深淵 The gulf 12 兄の私室に呼び出された後そのまま、シーネイアは覚束ない足取りで廊下をすすんでいた。 壁に寄りかかりながら、シーネイアは瞬きを繰り返した。たまらなくなって、彼女は暗闇の中にうずくまる。 ロレンツは、信じられないことをシーネイアに命じて、その唇で彼女と彼女の母とを罵った。 『国王陛下が、おまえを愛妾に御望みだ』 シーネイアを冷たい目で見据えながら、彼は淡々と説明した。 半年後の国王とカメリアの結婚式と同時に、シーネイアは王宮に入ること。一角の愛妾として宮殿に部屋をいただいて、そこで国王のお召しを待つこと。それで生涯を安泰に暮らせるように取り計らわれること。 それを呆然と聞いているなかで、シーネイアは言葉にされるまでもない無論のことを悟った。彼女自身には、何一つ拒む自由は与えられていないという事実を。 長椅子から立ち上がることもできないシーネイアを放って、彼は奥の部屋へ去って行こうとした。 『おまえはどこもかしこも母親にそっくりだよ』 それが、吐き捨てられた最後のせりふだった。 そのあとのことは、ぼんやりとしか覚えていなかった。 老いた秘書が二人の間にやってきた。二年前に父の遺言を知らされたときと同じように。そして秘書がひどく狼狽した様子で何事かを兄に訴え、兄はそれを怜悧な一瞥ではねつけた。 取り残されたシーネイアは、再び、秘書が止めようとするのを振り切って部屋を飛び出した。追われる気配を感じて逃げ惑ううち、いつのまにか、シーネイアはマクシミリアンの部屋の近くへやってきてしまっていた。 彼女は兄の言葉を頭のなかで繰り返す。 『恥知らずめ』 『どんな手管を使ったのか、披露してもらいたいものだ』 『何も知らないような顔をして』 国王陛下は、ほんの数日前に都へ帰っていった。シーネイアは、バレードの中の小さな姿を、遠目でかすめ見ただけだ。 兄の言ったことが真実とは思えなかった。国王陛下が自分を望むなどとは、きっと何かの間違いのはずだ。自分は、彼と目を合わせたことも、言葉を交わしたこともないというのに。 けれど、シーネイアの与り知らないところで、確かに密約は結ばれていたのだった。 あまりのおぞましさに口元を覆う。 未婚の貴族の子女がたいていそうであるように、シーネイアは年齢のわりにかなり男女のことに疎かった。 けれど、愛妾というものがどんな存在なのかということくらいは理解できる。シーネイアの母がそうだったのだ。自分が私生児という立場であることも、十六のシーネイアは知っていた。 だから、神のお許しをいただいた幸福な結婚をすることなど、シーネイアは夢見たことはなかった。兄の手によって誰かに嫁がされるとしても、それは貴族の政略結婚の域を出ることはあるまいと信じていた。 そしてシーネイアは、誰かの許へ嫁がされるよりも、マクシミリアンの側にいたかったのだ。 シーネイアは惨めさに唇を歪めた。 この生まれのために、自分は、望み望まれて結婚することが許されないのだ。恋しい人の妻になることはできないのに、国王陛下の御愛妾になることを定められているなどとは、なんと滑稽なことだろう。 美しい異母姉の姿が目に浮かぶ。姉と妹を娶るなどとは、正気の沙汰とは思えなかった。 胸の底が冷えるような、兄の囁き。それが何よりもシーネイアを脅かす。 『おかしな真似を企てればどうなるか、わからないほど愚かではないだろう? おまえだけでなくおまえの大事な“兄”とやらにまで累を及ぼすぞ』 シーネイアの開いた両手がかたかたと動く。 『ここにいられなくしてやろうか。それどころか、この国から追い出してやることもできる。いいか。大人しく陛下に従いさえすれば、おまえが安泰に暮らせるばかりではない、私があの従者にも相応な嫁を見つけてやって人並みの生活をさせてやる。おまえのような半端者には、過ぎた幸福じゃないか』 拳を握ろうとするが、指が強ばってうまく果たせない。 やがてその震えは腕から全身に及んだので、たまらず我が身を抱きしめる。 いつだったか、マクシミリアンが言ってくれたことがあった。 もしも兄が無理遣りにシーネイアをどこかへ嫁がせようとしたら、自分がシーネイアを攫ってどこへなりと逃げてやる、と。 あのときはあまりに幼くて、ただ嬉しくて、無邪気にもその言葉を頼みにしてしまった。 けれど、兄のこの命令は、この館から二人が姿を消して、それでお仕舞いにすることのできるようなものではないはずだ。自分が拒めばマクシミリアンに罰が与えられ、ともにこの館を逃れ出れば死ぬまで追われるだろう。 聡いマクシミリアンには、既にその覚悟があったのかもしれない。みなわかった上で、約束してくれたのかもしれない。 けれど、シーネイアは、マクシミリアンをそんな目に遭わせることはしたくない。 