深淵 The gulf
20





 彼女は、寝台に積み上げられたクッションのなかで、ひどく小さく見えた。ぼんやりとグラニスが近づいてゆくのを見つめている。
 シーネイアはかすかに顎を上げ、目を見開いて、いくらかしっかりとした顔つきになった。グラニスを彼と認めたのだろう。寝台を下りようとしている。
 寝ていろと声をかけようとしたとき、身を支えることもおぼつかない彼女が寝台のふちで身の均衡を崩した。床に落ちてしまうまえに、グラニスがとっさに駆け寄って抱き留めた。
 抱き慣れた軽い身体は、強ばっていた。
「……もうしわけございません……」
「いや、かまわない」
 グラニスは彼女を寝台のうえに抱き上げてやった。
「楽にしなさい」
 にぶい動きでグラニスの腕のなかから身を引き、彼女はクッションに背をもたせかけた。白い、木の枝のように痩せた指がこめかみを辿る。目を細めて俯くのは、頭痛を覚えているのだろうか。
 無理もない。まる二晩、熱が下がらなかったのだ。
「頭が痛むか」
「少し、痛みます」
 細い声はひび割れたように掠れていた。首も肩口も、たった二日のあいだにひどく肉が落ちたように見える。
 彼は寝台の中ほどに浅く腰掛けた。
「二晩だ。まる二晩、熱にうなされていたのだぞ」
 彼女はきょとんとした顔でグラニスを見上げていた。
「秋口とはいえ冷え込む日が多いというのに、雨の降るなか、しかも真夜中に外に出るなど、正気の沙汰とは思えんぞ。どうしてあんなまねをした」
 シーネイアは瞬きを繰り返し、考え込むように俯いた。口もとに手を当て、眉を寄せて、じっと何かをこらえるような顔をしている。
「いいか、二度とこんなまねをすることは許さない。おまえの軽々しい行いのせいで、始末に狩り出された人間は少なくないのだ」
 それどころではなかった。彼女はまだそうと気づいていないに違いないが、お腹のなかの赤子まで危険にさらされたのだ。
「おのれの身を何だと思っている? おまえは」
 そのとき、グラニスは彼女の様子がおかしいことに気がついた。
 シーネイアはやせおとろえた両手で顔を覆い、肩を震わせている。押し殺された嗚咽が聞こえる。
「シーネイア?」
「……ごめんなさい、……わかっています、……私……」
 彼女は憔悴したような目をしていた。
「知っています。……自分がどんな女なのか。私は……」
 シーネイアは弱々しく首をうち振る。考えたくないとでも言うように、塞ぎこんで膝をかかえてしまった。手入れの行き届いていた美しい金髪が、もつれ、乱れていた。滝のように流れて彼女の表情を隠してしまう。
 シーネイアは、呟くように、ごめんなさい、お許しくださいと繰り返していた。
 グラニスはその長い髪をそっとかき上げながら、彼女の顔をのぞき込んだ。
「どうした。何があった。……あの夜会か? 」
 彼女はぎゅっと目を瞑り、小さくいやいやをしていた。
 まるで、子供が何かに怯えているかのようだった。いや、事実、彼女はまだたったの十六なのだった。
 グラニスは彼女の頼りない両肩を包み、身体を起こした。
「シーネイア、話しなさい」
 彼女は答えなかった。
 唇をきつく噛み締め、目を伏せている。思い詰めた表情だった。
 彼女はほっそりとして、壊れもののような身体をしている。グラニスの前であまり感情を露にすることなく、いつもしとやかで従順で、そんな娘を彼はこれまで傍に置いてきたのである。侍女を片時も離さず付け、一挙手一投足を報告させ、身の回りのものすべてを管理させてきた。グラニスは彼女をおおむね彼の思うままに生活させてきた。
 しかし、彼女の内には、決してグラニスの知ることのない、自由にできないものがある。
