深淵 The gulf
11






 歓待の宴は、日付が変わっても終わる様子はなかった。
 侯爵令嬢をはじめ、近隣の地主や資産家も招かれての盛大な会合だった。
美しい広間はシャンデリアによって黄金色に輝き、行き交う人々の鮮やかな絹の服に彩られ、王宮に劣らぬ華々しさを誇る。花と脂粉と酒のにおいがあふれるほどに満ちている。
 その目的は、ひとえに侯爵家の財力と人望を主賓であるただひとりの男に示すことだった。
 しかし、当の彼は宴を抜け出して、館の中庭にいた。
 アジェ侯爵領は、整備された街道と豊穣な土地を持つことで知られている。しかしそれ以上に高名なのは、雪のなかでこそ宝石のように映える館の美しさだった。二度咲きの薔薇園をかかえるささやかな中庭も、都に名を響かせている。
 季節は春。
 眠りについていたつぼみが、陽光のささやきに目を覚まし始めるころ。
 薔薇の木は腰ほどの高さまでしかないので、見晴らしは悪くない。
 グラニスは、ゆっくりと庭の奥へはいってゆく。
 花は五分咲きといったところだった。
 白と紅色のはなびらが、漏れくる明かりに照らされて淡く輝く。
 たわむれに一つの花を手に取り、そのびろうどのような手触りを楽しみ、また次の花に触れる。刺が小さいのか、幾度かちくりと指をさされたが、あまり痛みは感じなかった。
 どれだけ丹精されたのだろう。
 萎れている花や、虫食われの葉など一つもなかった。
 ふと、自分の妻になるだろう女の顔が浮かんだ。
 カメリアは、この花のような女だ。
 どこまでもしなやかで艶やかで、瑕などひとつもなく、痛みをもたらさない申し訳ていどの刺を持っている。
 グラニスは唇を歪めた。
 そんな女は、この国にもその外にも、数えるまでもなく大勢いる。
 この薔薇園の中のように。
 グラニスは花を見ているのがいやになって、ふと建物を見上げた。
 本館と中庭を隔てて向かいの、館の西翼である。
 二階の窓が開け放されていた。
 人影が見えた。
 だが、誰もいるはずがない。
 侯爵家の面々はもちろん、使用人もみな宴のために広間に集まっているのだ。
 奥に立っているらしく、暗くて顔もわからない。
 小さく細い影が、ゆっくりと窓に近づいてくる。
 白い顔が、月明りのもとにあらわになる。
 グラニスは目を凝らした。
 あの女だった。
 髪を肩に下ろして、寝巻をまとっていたが、間違いなく昼間見た白い頭巾の少女だ。滑らかな額、細い鼻梁、淡い色の薄いくちびる。
 あのときと同じく、細めた目で外を見下ろしている。
 その視線の先には、宴の繰り広げられている、明るい広間がある。
 苦しげな目。
 彼女は城下の給仕ではなかったのだろうか。それとも館の使用人なのだろうか。しかし、あの部屋は侍女には相応しくないように見える。
 では、あの娘は何者か。
 わけの知れない苛立ちが、彼の胸のあたりで疼きはじめた。
 わからないならば知ろうと試みればよい。
 生涯で初めて感じたその感情を何と名付けるべきなのか、彼には考える余裕すらなかった。
 




