深淵 The gulf 30 二頭立ての馬車が、小さな邸宅の前で止まった。 すぐに外から扉が開かれた。向かいに掛けていたブリシカは、先に下りるようにシーネイアに促した。 王宮の南の部屋から出たのは、初めて夜会に出席した晩いらいのことだった。 王太后の葬儀の翌日に、シーネイアはブリシカに連れられて馬車に乗ったのだ。 『陛下がお二人きりでお話がしたいと』 それだけを告げられて外出の支度を手伝われ、紋章のない箱馬車に乗せられた。 昨日の朝から降り続いている雪は、夜のあいだに止んでしまった。それでも降り積もって地面を白く覆っているが、足首ほどの深さもないだろう。 従者に手を取られて馬車を降りたシーネイアは、静かな佇まいのその建物を見上げた。淡い灰色の石積みの二階建てで、扉や窓枠は白く塗られている。石壁が巡らされているが、それほどの高さはない。 「ブリシカさん、ここは」 振り向いてブリシカに尋ねたが、彼女は黙って微笑んだままだった。 立ち止まったシーネイアにおいついた彼女は、こちらへ、と両開きの扉を示した。 まるで室外のように明るい廊下を進んだ。決して広い邸宅ではなかったけれども、柔らかい雰囲気の内装は女性的な趣きでとても好ましかった。 いくつもの部屋の前を通り過ぎたが、扉は残らず閉ざされていた。つい先日まで誰かが大切に住んでいたような、そんな気配を感じた。 ブリシカは、突き当たりの扉の前で足を止めた。 「こちらです」 そう言って彼女は脇に下がった。 「ブリシカさんは?」 「陛下がお待ちです。……お邪魔はできかねます」 彼女は苦笑し、近くの部屋を指した。 「あちらに控えておりますから、どうぞお気兼ねなく」 シーネイアは、目の前の、白い木造りの扉を見上げた。 金色のノブに手を掛けて、そっと押してみる。 眩しさに、シーネイアは目を眇めた。 燦然とした部屋だった。柔らかい色合いの壁紙と絨毯。扉の向かいの壁には大きな窓がはめこまれていて、高い位置にある天窓からも陽光が降り注いでいた。それなのにひどく広く、そして寂しい。部屋には家具のいっさいがなかったからだ。 窓の向こうのテラスに、一つの大きな影がある。 シーネイアは静かにそこへ続く扉を開き、屋外へ出た。 靴が降り積もっている雪を踏みしめた。懐かしい感触だった。 大きな足跡が続いている。 それを辿るように、彼に近づいた。 彼は手すりに手を掛けて、外を見つめているのだった。外套もつけていない。 「陛下」 シーネイアが小さく呼んだ。 グラニスは、ゆっくりと振り返った。シーネイアの姿を映して、彼の青い目が細められた。 長く会っていなかったわけではないのに、どうしてか、胸が染みるように疼く。 「よく来たな」 「はい」 「放っておいてすまなかった」 シーネイアは首を振る。 「中へ入ろう」 「いいえ」 彼は苦笑し、シーネイアに左隣を譲った。手すりのうえの雪を素手でなんなく払ってしまう。 「手紙をありがとう」 頷いて、彼のそばに立った。 建物の表からはわからなかったが、この邸宅の右側には小さな庭園、正面には森が配されていた。 「傷のお加減はいかがですか?」 彼は濡れた両手をシーネイアの前に広げて見せた。傷口はもう周りの皮膚と区別がつかない。怪我をしたことが嘘のようだった。 グラニスは露を落とすように手を振ると、懐に手を入れて探った。 「おまえに、返してやらねばならないものがある」 じっと見つめるシーネイアに、彼は白い絹の包みを差し出した。逆の手でシーネイアの右手を取り、なかにそっと押しとどめる。小さく硬いその感触に、シーネイアは中身を確かめるより先にグラニスの顔を見上げていた。 目を瞠るシーネイアから、彼はそっと両手を離した。 シーネイアは震える手で包みを広げた。 母の指輪だった。千切れたはずの鎖が通されている。 指で持ち上げる。その軽さも、記憶にある通りだった。 「直させたが、鎖が少し短くなってしまった。