 それはたとえば、彼女の刺繍や編み物の腕前であったり、早くに世を去った両親や故郷の人々との思い出であったり、恋人の秘密であったりした。
 白い柔らかい絹で覆われているような、シーネイアの心に触れてみたい。
 彼女の頑なさがグラニスを苛立たせる。苛立たせると同じく、引きつけて止まぬのやもしれなかった。
 グラニスは彼女の昂奮が鎮まるのを待った。呼吸は穏やかになり、嗚咽もやんだが、ふたりの間には切り崩せない沈黙ばかりが流れていた。
 扉が、二度叩かれた。
「入れ」
 ブリシカが慌てた様子で入ってきた。気丈な彼女にしては珍しい。
「どうした」
「王太后陛下のお具合がよろしくないとのこと、北の離宮からご使者が」
 グラニスは息を呑んだ。ブリシカが動転しているのも合点がいった。ブリシカはかつてグラニスの母に最も側近く使えた者のうちのひとりだ。
「わかった、馬の用意を頼む。それからシーネイアに何か用意してやれ」
「かしこまりました。侯爵の遣いの方はいかがいたしましょう?」
 グラニスは、ロレンツの老秘書を居間に待たせていることをすっかり忘れていた。
 帰らせろ、と命じかけたところで、ウォルナードの穏やかなやさしい目を思い出した。あの老人と会ったあとで、彼女がとても明るい顔をしていたことも。
「シーネイアに決めさせろ。まだ体調が優れぬようだからほどほどにな」
 ブリシカがグラニスの上着を持ってきた。それを無造作に羽織りながら、寝台のうえのシーネイアを振り返る。不安そうな瞳と視線が交わり、グラニスは苦笑した。
 自分がいないほうがむしろ、彼女は心休まるのかもしれない。
「また来る。話さなくてはならないことがあるから、私もおまえも落ち着いたあとでな」
 タイを締めながら部屋を出た。ウォルナードが頭を下げているのを見下ろし、いささか苦い思いで居間を横切った。










 国王と入れ違いに、寝室のなかにウォルナードが入ってきた。彼の心配そうな目を見た瞬間に、シーネイアは情けなさと申し訳なさで胸がいっぱいになってしまった。
「お久しぶりでございます」
 彼は微笑んで礼をとった。ブリシカが飲み物と一緒に用意した、寝台の側の椅子に、大義そうに腰掛ける。
「お加減はいかがですか。思っていたよりもお元気そうで安心いたしました」
 シーネイアは俯いた。みっともない格好でいることを承知していたからだった。寝台のなかに寝巻姿のままでいるのだ。そのうえ髪は乱れ、頬はまだ熱くほてっている。
「庭でお倒れになっていたと伺いましたが、いかがなさったのですか? まさか、どこぞの不届き者が為したことではありますまいな?」
 シーネイアは目を上げた。
 国王にも同じことを尋ねられた。答えることもできなかった。話して、馬鹿馬鹿しいと一蹴されるのが恐ろしかった。
 彼女は小さく首を振る。
 誰かに部屋を追い出されたり、唆されて部屋を出たのではなかった。
「わたしが自分で庭に出たのです。……いろんな方たちにご迷惑をかけてしまいました」
 ウォルナードは黙って聞いていた。
「あの晩は雨が降っていて……冷たくてとても快くて。何もかも洗い流せてしまうような気がしたのです」
 夜会からようやっと帰り着いたあと、疲れはてた身を休ませようとしたが、眠ることができなかった。やまない雨音に誘われて中庭への扉を開いた。てのひらを空に差し伸べれば、柔らかい雫が肌を打った。
 雨は、染み入るように潤してくれた。人目に晒され凍え切ったからだを、聞くにたえない言葉を浴びて、せめてもの誇りを手放してしまった心を。
 額を流れる水滴が、おかしいくらいにくすぐったかった。かすかな痛みと心地よい冷たさに、シーネイアは我知らず身を任せてしまった。
「夜会で何かあったのですね?」
