあげた。雅嗣は唇を引き結び、 「行きたいか」 本当は、行きたくなどなかった。父と暮らした家を出たくはない。母を一人きりにしたくはない。雅嗣と遊んだ山や川を離れて、たったひとりで見知らぬ人のお嫁になどなりたくはなかった。 千早は黙り込んだ。 本家の跡継ぎである人の前で、当主の意向に逆らうことなど言えるはずがなかったからだ。 「贅沢がしたいか。これまで、うちの目を気にして、着物一枚自由に着られなかったものな」 その鋭い物言いに、千早は目を見張った。何を言われているのかわからなかったのだ。彼が何にいらだっているのか、千早には思い当たることがない。 「違います」 思わず声を上げていた。 「何が違う?」 訊ねられ、千早は俯いた。 自分が嫁ぎたくないと言ったら、どうなるのだろうか。 本家に逆らったり、家名を傷つけるようなまねをしたら、この村で生きてはいけないだろう。 それとも、千早にも山神さまの罰が当たるのか。 千早は口ごもる。 すると、雅嗣は唇をゆがめた。 「違わないじゃないか。小さい頃は、俺の嫁になりたい。そして今は、帝都の金持ちの後妻になりたい。誰でもいいんだろう?」 雅嗣の嫁になりたい。 そんなことを言ったことがあっただろうか。 あったかもしれないし、なかったかもしれない。あまりに昔のことで、思い出せない。 「どこにも行けない体にしてやろうか」 手が伸びてきて、千早の肩を掴んだ。 千早は驚いて身を引いたが、遅かった。仰向けに引き倒され、着物の裾を膝で押さえられ、襟を両手で広げられた。あらわになった薄い胸に彼が顔を埋める。 「いや――、はなして!」 大きな手が裾を割り、太股を露わにする。必死であらがったが、強い力に逆らえなかった。 「やめて、いや、いや――」 叫ぼうとした唇を、彼の唇でふさがれた。 開かされた足のあいだに、裂けるような痛みがあり、千早は意識を失った。 |