深淵 The gulf
29





 王太后の国葬の儀は、王都に初雪の降った朝、城の西南の寺院で執り行われた。
 幸福な王妃のあざなを奉られた老女の棺は、代々の国王の眠る寺院の地下に運び込まれた。
 薄暗い墓場には、ただいくつもの飾り立てられた棺が並ぶばかりだ。母の棺は先代国王のそばに安置されている。グラニスはふたつの棺の傍らに、手燭を片手に佇んでいた。葬儀のあいだから側についていてくれたカメリアは、グラニスを気遣ってくれたのか、いつの間にか部屋から姿を消していた。
 小さな明かりのもとで、自身の影が頼りなく揺れる。
 グラニスは父の棺に目を落とした。
 自分もいつか、この冷たく豪奢なねぐらの一角を戴くことになるのだろう。
 冷静になって考えてみれば、ロレンツの言葉が彼のすべきこととして最も正しいのだとわかる。
 シーネイアの腹の子を、堕胎させるなどというのは以ての外だ。
 けれども、シーネイアが産みたくないと言うのならば、グラニスは彼女を説き伏す言葉を持たないのだ。無理を強いて生ませたとしても、彼女は子どもを愛せないだろう。それでも愛そうと努力をするだろう。その彼女に、私生児を生んだ妾への糾弾があらゆる形でおそいかかることは容易に想像できる。それらから彼女を守ろうとすれば、王宮の一室に軟禁するのと変わらない扱いをすることになる。
 もう、そんな真似を続けることはできない。
 子は生まれないほうが幸せか。
 震える声で言った彼女の不安が、今はわかるのだ。
 閉じ込められて、守られて、何も知らされないで居ることが安穏なのか。
 怯えながら暮らすことが望みなのか。
 彼女のうちに答えはあって、それに順じて彼女はこれまで生きてきたはずなのだ。そうでなければ、初めての晩まで彼女が無垢だった理由がない。恋人に肌を許さなかったのは、彼女が不義の罪を最もおそれていたからだ。彼女を罪に引きずり込んだのは、他ならぬグラニス自身だ。
 誰かが咎を負わねばならないのなら、それがどれだけ重くとも自分がする。シーネイアひとりが受けねばならない非難なら、悲しみは自分に分けてほしい。
 憎まれていていい、あの黒髪の男に操を誓ったままでかまわない。
 それを拒まれたならば、彼女を手放してやるほかに、彼女を楽にしてやる術がない。
 燭台の柄を握る右手の傷はもう癒えていて、とうに包帯をはずされている。
 今は、生まれた新しい皮膚が少しばかり目立つだけだ。
 左の指できずあとに触れた。
 待っている、と彼女は綴ってくれた。
 愚かしい自分が縋れるのは、あの一言だけなのだ。





