深淵 The gulf 28 喪服を着るのは何度目になるだろう。 首の詰まった黒いドレスは、繊細なレースの施されたみごとな品だった。王太后の危篤がわかってからブリシカが急仕立てで用意させたものだと聞くが、そうとは信じられないほどよくできていた。 王太后が逝去したのは昨日の夕刻のことだった。 側で看取ったというブリシカは、シーネイアが夕餐を済ませたころに王宮に戻ってきた。 ブリシカはシーネイアに微笑んで礼を言ってくれたけれど、自分がもっとしっかりとした主人だったなら、自分など放っておかせて王太后の側についていさせることができるのだと思えば、情けなかった。 彼女の手で背中の釦を留めてもらいながら、左手の指先で右の手をそっと撫ぜる。 昨日の昼、初めて会った異母姉が触れた場所だった。 ブリシカがここを留守にしている間を、衝いたような出来事には違いなかった。だから侍女たちは困惑してカメリアを通してしまったのだろうし、そうさせてしまった責任はシーネイア自身にある。シーネイアは謝罪するブリシカと侍女とを宥め、このことを誰にも告げないようにと口止めした。 シーネイアは顔を伏せる。起きたばかりなのでまだ少し瞼が重い。昨晩は、満足に眠ることが出来なかった。刺すような痛みをこらえて、窓辺に飾った白薔薇の一枝を見つめる。 「わたくしは、あなたが望んで王宮に来たものだとばかり思っていました」 カメリアはそう言って苦笑した。 「それならばしかたないと思ってお兄さまのお話を受け入れました。でも、違ったのね」 カメリアは手にした扇をさっと畳むと、左手に納めて握り締めた。 シーネイアは答えられなかった。俯いたシーネイアに、彼女は微笑したようだった。 「話してくれなくていいわ、ウォルナードから大体は聞いていますから。……お兄さまは、あんなことを平気でなさる方ではなかったの。平気でなさったのだとも思わないわ。……詮のないことだけれど」 カメリアは席を立ち、滑るように歩いて窓際に立った。 「今も、ブレンデン邸に帰りたいと思っていて?」 その言葉に、シーネイアは目を上げた。 彼女の声は優しかった。まるでシーネイアを甘やかすような響きだった。 「わたくしは都で生まれて育ちましたから、領地に帰るのは年に一度の旅行のようなものでした。どこまで行ってもひろがる雪原に、黒い森に、氷の張った湖に。気のいい使用人たちに、小さな田舎町。あそこはとても広くて、きれいで、でもとても退屈でした。少なくともわたくしにとってはね」 シーネイアは小さく頷いた。雪に埋もれた故郷の情景が、脳裏に浮かんだ。 「でも、お兄さまにとっては違いました」 カメリアは、窓の鍵をはずして硝子戸を開けた。涼やかな風が、そっと室内に忍び込んできた。 「お兄さまには、ブレンデン邸に恋仲の女がいたの。お父さまが村で拾った、身寄りのない下女でした。もちろん誰が認めるはずもないから、二人は互いに決して周りには知られないようにしていました。けれど、二人のあいだのことを告げ口した者がいた。二人はそのために別れさせられて、お兄さまは都で婚約者を宛がわれて結婚した。十七年前の話よ」 十七年前。 昨日の晩に、グラニスが訥々と語った言葉が思い出された。 「ロレンツさまが、お変わりになったのは、それから……?」 カメリアはゆっくり頷いた。 「お兄さまは本気だったの。今だからわかることだけれど、きっと侯爵家を出るおつもりだったのでしょうね。お兄さまはもともとさまざまな才に恵まれた方でいらしたけれど、当時の働きぶりは尋常ではなかったわ。懸命に勤めることで、お父さまや国王陛下のご理解を得ようとでも考えていらしたのでしょう。それがかえってご自分を追い詰めているとは、思いもなさらなかったのね。わたくしは幼心にも、そんなお兄さまが誇らしくてなりませんでした。