 深い声が穏やかに問うた。ウォルナードは首をかしげ、下からシーネイアの顔を優しい眼差しでのぞき込んでいた。その仕種が、幼いころの記憶のなかの父のものによく似ているように思え、不思議な心地になるのだった。
 目を瞑った。脳裏に、故郷での最後の春の景色が浮かぶ。
「ウォルナードさん、私は、ずっと、おのれの生まれを恥じてきました。母は祝福されないで私を産んで、そのために私はお父様やロレンツさまと会うことも許されず、他の子供たちと同じように暮らすこともできないのだと」
 シーネイアは細く息を吐いた。
「だから、私は、母の犯した不倫の罪を重ねたくないと思っていました。でも……」
 唇が笑みのかたちに歪む。
 その決意は、マクシミリアンの存在によってあっけなく覆された。
 彼の傍にいられるのなら、結婚などしなくてもよかった。妻になれず、子供を産まなくても、誰も喜んでくれなくてもかまわないとまで思っていた。
 ウォルナードには、今シーネイアが何を考えているかくらい見通せているのだろう。ロレンツが知っていたマクシミリアンとの関係を、その片腕である彼が知らないはずはない。何より、ロレンツに国王の妾となれと命じられたとき、彼はロレンツの背後に控えていたのだ。
 シーネイアは頭を振った。
 彼女の視界で、父にも、ロレンツにも似通った暗い色合いの金髪が揺れた。
「お屋敷にいたとき、一度だけ、町へ下りたことがあるのです。道をふらふらと歩いていて、ぶつかった相手にぼうっとするなと怒鳴られました。そんな経験がなかったので、とても驚いてしまいました。でも、夜会で会った方たちのほうが怖かった」
 まばゆい光の溢れる大広間、絶え間ない音楽、脂粉と花と酒の匂い。着飾った人々の冷たい目とひそやかな囁き。
 恥を知らない血筋の女、人倫に背く獣の子と、そう呼ばれるのを聞いた。
 教わった通りに振舞おうとしたが、からだが動かなくなってしまった。たくさんの貴族たちが笑いさざめき、話しかけ、踊りを申し込んでくるのに答えながら、どこか遠くで他人ごとのように感じていた。
「私はいままで、気づきませんでした。ブレンデン邸の人たちは誰も、母と私を蔑んだりはしませんでした。みんなが守ってくれていた。すべてが、お父様とお母様と、アーニャのおかげだったのに」
 ブレンデン邸で、侯爵家の他の人々と偶然に顔を合わせることなど一度もなかった。シーネイアは僅かな不便こそあれ、あの美しい白い屋敷で、のびのびと自由に育てられた。父の配慮あってのことだった。
「お嬢様」
 ウォルナードの右手が、ふたりの間で止まっていた。その手は震えているように見えたが、やがてしっかと握り締められ、彼の膝のうえにおさまった。
「ウォルナードさん、ありがとう。……話を聞いてくださって。でも、何かご用向きがあっていらっしゃったのでしょう?」
「ええ、ですが、もう済みました。長居もお体に障りますから、これにて失礼いたします」
 彼は立ち上がり、お辞儀をしてシーネイアに背を向けたが、扉の前で振り返った。
「都でも、襟巻きの恋しい季節になりましたな」
 シーネイアは思い当たって、困ったように首をかしげた。
「ごめんなさい、道具があれば、すぐに仕上げて差し上げられるのですけれど。ディンムにも悪いことをしました」
 手元に馴染みの針箱はなかった。国王は新しいものを届けさせると言った。それは、そういう意味なのだろう。
「そういえば、ブグネルのところに初孫が生まれるそうですよ」
 きょとんとしたシーネイアに、ウォルナードは、一瞬だけけげんな顔をした。けれど、すぐに、それではと短く言って部屋を出ていった。










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