深淵 The gulf 21 秋も半ばというのに、この陽気は何だろう。 庭へ続く居室の扉は開け放たれて、乾いた気持ちのよい風を運び入れる。去年の今頃のブレンデン邸では、毎日絶えず雪が降っていた。そもそも秋は季節と呼ぶにも短過ぎるものだった。 故郷から王都までは馬で十日の距離だというが、それだけでこんなにも気候が違うものだろうかと思う。 シーネイアは、長椅子に腰掛けて刺繍をしていた。刺繍を覚えたてのときに手習いによく刺した小花の模様を、端切れに縫い取っている。 国王が用意させていたという、真新しい裁縫道具が届けられたのだった。 新しい針箱は白木の木目が美しく、三つの引き出しにいっぱいに最上等の道具が詰まっていた。 ウォルナードに頼んだ針箱がどうなったのか、考えるのはやめておいた。誰かに処分されたか、どこかに仕舞い込まれてこの新しい品に挿げ替えられてしまったか、どちらにしてももう手元に戻ってはくるまいとわかっていた。 あの指輪も、とシーネイアは思う。 ここでグラニスに囲われて暮らしていくためには、無くしたり取り替えたりしなくてはならないものだったのだろうか。大切にしているものを何もかも削ぎ落として忘れなくては生きていけないのならば、いったい自分自身はどこにいるのだろう。 考えれば考えるほどに自分を追い詰めてしまう。 一瞬でも忘れていたくて、久方ぶりに針をもった。 針と糸の感触は、ただ懐かしかった。半年近く刺繍をしていなかったことになるから、はじめは手がきちんと仕事を覚えているか不安だったが、幼いときから染み付いた手業はそう容易には忘れがたいものだったようだ。 雨に打たれて熱にうなされ、目覚めた日から三日がたつ。 グラニスは母である王太后の病の加減が思わしくないと、その居所である北の離宮に駆けつけたあとは、そちらと王宮を忙しく行ったり来たりする生活を送っているという。 王太后は、長く病の床にあった人なのだという。先代の国王が亡くなってからは、政務は息子に任せて離宮で療養を続けている、とブリシカが話してくれた。 王太后は南の辺境の小貴族の出身で、先代に望まれて嫁いできた。先代が都の整備に力を注ぐ一方で、孤児や老人のために各地で救護院を建てたり医院を作ったりと福祉に貢献したのは、王太后の進言によるものだったそうだ。 聡明で美しく、よく先代に愛された人なので、民からは幸福な王妃と呼ばれて慕われていた。シーネイアも小さいころにその呼び名を聞いたことがある。 よくよく思い返してみれば、シーネイアは王家の人々について少なからぬことを見聞きした覚えはあるが、グラニス自身についてはほとんど何もと言ってもよいくらいに知っていることが少ないのだった。 正確な年齢も知らないし、小さなころのことも聞いたことがないし、シーネイアと会わない昼中のあいだにどんな務めをしているのかも想像もできない。聞いてわかるものとグラニスは思っていないだろうし、シーネイアも聞きたくはなかった。ふとした話題にロレンツやカメリアの名前を聞いてしまったら、自分がここにいることがとても罪深いことだと思い知らされるような気がしていた。 シーネイアはいつの間にか手を止めてしまっていた。 針を置いて目をこする。 外をふと見やる。もうすぐ正午の鐘が鳴る。 昼餐のころあいだと思って、シーネイアはため息を吐いた。ここ数日、まともに食事がのどを通らない。空腹も感じなかった。それでもブリシカやほかの侍女たちがしきりに何か飲ませよう食べさせようとものをすすめるので、シーネイアは困りきっていた。 居室の扉が叩かれた。 「どうぞ」 シーネイアが短く答えると、二人の侍女が支度のために入ってきた。シーネイアは卓の上を片付けはじめる。針箱に道具を納めて、何気なくそれを寝室に運ぼうとしたところで、ひとりの侍女に見咎められた。 「いけません!」 ふくよかで若い侍女は、あわててシーネイアからもぎ取るように針箱を奪った。突然のことにシーネイアはあっけにとられてしまう。 「どうしたんですか?」 侍女はしまったという顔をして、大きな針箱を抱えたまま頭を下げる。 「申し訳ございません! でも、あたくしがお運びいたします。どうかご自分でなさらないで、いつでもお申し付けくださいまし」 そう言って侍女は寝室のほうにいってしまった。そういえば、朝に同じように針箱を寝室からこちらに移すのにも、違う侍女の手を借りた。病み上がりの体を気遣ってくれているのだろうか。 彼女たちもきっとシーネイアを、ひどく扱いづらい主人だと思っているに違いない。 部屋に篭りきりで、何か楽しい催しを提案できるわけでもなく、夜会に出たかと思えばその晩には庭に出て雨に打たれるなどというとんでもない奇行をしでかして、侍女たちに始終いらない世話を焼かせている。 そうしているうちに準備は整っていた。 卓の上には小皿がいくつも並ぶ。 燕麦と乳の粥、蒸した鶏肉に葉野菜を添えた冷たい皿に、いつも調理法のちがう卵料理。今日は茹でられたのが殻を剥かれて盛られていた。果物が三種類、飲みものはいつも果実水と紅茶の両方が用意されていた。 少し前までは食前と食後にさまざまな酒類が出されていたが、これも体調を気遣われてか、なくなった。 昼餐がすんでも、二刻もすれば、こんどは茶の時間だといって、焼き菓子などを昼食とあまり変わらないだけ並べられるのだ。思い浮かべるだけで喉のあたりが苦しくなる。 それでも何か食べなくては頭がぼうっとするし、立ち歩くのにもふらふらと頼りない。何より、そんなシーネイアを侍女たちみなが心配そうな目で見るので、申し訳なくていたたまれない。 せめてこれからは迷惑だけはかけないようにしなければと思う。もしもシーネイアに仕えていることで彼女たちが何か不快な思いをすることになったら、それがとても怖いのだ。 促されて席に着き、短い祈りを済ませて匙をとった。さっきの侍女が給仕のために少し離れて控えている。 粥は燕麦が香ばしく、ほのかに甘かった。嚥下しやすい軟らかさだったので、飲み込むことができた。二口目を掬おうとしたところで、視線を感じて侍女を見上げた。 彼女はつぶらな小さな目を輝かせて、シーネイアが粥を食べるのを見つめていた。シーネイアと目があうと、はっとして居住まいを正す。それでも口元に笑みが浮かんでいる。 見なかったふりをして、匙を口に運んだ。 食べられるような気がするのが自分でもおかしかった。 |