シーネイアは涙を拭った。 彼の顔が見たかった。声を聞いて、抱きしめてもらいたかった。 ただそれだけを考えて、立ち上がって、歩きはじめた。 シーネイアはマクシミリアンの寝室の扉をゆっくりと開いた。 時は宵だった。まだ彼は床についてはいないだろうが、あたりは静まっていた。 春とはいえ、ひどく冷える晩もある。彼は、暖炉の前の絨緞に座って、炎の明かりで本を読んでいた。シーネイアが背後から近寄ると、本を膝のうえに伏せて顔を上げる。 シーネイアは、彼のすぐ隣に座った。胸が脈打つのを感じながら、暖炉の中の小さな火を見つめる。 「旦那さまのところに行ってたんだろ。また何か言われたのか」 なぜ、彼はこんなにも鋭いのか。けれど、動揺しているのを悟られてはいけなかった。彼には何一つ知られてはならないのだから。 「叱られちゃった」 それは、彼に対してはじめてつく嘘だった。 「町に下りたのが、誰かに見られてたんですって。ばれない工夫をしたのに、悔しいわ」 マクシミリアンは深刻そうな顔をしている。 「大丈夫よ、一人で勝手に行ったんだって言ったら、旦那様は信じてくださったから。そんなにひどく怒られたわけではないし。その代わり、礼儀作法の先生がこっぴどく絞られるかもしれないけれど……」 「本当に平気か?」 シーネイアは笑った。 「そうよ。叱られてもいいの。とても楽しかったもの」 それだけは本当だった。二人で町にしのんだあの日のことは、決して忘れるまい。 この館に生まれてからずっと、マクシミリアンが側にいてくれたこと。アーニャとともに、誰よりも優しく厳しくしてくれたこと。 「もし私が侯爵家の娘じゃなかったら、毎日あんなふうに暮らせたかしら。私、仕事なんて何もできないけれど、町に生まれていたらいろんなことを覚えてたかしら?」 マクシミリアンは首をかしげ、小さな欠伸をした。 「そうだな……、たぶん炊事は苦手だな。それから洗濯と掃除も」 シーネイアは頬を膨らませる。気分が台無しだ。 「でも裁縫は完璧だ。それから、子供の面倒を見るのを得意かもしれない。それで……」 マクシミリアンは言葉を切った。 シーネイアは彼を見上げる。 「それで?」 彼は僅かに俯いて、はにかんだ。 「もうとっくに、俺の奥さんになってる」 マクシミリアンがこんなことを口にするのは初めてだったので、シーネイアは目を見張った。けれど、すぐに笑みかえした。目の奥が熱くなるのを必死で抑える。 シーネイアはマクシミリアンの肩に頭を預ける。結い上げた髪が崩れかけたが、気には留めなかった。 シーネイアは、震える唇で問うた。 「……教会で花嫁衣装を着て、おかあさまやアーニャに祝福されて?」 ありえない未来を語るのは楽しい。そしてそれ以上に悲しかった。 答えのかわりに、マクシミリアンの腕がシーネイアの肩にまわる。 彼の手の甲にてのひらを重ね、シーネイアは目を閉じた。 彼の衣服越しの温もりがシーネイアの背を包む。その体温から離れがたく、言葉も交わさないままにシーネイアはマクシミリアンに身を預けていた。 いつまでもこうしていたかった。 このまま眠ってしまいたかった。目が覚めたら何もかもが夢だったならいい。 暖炉のなかで小さく爆ぜる火が、シーネイアの思考を鈍らせる。赤くゆっくりと揺れて、橙色に変わり、また赤黒くゆらめく。 彼と自分との恋は終わってしまう。いや、シーネイア自身が終わらせるのだ。 もう十分だった。 長い、長い夢を見たのかもしれない。 その夢はシーネイアが生まれたときには始まっていて、彼女にずっと安らぎをくれた。今日までのあいだ、あたたかな慈愛をもってつらいことを忘れさせてくれた。 マクシミリアンの大きな手は、きっと他の人のものになる。いつか、彼にふさわしい明るい可愛らしい女性と、産まれた子供たちを抱きしめるためにあるのだ。 もしもシーネイアが王宮へ行けと命じられず、この館に死ぬまで留まっていたのだとしても、彼の妻になることも、彼の子を産んであげることも、シーネイアにはできなかったのだ。 彼の覚悟に応える術を、シーネイアは持たなかったのだ。 自分には、こうするよりほかに、彼のためにできることなどなかった。そんなことは、とうにわかっていたのに。 「もう、戻るわ」 彼の手からそっと逃れ、シーネイアは告げた。 「しばらく、私の部屋にはこないでね。先生が目をぎらぎらさせてるはずだもの」 いたずらっぽくシーネイアは笑う。 マクシミリアンは肩を竦め、ああ、と短く答えてくれた。 二度とこの部屋へは来るまい。 決して彼には触れるまい。別れがつらくなるだけなのだから。 シーネイアは衣服のうえから、首に架けた指輪を握り締める。 母のくれた、乳母の優しさを受けた、マクシミリアンの触れた小さなよすが。 |