 墓室を出ると、廊下にロレンツが佇んでいた。
 葬儀のときもカメリアとともにグラニスの側に控えていたが、とうに自邸に帰ったものだと思っていた。
「カメリアはどうした?」
「尼僧がたに招かれて、上へ」
 ロレンツは、何気ない手つきでグラニスから手燭を受け取った。
 彼は自然にグラニスを先導し、廊下を進んでゆく。暗いので離れるなだの、段差に気をつけろだの、まるで子どもにするように言葉をかけてくる。幼いグラニスが乗馬の訓練で怪我をしたときも、ブリシカの小言をきちんと聞きながら手ずから治療をしてくれた。まめまめしさは、彼が変貌したあとも変わらなかった数少ない気質のうちのひとつなのだろう。
「ロレンツ」
 グラニスは彼を呼んでいた。
 上階への階段を前に、ロレンツは足を止め、振り返った。
 柔らかい薄明かりのもとで、見慣れた顔がグラニスに向けられた。
「シーネイアは、おまえの何だ?」
 ロレンツは眉を上げた。そのほかに表情は変わらなかった。
「どういう意味でしょう」
「十七年前、シーネイアが生まれたころだろう。おまえがおかしくなったのは」
 ロレンツは、掲げた手燭を僅かに下げた。表情のない彼のおもてに陰影が差した。
「うまく取り繕っていたつもりだろうが、傍から見れば瞭然としていたぞ。まるで人が変わったように振舞って」
 ロレンツは目を伏せ、グラニスから顔を僅かに逸らした。
 彼ののどぼねが小さく上下するのを、グラニスは見逃さなかった。
「おかしくなったなどと……。世間知らずの若造が、おのれの本分を悟ったまでです」
「おまえが避暑に同行しなかったのは、私が九つの夏がはじめてだった。あのあとすぐだっただろう。人が変わったようになって、結婚を決めたのは」
 ロレンツの声音は変わらなかった。
「偶然でございます」
 グラニスは笑んだ。
 彼の伏した目。髪の生え際、細い眉。
 顔の造作ばかりではない。髪と目の色、表情のつくりかた。
 これが、半血の兄妹でなどあるものか。
 初めは小さな違和感だった。
 シーネイアの話を聞いて、当て推量が確信にまで育ったのだ。
「おまえは、シーネイアの父親だろう」
 ロレンツが目を上げた。
 訝しげに眉をしかめたのはほんの一瞬で、その薄い唇には微苦笑が浮かんでいた。
「お戯れを」
「シーネイアの母親を愛していたんだろう。だから父に奪われたと思って憎かったんだろう? おおかた、貴族なら誰でもよかったとでも言われて、捨てられたと思い込んだんだろう」
 ロレンツが目をみはる。
 グラニスはゆっくり、言葉を選びながら続けた。
「おまえに縁談の話がきたから侯爵はおまえの身辺を整理したかった。おまえの子を身ごもっていたから、やむなく彼女を自分の膝元に置いた。それが妾を囲っているように見えた。そうではないのか?」
「まるでご覧になっていらしたようなことをおっしゃる。あの娘が、そんな馬鹿げた話をお伝え申し上げたのですか」
 グラニスは鼻を鳴らした。
 彼女は、グラニスがロレンツのことを話しているあいだ、悲しいような慕わしいような、切ない目をしていた。
 あの顔には見覚えがあった。
 はじめて彼女を目にしたとき。花馬車の中から見上げた窓のなか。
 白い頭巾のあどけなかった彼女、あれにグラニスは魅せられたのだ。
 今ならばわかる。なぜシーネイアがあんな表情でパレードを見つめていたのか。
「おまえはシーネイアの前で、母によく似ていると口にしたことがあるそうだな。古傷が抉られるようで憎かったのだろう?」
「そんなことは、私があれの父親だという証にはならないでしょう」
「おまえの秘書、ウォルナードといっただろう」
 ロレンツは訝しげな目をする。
「あれは先代から侯爵家に仕えている男だろう。知っているのではないか?」
 ウォルナードは、影のように前侯爵とその息子に仕えていた。あの老人がシーネイアを語る声は、慈しみとやるせなさのこもったものだった。グラニスの考えが真実をとらえているのだとすれば、あの男だけが、何もかもを知る生き証人であるはずだ。
 思い当たる節があったのだろう、彼は打たれたように動かなかった。
「シーネイアはな、母にこう言い含められていたそうだ。おまえの前に出るな、顔を見せるな。兄と呼んではならないと」
 ロレンツは手燭をきつく握り締める。
 彼とグラニスとの影が動いたのは、ロレンツの手が震えているからに他ならない。
「陛下」
 彼はグラニスから顔を背けた。
 唇を固く引き結び、何かを堪えているようだった。
「……たとえそうだとして、何が変わりましょう」
 その深緑色の目はひどく揺れていた。彼は知らなかったのだろう。知っていたらどんなことをしてでもシーネイアを求めるグラニスを諌めただろう。
 そしてシーネイアも知らないだろう。
 知らずして、互いの存在に怯え、触れ合わずにこれまですごしてきたのだろう。
 グラニスはロレンツの腕を掴み、真っ直ぐ彼の目を覗いた。
「シーネイアが望めば、故郷へ帰してやろうと思う」
 ふたりの体のあいだで、手燭の明かりがゆらゆらとほのめいた。
 ロレンツはしばらく、あっけにとられたようにグラニスの顔を見つめていた。
 グラニスは顔を伏せた。
「そのときは、あの館に住まわせてやってほしい。それだけだ」
 そう言って体を離してやった。
「腹の子は……」
「すべてシーネイアの心次第だ。不満か」
 グラニスが問うと、ロレンツは階段のほうを向いた。
「おまえのことだから、攫ってでも堕ろさせるものかと警戒していたのだぞ」
 ロレンツは振り向かないまま首を振った。微かに顎を引く仕草に、彼の苦渋を見た気がした。
「おまえは馬鹿者だな」
 ロレンツが、ゆっくりと階段を上り始めた。
 彼のその背を見て育った自分は、きっと手をつけられないうつけものであるのに違いない。
















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