 侯爵家の客室には、二人の男がいた。
 ひとりは客人である国王、もうひとりは館の主である若侯爵である。
 グラニスは物心つく前から彼のことを知っていたが、彼は守役であったこの男ほど年を重ねて変わった男を他に知らない。
 グラニスが十になるころまで、ロレンツはいささか活発過ぎるほど才気に満ちた青年だった。守役としてグラニスに傅きながら、近衛兵としての務めをこなす、明るくたのもしい男だったのである。
 しかし、今の彼は、有能であることに間違いはないが、世辞にも親しみやすいとはいえい人物だった。仮面のような美貌に、彼はかけらほどの感情も表わすことはない。
 彼が豹変したのは、確か、妻をめとったころだった。
 グラニスに対する態度も、かける言葉もまったく変わらなかったが、彼は心の底から笑ったり怒ったりすることがなくなった。
 だが、侯爵夫人との夫婦仲は、月並みという噂だった。つまり、悪くもなく良くもない、契約という名の貴族の政略婚に過ぎなかった。月並みに十四歳と十二歳の息子があり、彼らは早くも近衛隊に入隊している。
 だが、いまグラニスの目の前に座るロレンツは、いつもと変わらない顔に、僅かな期待を滲ませているように見えた。言うまでもなく、妹が王妃となることを望んでいるのだ。
 彼は低い抑揚の少ない声で言った。
「陛下、お話とは、どのような?」
 グラニスは、直截に告げることにした。
 ささやかな良心の痛みより、掻き立てられるような胸の熱さのほうが耐え難かった。
「カメリアを私の后にしたい。但し、条件がある」
 ロレンツは僅かに身を乗りだし、膝の上で手を組んだ。彼は極めて冷静だった。
「女をひとり王宮に寄越せ。この館の者だ」
「寄越せとは、……使用人のいずれかでしょうか」
「昨晩、西翼の二階にいるのを見た。金髪で、年は十五、六」
 ロレンツの暗い緑色の瞳が揺れた。形のよい眉が寄せられる。
 まさか、と彼の唇は言葉をつむいだ。
 グラニスは畳み掛ける。
「その娘、名は何という? なぜ宴にはいなかった?」
 ロレンツは答えない。
「ロレンツ?」
「それは……」
 彼は額に手をやった。困惑しているらしい。
「それは、おそらく、あれでしょう」
 グラニスは訝しんでロレンツの顔をのぞき込む。
 ロレンツは俯き、首を数度横に振る。
「あれは、父の妾の娘です。母は身分低い侍女で、教育らしい教育もしておりませんし、使用人に混じって立ち働く、田舎娘同然の……」
 本当に困っているらしい。
 彼が言い淀む。グラニスは問い続ける。
「成程。それで、名は?」
「シーネイア・エイダと。エイダは母の姓で、つまり、我が家では庶子とは認めておらず、ただ扶養しているだけの娘です」
「それは好都合だ」
 ぎょっとした顔でロレンツが目を見開く。
「都合がよい、とは?」
「公的な場所で、二人が姉妹と知られないですむということだ。おまえの体面も保てる、私もへたな悪評はうけずにすむ。それに、娘に家族はないも同じ、娘をやらぬとごねる者もおらん」
「ご冗談を……。ともにお側に侍らせるとは……、少しは哀れとはお思いになりませんか」
「どちらが哀れだと?」  グラニスはとぼけた口調で尋ね返す。
 ロレンツは眉をひくりと吊り上げた。
 気づかないふりをして背もたれに身を預け、部屋を見回した。
 絵画、彫刻、そのほかのさまざまな芸術品が壁に沿うように並べられている。一目でそうと知れるようなあからさまに高名な品々ではなかった。派手派手しさのない、しかし素朴で暖か味のある趣味のものばかりだ。
 素焼きのような壺は、仰々しいほど見事な薔薇を映えさせる単純なもの。暖炉の上に飾られた春の女神の絵は、やさしく見る者の心を和ませる。
 おそらくほとんどが、好事家で知られた先の侯爵の集めたものに違いなかった。ロレンツには残念ながらその好ましい趣味は受け継がれなかったらしい。
「侯爵家の籍には入っていないのだろう? 他人も同然だ」
「陛下、落ち着いてお考えください。神がお許しになりますか。血のつながった姉と妹を、ともに娶るなど」
 彼にしては激しい声で、ロレンツは言った。
 グラニスは斜に構え、ロレンツを見た。必死な形相が、なぜか苦笑をさそう。
「そのように言うのなら、妹のほうだけでいい。王妃は他家から取ることにする」
 なぜこの男がシーネイアという娘をグラニスのもとへ遣りたくないのか、グラニスには理解できない。
 グラニスの知っている彼ならば、眉ひとつ動かさずに多大な持参金とともに姉妹を差し出しているだろうに。
 口の端を歪め、ロレンツがつぶやく。
「……馬鹿げています」
「貴族とはそういうものではないか」
 まったく解せないという表情で、ロレンツは頭をかかえている。
「なぜ、あの娘を? 何かあれが陛下の御前でいたしましたか。外にも出さぬよう言い含めていたのに……」
 よほど、その娘はこの男にとって厄介者だったらしい。それでは、昨日の昼に城下へ下りていたのも兄の許可を得てのことではないのだろう。
「見ただけだ。だが、欲しくなった」
「他に陛下に相応しい、美しい女はおりましょう」
「くどい」
 グラニスは足を高く組んだ。
「それとも、カメリアに尋ねてみるか。おのれも来るか、妹だけを行かせるか。あの女ならばもろともに私のもとへ来るだろうが?」
 ロレンツは返答に詰まった。
 グラニスが長椅子から立ち上がる。
 それを見上げ、ロレンツは言い捨てる。
「……そのようにお育てした覚えはありませんのに」
 我知らず高揚したグラニスの耳に、ロレンツの言葉は届いていた。だが、咎めるつもりも聞き入れるつもりも少しもない。





 ←back  works  next→