深淵 The gulf
23





「お茶の時間に何も召されなかったのですからね!」
 昼餐に仕えてくれた若い侍女が、また食事の給仕をすると言う。彼女は腰に手を当てて、シーネイアの前で小さく胸を張って見せた。
 シーネイアは刺繍を中断したあと、長椅子に掛けさせられて食事の支度を待っていた。
 若い侍女が戸惑いぎみに、懸命に同僚たちにあれこれ指示をしている。その様子が、傍から見ていて微笑ましかった。ブリシカは食事の世話に関しては彼女に任せてしまったようで、少し顔を見せたあとには控えの間に引っ込んでしまった。
 卓の上は卓掛けと花、燭台で飾り立てられて、昼餐とは比べ物にならない華やかさだった。いくつもいくつも小皿が運び込まれてくるので、シーネイアはその数を数え始めたが、両手の指では足らなくなった。
 料理をささげ持った従僕の列がようやく途切れたころに、ブリシカがいそいそと居室に入ってきた。侍女たちの仕事を中断させて、シーネイアの長椅子に近寄ってくる。
「何かあったのですか?」
 シーネイアが見上げると、ブリシカは眦を下げた。その目元に浮かんだ心労の色を見取って、シーネイアは困惑した。
「陛下のお成りでございます。お通ししてもよろしゅうございますね?」
 ブリシカは、一瞬身をこわばらせたシーネイアを、悲しいような微笑みで見つめた。
「お健やかなお姿を、見せて差し上げてくださいませ」
 そう言って、優雅な動作で身を翻す。
 シーネイアは立ち上がり、身繕いを整える。髪に手をやり、ドレスの膝に糸くずが落ちていないか払ってみる。
 迎えようと入り口に近づいたとき、向こうからゆっくりと扉が開いた。
 彼は、いつもと変わらない様子に見えた。威風堂々とした大きな体躯、濃い色合いの着こなされた礼服。
 グラニスは、目の前に立つシーネイアを認めて、優しく目を眇めた。
「もう、立ち歩けるようになったのか」
 その声はいつもより静かだった。
 彼は後ろ手に扉を閉めると、かるく室内を見渡した。
「夕餐か。満足に食べているのか」
「はい。……少しずつ」
 シーネイアは俯いて、小さく答える。
「侍女たちが騒がしかったな。食事の前はいつもああだったか?」 
「私がきちんと食べられるように、いろいろと、気を揉んでくださっているのです」
「煩わしくはないか?」
 シーネイアは首を振った。
「……いいえ」
「そうか」」
 グラニスはシーネイアの脇を横切り、食卓に歩み寄る。シーネイアが振り返ると、彼は並んだ料理に目を落としたまま、疲れた笑みを浮かべてみせる。
「林檎か」
 グラニスは、その長い指で、破璃の皿に盛られた林檎をひときれつまんだ。そして、まるで子供がするように口の中に放り込んでしまう。
「ブリシカにだけは言ってくれるなよ。うるさいからな」
 グラニスはぼうっと見ているシーネイアにそう言って、もうひときれを噛み砕いて嚥下してしまう。
「長居もできない。……話をしよう」
 グラニスは庭園への扉を開けた。





