深淵 The gulf 22 痩せこけた小さな女が眠っている。 蒼白い顔だった。眩いほどだった美しさは、病と老いに呪われてしまったかのように、その片鱗さえも残してはいない。白髪交じりの金髪、艶をなくした乾いた肌。 白い唇からこぼれる幽かな呼吸の音だけが、彼女がまだしかばねになってはない証だった。 傍に控える医師と侍従たちが、心底不安そうな目でグラニスと寝台の上の女を見つめている。気遣われていることに息が詰まって、彼は足早に寝室を出た。 明り取りのために差し込む陽光が、かえって疎ましいほどに沈んだ病室だった。 北の離宮は小さな邸宅だ。 グラニスの父、すなわち先代の国王が、妻の療養のために都の外れに作らせたものだ。 グラニスの即位と同時に、王太后はこの離宮に引きこもり、決して公の場には姿を現さなくなった。 グラニスでさえ、ここを訪れたのは年の初めの母の誕生日以来、ほぼ一年ぶりだった。 急ごしらえの彼の部屋へ戻ってみて、彼は心底後悔した。長椅子に掛けていた男が、落ちつかなげに立ち上がって礼をとる。その顔を見て、余計に気が重くなるような気がした。 「いかがですか。ご様子は」 顔色ひとつ変えずに、陰気な声でそう尋ねてくる。 「なかなか、くたばってはくれんものだな」 聞きとがめ、ロレンツは眉を顰める。 「めったな事を仰いますな」 グラニスは同じ高さにあるロレンツの顔に目をやった。灰交じりの緑色の瞳、金褐色の髪、細い鼻梁にいささか寂しげな、しかし完璧な唇とあごの線。 いやみなくらい整った男だ。若いころはそこらの貴婦人に劣らぬ繊細な容貌で男女を問わず憧れの視線を向けられていたが、三十代も半ばを過ぎた今は苦みばしった美貌を誇っている。 「死にたがりが瀕死の床にいて、何を遠慮することがある」 「陛下」 「皮肉だとは思わないか。あれほど壮健だった父が風邪ひとつであっけなく身罷ったのに、始終病がちだった母のほうが十年近く長く生き永らえるとは」 ロレンツはぽつりと呟く。 「……そういうものではございませんか」 「経験があるのか?」 グラニスは椅子に腰掛けた。 全身が沈んでしまいそうなほど重い。眠気に頭が軽く痛む。 この三日ほど、グラニスはここと王宮を毎日行き来していた。馬で小一時間かからぬ距離の移動も、連日ともなれば満足に寝ていない身には応えた。 それはこの男も一緒のはずなのに、涼しい顔をしているのがどうにも小憎らしい。 「シーネイアは、母を早くに亡くしていたな」 ロレンツの表情が、さっと強張る。 彼の母、前侯爵の奥方は健在だった。 ロレンツとカメリアを溺愛し、社交界で賢明に振舞う、貴婦人の鑑のような女性だった。表立ってグラニスやシーネイアを批判するようなことは決して言わないが、その心内は容易に知れた。 前侯爵は、その奥方への敬愛ぶりが広く知られていて、浮いた噂ひとつ流されなかった。家名を重んじ、忠実に王家に仕えた男だった。その彼が屋敷に若い妾を囲うとは、家族には許しがたい行状であっただろう。 「母親は、下女上がりのお針子だったと聞いた」 四つか五つのときに母親に先立たれたならば、覚えていることも少なかろう。 それに、最後に顔を見たとき、まるで彼女は恐怖に押し潰されてしまいそうに頼りなく見えた。 あんな娘が子を産めるのか、母になどなれるのか。同じ事をロレンツの秘書に尋ねたが、あいにく答えは聞かずじまいだった。 「そうでしたかな」 ロレンツの口調は、常と変わらないように聞こえた。 だから、グラニスはため息を吐いて目を閉じた。 目を閉じて、話しはじめてしまったのだった。 「身籠っている」 沈黙が流れた。それも一瞬のこと。 「さようですか」 「驚かないのか」 グラニスは瞼を開いた。ロレンツの声からは、いささかの動揺も見出せなかった。 「それで、いかがいたします」 「どう、とは?」 「始末するのなら、早いに越したことはないでしょう」 グラニスは衝かれたように顔を上げた。 「堕胎させろというのか」 「そのとおりです」 グラニスは思わず立ち上がっていた。 「生ませてよそへやるのならば、幾つか当てはついております。母親ごとでも、子供だけでも」 「私の子だぞ」 「妾の子です。生まれないほうが幸福だとは、お考えにはなりませんか」 「……シーネイアは、半血とはいえ、おまえの妹だぞ」 「ですが、腹にいるのは陛下のお子です。……いいえ、そうともはっきりは申し上げられませんな。確かに陛下のお子だという証がどこにありましょう。あの娘は」 言い終わらぬうちに、グラニスはロレンツの胸倉を掴みあげていた。 本当におのれの子なのか。 それは、それだけは、二度とグラニスの聞きたくない言葉だった。 彼の心を抉る言葉。彼の、誰にも触れさせたくない過去を暴き出す言葉だった。 グラニスは唇をかみ締める。 ロレンツは知らない。 知っていてグラニスを挑発したわけではない。 「……陛下」 ロレンツの目は、醒めた光をたたえて真っ直ぐにグラニスに向けられていた。ふと気を許して覗き込めば、底知れない闇に引きずり込まれてしまいそうな。 怒気を殺がれ、グラニスはロレンツの襟首を掴む手を緩めた。 解放されたロレンツは、二度咳き込んで、深く頭を下げる。 「無礼を申し上げました」 台本どおりの平坦なせりふだった。 グラニスが何か言えば言うほど、時間が経てば経つほどに、この男は頑なに言葉寡なになってゆく。最後に、彼がグラニスの前で笑ったのはいつだったか。感情をあらわにして見せたのはいつだったか。 「戻る。午後の議に間に合わん」 ロレンツの、さらさらとこぼれる金髪を見下ろしながら吐き出した。 「おまえは母上についていて差し上げろ」 返答を待たずに、グラニスは踵を返した。 午後の議を終えて、夕刻。 ひとり執務室へ戻る途中に、回廊から、城壁に沈む夕日が望めた。グラニスは立ち尽くし、てのひらで目のうえを覆う。染みるように目の奥が疼いた。 夕餐までは半刻もない。 行っても、また彼女は怯えた目をして彼を迎えるのかもしれない。追い返されはしないだろうが、決して歓迎もされるまい。 けれども、会いたかった。 彼自身も、どうしてだかわからなかった。 引き返して南へ向かった。 ←back works next→ |