すまなかった」 かすれた声で、グラニスはそう呟いた。 「どうして?」 尋ねると、彼の口元が寂しげな笑みを湛えた。 「着けていなさい。誰も咎めはしないから」 シーネイアは頷くと、毛皮の上着の襟元を掻き分けて首に鎖を掛けようとした。 「手に嵌めていてかまわないんだぞ」 グラニスは慌てたように言う。 「指に嵌めたことは一度もないのです。母に申し訳なくて、何だかできなくて」 グラニスが訝しげに見つめている。 「これは、母が乳母に託したのです。乳母が亡くなったときに受け取りました」 シーネイアははっとした。 あのとき乳母は何と言ったか。 「贈り物だったと聞きました。母と私とにとって、大切なかたからいただいたと」 「そうか」 アーニャは父からだとは言わなかった。そうでないのなら、贈り主はひとりしかない。 シーネイアは目を伏せた。指輪をぎゅっと握り締めた。 母は、邪な思いでロレンツの傍らにあったのではなかった。そう信じられるだけで、今のシーネイアには十分だった。 「いつか、おまえがきちんと継いだのだと伝えてやればいい」 シーネイアは頷いた。 グラニスは身を屈め、シーネイアの顔を覗き込んだ。 「早呑み込みをしておまえを苦しめたな。私は初めからうまくやれなくて、ずっとおまえを悲しませた。許されるものとは思わんが、今度こそ、おまえの願いを叶えてやりたいと思う。……私に何を話してくれるつもりだった。教えてくれ」 俯き、唇を開いたが、かすかな吐息がこぼれただけだった。 半年前、グラニスに求められ、ロレンツに命じられて、たったひとりでここへ来た。 恐ろしく、生き難い場所だと思っていた。 彼のこの目を、自分は、冷たい宝石のようだと思っていた。 けれど今は、春の湖の明るい青色を思い出している。 「どうした、日が暮れてしまうぞ」 ずっと、何を伝えようか考えていたのに、すっかり忘れてしまったようだった。 頬がほてり、目が潤んでくる。 「ごめんなさい」 「うん?」 彼はからかうように首を傾げる。 「……生まれないほうがよいなどと言って、ごめんなさい。それから」 グラニスは目を見開いて背を伸ばした。 「陛下が私のことを案じてくださっていると、存じ上げないでいてごめんなさい。……私に、お腹の子どもを生ませて下さい。育てさせてください。そしてどうか、陛下がこの子のことを愛してくださっていると、この子に伝えさせてください」 グラニスはしばらく、黙って答えなかった。 「それで? おまえはその子をどこで産むつもりだ」 シーネイアは深く息を吐く。 閉じた瞼のあいだから、熱いものが零れそうになる。 これは心に決めたことだ。だから、言葉にするのに躊躇ってはいけないと思うのに。 「私が王宮にいれば、ロレンツさまやカメリアさまがつらい思いをなさいます。陛下も、この子の処遇にお悩みになるでしょう。何より、この子が王宮の中で育っては、この子のためにならないと思うのです。だから、お許しいただければ、ここから遠い、どこか静かな場所に住まわせていただきたいと思います」 言い終えて、浅い呼吸を整える。 拒絶されるのはおそろしかったが、もしそうなればカメリアとウォルナードを頼ることも考えていた。 沈黙は長かった。 風が二人のあいだを細く鋭く吹きぬける。 その、泣き咽ぶような音だけがすべてだった。 シーネイアは、時が止まってしまったかのような錯覚をおぼえた。 「故郷に帰らずともよいのか?」 彼が、うかがうような声音で尋ねた。シーネイアは頷く。 「はい」 「私を」 グラニスは一度言葉を区切り、咳払いをした。 「私を父と認めてくれるのか? おまえにむごいまねをした、私でいいのか?」 シーネイアは深く首肯する。 「決して口外しません。ご迷惑がかからないようにします。ただ、側にはいらっしゃらなくても、父君が大切に思ってくださっていると教えてあげたいのです」 その子はきっと、金色の髪に、青か緑の目をもって生まれてくるだろう。 長じた子どもは、自分に父のいないことを不思議に思うだろう。