 シーネイアは彼について部屋を出た。
 日が沈んでから中庭に出るのは久方ぶりだった。外は既に薄暗く、心地よく涼しかった。どこで鳴いているのか、鈴虫の澄んだ声が重なって聞こえる。花のない薔薇の茂みは紫色の闇に沈んでいた。
 しばらく、グラニスは言葉を発さずに庭園を眺めていた。
 室内から零れる明かりのために、彼の表情は窺い知れなかったけれども、その横顔はどこか寂しげで、声をかけるのが憚られた。
 シーネイアは顔を伏せた。
 背に、温かい重いものが被さった。
 グラニスが上着を脱いで、シーネイアの肩に貸してくれている。
「陛下」
「冷やすとよくない」
 シーネイアの両肩を包んだ手が離れた。
「でも、陛下が」
「いい」
 シーネイアは頷いて、彼の上着をそっと引き寄せる。
 グラニスは、石畳から下りて薔薇の茂みの中に分け入ってしまう。そしてシーネイアに背を向けたまま頭を垂れた。
 グラニスは深く息を吸い、吐く。
「……母が死ぬ」
 呟きは、沈黙を裂いて闇に吸い込まれた。
「今日か、明日か、近いうちにだ」
「王太后陛下は、とても素晴らしいかただとお聞きしました」
「そうだったのだろうな、みな口々にそう言う」
 どこか他人事のように、グラニスは淡々と話す。
「誰が言い出したものだか、巷では幸福な王妃と呼ばれていたそうだ。誰もが母を惜しむ。妃も重鎮たちも、ブリシカも、私のほかの誰もがな」
 シーネイアは彼を凝視する。
「陛下は……?」
「……早く、楽になってほしいと思っているよ」
「どうして?」
 問いが、口をついて出た。
 脳裏に、ふたりの母の姿が浮かぶ。もう顔さえおぼろげな実母、血の繋がらなかった育ての母。
 ずっと生きていてほしかった。置いていかないでほしかった。
 母とは、そういうものだと思っていた。
 彼はため息を吐き、ゆっくりと振り返る。
「なぜ、か」
 グラニスは、自嘲するかのような痛ましい笑みを浮かべていた。
 逡巡ののち、彼は毒でも吐き出すかのように、呻くように言った。
「母は、自害しそこねた女だ」
 シーネイアは目を見開いた。
 自死は、人殺しと並ぶ、神の禁じる大罪だ。
「避暑に出かけた先だった。九つの私の目の前で、湖に入って溺れ死にかけた」
 彼の手が薔薇の葉をそっと撫でる。
 この庭園の薔薇は、一株残らず白い花をつける。
 なんという品種の薔薇なのか、シーネイアは知らない。ただ、青白い優美な花びらと、大ぶりの花のかたちだけはよく覚えていた。
「母は、異国も同然の辺境から嫁いできた女だった。父は周囲からほかの妃候補を薦められていたが、無理を押して母を娶った。その妃がなかなか子を産まないので、貴族たちからの風当たりは相当なものだったと聞く。おまけに父は母に夢中で、他に女をつくることもしなかったから、余計に期待が重かったのだろう」
 彼はゆっくりと、薔薇の垣根のあいだを歩く。
「ようやく私を身ごもったのが結婚から八年後で、貴族たちはあれこれ好き勝手に噂した。母がどこかから種を仕込んできたのだとか、その種のあるじは田舎のもと許婚にちがいないとか、風説の片鱗に過ぎなかったんだが、その噂を父の耳に入れたうつけがあった。父も黙って知らぬ振りをしておればよいものを、母に問い質してしまった。グラニスは私の子か、とな。それを運悪く私が立ち聞きしてしまい、気づいた母は、その日の晩に入水をはかった」
 彼が歩みを止めた。
「助け出されて手当てをされたが、そのときの高熱がもとで体を痛めて、公務もやっとという状態になった。決して臣下には悟られぬようにしていたが、私の前では始終憂い顔で、どこか遠くを見ているようだった。かと思えば、時折思い出したように私を抱きしめて、すまない、許せと謝り続けた。私が即位するまで十年近くだぞ」
 シーネイアがあまりに悲壮な顔をしていたのだろうか。
 グラニスは小さく苦笑して見せた。
「そんな顔をするな、私は母を疑ってはいない。ただ、母が父でない男に心を残していたことは事実だと思う。それがなければ父もあんなことを口走らなかっただろうから」
 彼の右の手が、そばの薔薇の枝をゆっくりと握りこむのが見えた。棘がないはずはないのに、彼の表情には痛みを感じている様子がない。
「陛下」
 聞こえていないかのように、彼は目を伏したままだった。その手が一枝を千切り取ってしまう。
「陛下、おけがをなさいます」
 シーネイアも石畳を下りて薔薇園に入った。
 近づいてグラニスの拳を取る。
 彼は、黙っておのれの手もとを見下ろしている。
 シーネイアは、両手で大きな拳を包みこんだ。
 きつく握り込まれた指は、溶けて固まったかのように開かない。
 彼の強張った腕から力が抜けてしまうまで、じっと、ただ手を握っていた。彼はされるがままに立ち尽くしている。
 ふいに、力が緩んだ。
 そっと指を開かせて、枝と葉を取り除いてやった。
 案の定、硬い棘が手のひらに刺さったらしく、皮膚から血を滲ませている。
「痛みますか?」
「いや……」
「私も、扱い始めはよく怪我をして叱られました」
 肌のえぐれた小さな傷口。
 乾いた手のひらのうえに、紅い雫がひとつ、はちきれそうに膨らんだ。こぼれる、そう思ったとき、シーネイアはそこに唇をつけていた。
 錆のような匂いが口腔にひろがった。 
 我に返ったのは、唇が濡れた音を醸したからだった。
 慌てて手を離し、身を引いた。
 浅はかなことをしてしまった。汚らわしいと思われただろうか。
 彼の顔を見ることができずに、シーネイアは背を向ける。
「手当てを……」
 そう言って歩き始めた。
 肩から、ふわりとグラニスの上着が滑り落ちる。
 冷えた空気が肩を撫でる。
 代わりに与えられたのは、壊れ物にするような抱擁だった。
 グラニスはシーネイアの肩口に顔を埋め、そのまま動かなかった。
 無理やり強いられたときの記憶が蘇り、胸が引き絞られるように痛んだ。唇が乾いてわなないた。
「頼む、このまま」
 くぐもった声。縋るような響き。
「もう少しこのままで」
 慄きが、時間とともに引いてゆく。
 シーネイアは、腹の上に置かれた右手に、おのれの右手を重ねてみる。痛まないように持ち上げて、左手を添えた。
 グラニスの肌はひどく熱いのに、不快ではなかった。
 背なに覆いかぶさる体温に、ゆっくりと思考を溶かされてゆく。














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