小さいころのわたくしはよく、お兄さまの花嫁になると言って周りの皆に笑われていたのですって。わたくしは無知で、我儘で、本当に愚かな子供でした」 カメリアはシーネイアを、憐憫に満ちた目で見つめた。 「わたくしなのよ」 滲むような囁きだった。 わたくしなの、お父さまに二人のことを話したのは。 カメリアはそう繰り返し、自嘲するように唇を歪めた。 「お兄さまは人が変わったようになられて、侯爵家の家名を守り、王家に善く仕えるためだけをお考えになるようになりました。結婚をして男児を二人作った後には、仲の冷え切った奥方には寄り付きもなさらないで、政治に有利になるようなご婦人方を選んで相手をなさる。……王妃になることはわたくしの望みでもあったし、わたくしは王太后陛下をとても尊敬していましたから、兄の提案に喜んで応じました。わたくしはおのれのしでかしたことに怯えながら、けれど忘れてしまっていたのね」 そうして、カメリアはグラニスからの要求を伝え聞いたのだろう。 この誇り高い人は、心を深く傷つけられたのだろう。それなのに、それをシーネイアに気づかせまいとしている。どうしてなのだろう。どうしてカメリアは、自分に今、語るのだろう。 「罰が下ったのね。甘んじることが償いだと思いました。お兄さまとナターシャへの」 シーネイアは、はっとして異母姉を見上げた。 彼女もまた、肩越しにシーネイアに眼差しを注いでいた。 唇が震えた。歯の根がかみ合わなかった。 「母への……?」 シーネイアの問いに、カメリアは沈黙でがえんじた。 「どうして……?」 「お兄さまが結婚なさる前に、ナターシャはお父さまの妾になりました。二人のあいだに何があったのかは、今となっては察することもできません。ナターシャはあなたを産んで五年後に死に、お父さまは二年前に大陸かぜに攫われておしまいになった」 カメリアはそう言って目を伏せた。哀しい笑みを浮かべていた。 「お父さまの遺言を知っているでしょう。あなたをいつ誰のもとに嫁いでもいいように育てよとは、あなたの望むとおりの結婚をさせてやれという意味です。わたくしは、お兄さまがそうしたのだと思ったし、わたくしも従うべきだと考えました。わたくしも動転していたのね。そんなはずがなかったのに」 カメリアは目を閉じた。 「許してほしいとは申し上げられないけれど、今ならばまだ遅くはないかもしれません。わたくしの力の及ぶ限りで、あなたの望みを叶えて上げなければならないと思うの。陛下にもわたくしがお話しします。だから何にも気兼ねをしなくてかまわなくってよ。……あなたは、ブレンデン邸に帰りたいと思っていて?」 シーネイアは、即座には答えることができなかった。 カメリアはゆっくりと続けた。 「あなたの恋人は、半年前に屋敷を出て、今は町に下りているそうよ」 はっとして顔を上げた。 この半年のあいだ、唇にその名をのせることさえできなかった。 所在を尋ねることも憚られていた。 「呼び戻す用意は整えているそうだけれど、ブレンデン邸に戻りづらいなら、どこかに住みよい場所を探してもいいでしょう。そうしたほうがいいかもしれませんね」 帰りたくないのかとカメリアは言う。そうしてもいいのだとシーネイアを許す。 「でも」 「お腹の子どもは、育てたいのならお生みなさい。それが厭ならどこぞに養子にやってもいいでしょう。……おろしたいのなら止めはしません」 「そんなこと!」 カメリアは小さく首を振った。 「わかっています、あなたがそんなことを望まないことは。陛下のお心でもないでしょう」 そう言ったとき、彼女の表情がとても優しくなった。 近いうちにウォルナードを寄越すから、それまで考えてほしい、とカメリアは告げた。 「ウォルナードさんは、妃殿下に何を申し上げたのですか?」 彼の口添えで、カメリアが自らここまで出向いたのだということは知れた。 