寂しく思うだろう。 そのときシーネイアは、少ないけれどもとても貴い、父君の思い出を話して聞かせるのだ。 ああ、けれど。 夢のような情景が思い浮かぶ。 子どもの目に映る小さな世界のなか、シーネイアの隣に、グラニスがいてくれたら。 彼が笑って、子どもの名前を呼んでくれたら。 シーネイアはうつむいた。 それはあまりに幸せすぎて、はかない望みだったから。 自分には、もう何もないのだと思っていた。 けれども、生きている限り、ひとの間にある限り、望みなど絶え間なくたやすく生じるものなのだ。 「……生むと言うのなら、私に、父の務めを分けてはくれないか」 シーネイアは目を上げた。 グラニスは、はにかむように目を逸らした。 そうして手すりを背に建物を見上げた。 「ここは、妻を愛したが苦しめた男が、その罪滅ぼしのために作った邸宅だ。その男と妻をよく知る女は、城からここまでの遠さを、妻を手放せなかった男が我慢できた最大の距離なのだと言った」 彼は、感慨深げに父母を語る。 その横顔がやさしく微笑んでいるように見えて、胸が締め付けられた。 「私も父に似て堪え性のない質だから、せいぜいこれくらいなのかもしれないと思う。……厭ならばそう言え、まだ我慢がきくから、おまえを私の手の届かないところまで行かせてやれるかもしれない」 シーネイアはグラニスを見つめた。 彼の表情は真摯で、その視線はひたむきにシーネイアに注がれていた。 「だが、そうでないなら、そばにいてくれ」 彼はふいと顔を背けると、吐息だけで笑った。 「今すぐ選べと言っても、そうはいくまいな。おまえがどうしようとも、あとはブリシカがいいようにしてくれる。ロレンツにも頼んである。……さあ、中に入って休みなさい」 そう言って、シーネイアの肩を押してくれる。 シーネイアの頬に小さな冷たいものが触れた。それは、体温に解けて滑って落ちた。 雪はゆっくりと空に降りる。 柔らかく、たやすく溶け落ちる、はかない雪だ。 「陛下は……?」 「私はしばらくここにいる。頭を冷やしたいからな」 グラニスは照れたように笑って、シーネイアに背を向けた。 灰色の空、雪に覆われた森を、どんな表情で見つめているのだろう。 こんな寒々としたところで、ひとりきりで。 のどが震えた。 右手を伸ばしかけ、一瞬だけ逡巡した。 深く息を吸い、シーネイアは、彼の上着にそっと触れる。 広く温かい背に身を預け、頬を寄せる。 グラニスの肩が小さく揺れる。 「どうした」 声が、彼の骨を伝って響くようだった。 そのささやかな動きまでも逃しがたく、指で服を掴んだ。 「……私は、寒さは堪えられるのです」 わななく声でそう言うと、彼は笑ったようだった。 「だが、その子は半分私の血をついでいるからな」 シーネイアは頷いた。 グラニスが体の向きを変えて、シーネイアを抱きしめてくれた。 触れるのをおそれるような、遠慮がちな腕だった。 彼の手がシーネイアの顔を包む。 こめかみに指を当てて、ゆっくりと顔を寄せてくる。 グラニスが、震えるシーネイアの唇に唇を寄せて、そっと吸った。 子どもの戯れのようにくちづけ、離してはまた重ねてくる。 「ありがとう」 繰り返すくちづけのあいだ、彼が熱っぽくささやいた。 シーネイアは唇をほころばせた。 こわばりが温もりにほどけるように、おのずから零れた笑みだった。 グラニスが呆けたように手を止めた。 首を傾げたシーネイアの耳元に、彼はそっと吹き込んだ。 「おまえを手元に置きたいと思ったのはな」 おまえの笑った顔を、見たいと思ってしまったからだよ。 シーネイアは笑みを深めた。 そのまぶたに、彼の唇が落とされた。 雪が静かに降り積もる。 何もかもを覆い隠し、白色の眠りの淵にいざなう。 大地は春を待ち焦がれ、ほんのつかの間の夢を結ぶ。 (了)
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