「王太后陛下がご危篤と報ぜられた日、わたくしの部屋へ来て話していったのよ。あなたが身ごもっているかもしれないこと。あなたがもともと望んでここに来たのではないこと」 「ウォルナードさんは、子どものことはご存じなかったと……」 「けれど、そうではないかと気づきはしたのでしょうね。昔から、気持ちが悪いくらい察しがいいの。お兄さまはそこを信用してお側においてらっしゃるけれど、ウォルナードが心から仕えているのはお父さまおひとり。きっと、まだ胸に一物抱いているのでしょうね」 小さなため息を吐いて、カメリアは唇をゆるめた。 「あなたは、心配しなくてかまわないのよ」 カメリアはそう言って、窓を閉めて、部屋を出て行った。 体のこわばりが少しずつほどけていく。 淡い香水のかおりを部屋に感じたとたん、吐き気におそわれて口元を覆った。 シーネイアは、おのれののどにそっと手を伸ばした。 昨日のような朝食は、とても口に入りそうになかった。妊娠したとわかったとたんに悪阻が始まったのは、シーネイアにとって諧謔めいた変化だった。 母もこれに耐えたのだろうか。 シーネイアが腹の中にいるあいだ、どんな思いで。 ロレンツと母が恋仲だったという事実は、自分でも不思議なほど自然に受け入れられた。 むしろ、ロレンツに憎まれていた理由がようやく知れて、安堵したほどだった。 母は何を思っていたのか。ロレンツを愛していたのだろうか。それとも父を愛していたのだろうか。そのどちらでもなく、ただ貴族の愛妾になりたかったのだろうか。 ロレンツに対して少なからず後ろめたかったから、兄と呼ぶなとシーネイアに命じたのか。丁寧に箱に仕舞いこまれていた指輪。何を思ってアーニャに託したのだろう。 「シーネイアさま、済んでございますよ」 ブリシカにそう声をかけられ、シーネイアは我に返る。 カメリアが何を話して帰ったか、彼女は知っているだろう。承知していて何事もなかったかのように仕えてくれているのならば、それは何を意味しているのだろう。 ブリシカは昨日に大切な人を亡くしたばかりで、本当はこうして勤めていることさえ苦痛なのに違いない。だから、彼女を困らせるようなことはしたくないのに。 シーネイアは、顎を引いて唇を噛み締める。 「御髪を結ってしまいましょう。お掛けなさいませ」 促されて鏡台の前に掛けた。 ブリシカの柔らかい白い指がリボンを解く。ゆるい巻き毛が肩にこぼれた。 髪のひと房ひと房が、掬いとられては丁寧にくしけずられていく。 かたく張り詰めた首から腕にかけてが、ゆるゆると柔らいでいくような心地がした。毎朝欠かさないことなのに、今日はひどく心地がよかった。 ブリシカの手は、労わるように優しい。 「アトリー様にお仕えしはじめたころ、わたくしの朝いちばんのお勤めは、御髪を結って差し上げることでした」 ブリシカが静かに話し始めた。 懐かしげな、愛おしそうな口調だった。 「女官になりたての十五の小娘には、相応しい仕事が他にももっとございました。朝餉のご用意をしたり、寝台を整えたり、それはまあ力の要るたいへんなお仕事で。けれど、アトリーさまは、ご成婚の翌朝、どうしてかお部屋付きのうちで最も末輩のわたくしにお役目をくださったのです」 ブリシカは片手で髪油の瓶を空けながら、器用に空いたほうの手指で髪を分けていく。シーネイアは、油がいつものものと違うのに気づく。 「嫁いでこられたばかりの妃殿下に突然お言葉をかけられて、わたくしは仰天したものでした。他の方たちはあっけにとられたり口さがないことを言ったりしたものでしたが、アトリーさまが我儘などおっしゃったのは後にも先にもその一度きりでございました。アトリーさまはご実家から身一つでおいでになりましたから、一番年頃の近いわたくしをお話し相手に選んでくださっただけなのかもしれません。それでもわたくしは、絵物語から抜け出てこられたようなお美しい方のおそばにいられて光栄でございました」 ブリシカが髪に馴染ませる新しい髪油は、ほとんど匂いがしなかった。それがシーネイアへの気遣いなのだとわかって、鏡に映るブリシカの顔を窺ったが、彼女は髪を扱うのに熱心な様子だった。 「ほんとうにきれいな御髪ですこと。アトリーさまは銀色に見えるほど眩しい金色の御髪で、陛下もお生まれになったときから同じお色だったのですよ。お腹のお子は、陛下に似てもシーネイアさまに似ても、麗しい金髪でいらっしゃるでしょうね」 シーネイアの髪はきれいに編みこまれて、たくさんのピンでまとめ上げられた。後れ毛の一筋も零れない、完璧な仕事だった。 シーネイアは鏡のなかのおのれを見つめた。 「私の髪の色は、父から継いだものなのです。目の色もそう」 父の髪は記憶にある限りでは白髪交じりだったけれど、ロレンツの姿を思い出せば、父も若いころはあのように見事な金髪をしていたのだろうと察せられる。 「私の顔かたちは、母によく似ているそうです。母を知っている方には、私は母の色違いのように見えるのかもしれません」 だから、ロレンツはこの姿が忌まわしかったのだろう。許しがたかったのだろう。 自分を裏切って父の妾におさまった女、その女が産んだ異母妹を。 カメリアは、願いをかなえてやると言う。 シーネイアにとって、王宮は確かに住みづらい場所であるのには違いない。夜会でかけられた蔑みの言葉、好奇の視線は、生きている限り避けられないものなのだろう。 カメリアは、決してそのことには触れなかった。 シーネイアに選べと言って、強要などしなかった。 償いなのだと、あの美しい人は語ってくれた。 けれども、罪過を重ねているのは、この母と娘とに違いないのではないか。カメリアの苦慮は、そもそも母とシーネイアがいなければ生まれなかったはずのものなのだから。 「この髪と目の色だけが、私が確かに父の子で、侯爵家の人間なのだと証してくれました。もしそうでなかったら、私は本当に父の子かどうか疑われていたかもしれません。そうしたら、侯爵家で育てられることもなかったのかもしれません」 父の庇護を受けず、街か村で母のもとで育って、貧しく暮らしていたのかもしれない。国王に見出されることもなく、平凡な娘時代を送っていたのかもしれない。マクシミリアンと添い遂げることができたのかもしれない。 「シーネイアさま?」 ブリシカが両肩にそっと手を置いてくれる。 彼女を困らせたくなかった。それなのに、涙が溢れてとまらなかった。 この仮定は背信だ。誰をも辱めている。 侯爵家に生まれなければ、マクシミリアンと会うこともなかった。アーニャに養育され、彼とともにあの大切な日々を過ごすこともなかったはずだ。彼のはにかみ、ぶっきらぼうな言葉、雪の湖で頬を包んでくれた大きな手の温もりを、知ることはなかったはずだ。 恋しい思いは、生涯消えることはないだろう。 けれど、なかったことになどできはしない。 体のなかで生きている小さな命と、いとおしんでくれる人たちとを。 そして、シーネイアにその喜びをくれたひとを。 帰りたいという願いを望郷と呼ぶのならば、それがおのれの心の全てだと、言い切ることはもうできない。 マクシミリアンのもとには帰れない。 たとえ誰が許そうとも、そんな裏切りはもうおのれが許さない。 お腹のなかの子どもに、父君はとても愛してくれているのだと、そう教えられるように育てたい。生まれてきたことを、グラニスを父に持ったことを誇れるように。 そう彼に伝えたいから、だから、それまではここで待っている。 そのあとで、自分のいるに相応しい場所に去っていこう。 もう大切な人たちを苦しめないで済むように。 あの言葉を嘘にはしたくない。 誰かに許しを請わねばならないのなら、ただそれだけを願うだろう。 |