深淵 The gulf
13






 窓から、真昼の高い陽が差し込む。
 王宮の南の部屋は、小さな庭園に面していた。高い壁が庭を囲っている。ささやかな庭のなかのつつましい薔薇は、ただひとりのためだけに咲いていた。
 その部屋は、新しい主を迎えいれたばかりだった。
 国王がシーネイアに与えたのは、客室に居室、それから二つの寝室を備えた一続きだった。そこは真新しい白色の壁紙と深緑の絨緞で整えられ、飴色の家具や道具で統一されていた。  ブリシカと名乗った中年の侍女が、シーネイアに部屋を案内した。
 彼女はまるで若い嫁をもらったばかりの姑のように軽やかな口振りで、嬉しげな明るい表情で喋った。
「このお部屋は、陛下がみずからお見立てくださったのですよ。何から何まですばらしいご趣味で、最高級のお品を取り寄せてくださいました。それも、みな、あなたさまがお寂しい思いをなさらないようにとのご配慮でございます」
 シーネイアはおとなしくブリシカのあとをついて歩いた。
「もう少しここの暮らしにお慣れになったら、夜会やお茶会のお誘いもたくさんまいりますから、出かけてみるのもよろしゅうございますよ。気分が晴れやかになりますもの」
 思ってもみないことにシーネイアは目を見張った。
 そんなところに自分が招かれることなどあるのだろうか。シーネイアは宮廷の礼儀作法も知らず、知人のひとりさえなく、何より貴族の籍も持たない。
「それから、何か不自由がございましたら、すぐにわたくしにお申しつけくださいませ。どんなことでもよろしいのですよ」
 ブリシカは振り返り、人の良さそうな笑みを浮かべた。
 シーネイアはいたたまれずに目を伏した。
「いかがなさいました? 御気分でも悪うございますか?」
「いいえ。いいえ、ただ……」
 か細い声が唇から漏れた。
「……何もかもおそれおおいのです。私などにはもったいなくて……」
 俯き、シーネイアは身体の前で組んだ両手を見た。
 真新しい薄紅色の絹のドレスは、国王から届いた数え切れないほどの贈り物のうちのひとつだった。ドレスばかりではなく、髪を巻く道具も、髪飾りも靴も、全てが国王に与えられたものだった。
 故郷から持ち出した僅かな身の回りのものは、荷を解かれることなく王都の侯爵邸に置いてきた。そんなものとは比べるべくもない贅沢な品が用意されていた。
 シーネイアは胸元に手を運ぶ。ドレスの下に、鎖に架けた指輪があった。彼女が持っていられた、たったひとつの忘れ形見だった。
 ブリシカがおっとりと答える。
「お気にかけるようなことなど一つもございません。ただ、陛下のおっしゃるとおりにして、陛下をお慰めしてさしあげ、健やかにお暮らしになればよいのです」
 まるで実の母親のようにやさしい囁きだった。
 けれど、それは寒気がするような宣告だった。国王の言うことを聞き入れ、彼を満足させることだけが、ここで生きることのすべてなのだと。
 シーネイアは目を上げた。
 ブリシカは微笑んでいた。
「今宵、晩餐ののち、陛下がこちらへお越しになります。お心安らかにお待ちくださいませ」
 彼女は礼を取って下がっていった。
 シーネイアは、耳に残る侍女の甘い声を、頭のなかで繰り返していた。





 夜更けの部屋に明りはなかった。
 闇のなかで感じるのは、極上の絹の冷たさと滑らかさ。
 シーネイアは、思いのままにならない身体をもてあましながら敷布の波に埋もれている。生温い泥のなかに浸かっているような重さよりも、おのれの身への厭わしさのほうが勝っていて、彼女は肩に爪を立てた。
 初めて男に肌を許した。  ただ、自ら身を委ねたのではなかった。
 さっきまでシーネイアを腕の中に閉じ込めていた男は、彼女の隣にはいなかった。それだけのことがありがたかった。もしも一つ床のなかで震え続けて彼に背を向けていれば、きっと彼は気分を害したことだろう。
 シーネイアは唇を噛んだ。そんなことを考えている自分が浅ましく惨めだった。
 グラニスがこの部屋に入ってきてからのことは、あまりよく覚えてはいない。
 蝋燭のささやかな灯のもと、視線が交わるなり、彼の言葉を待つ間もなく乱暴に抱き寄せられた。彼がどんな表情をしていたのかもわからなかった。彼女は寝台の上に運ばれて、身を竦ませていることしかできなかった。耳に吹き込まれた睦言も、一つも頭に残らなかった。肌をまさぐる大きな手、むさぼる唇に、いっそのこと気を失ったほうがましだとさえ思った。
 シーネイアは震える指先を見つめた。
 この爪も、血も骨も、何もかもが昨晩までとは違っているように感じられた。少しも変わってはいないはずなのに、自分のものではなくなってしまっている。まるで誰かの手によって捏ね回されて、先と全く同じように形作られたかのようだった。
 どうせ自分のものでなくなってしまうのなら、一度くらい心から望んだ人に愛してもらいたかった。
 脳裏にマクシミリアンの面影が浮かぶ。
 それを掻き消したくてきつく目を瞑る。
 どうして、グラニスを受け入れてしまったときにマクシミリアンのことが頭から消えてしまわなかったのだろう。もはや会うこともかなわないというのに。そう覚悟してきたはずなのに。
 熱いものが目尻を伝い、敷布に落ちて染み込んだ。とめどなく流れ続けるので、どうしようもなかった。
 足音がした。ゆっくりと近づいてくる柔らかい音だ。
 シーネイアは寝台のなかで身を縮めた。
「シーネイア」
 低い声。
「起きているか」
 優しい響きだった。けれど、それは聞き慣れないものだった。
 彼は枕の隣に腰掛けた。体重をかけられて寝台の端が沈んだ。
 大きな手が敷布のなかに潜り込んで、シーネイアの髪に届いた。ブリシカがリボンで結ってくれたのが、いつのまに解けてしまったのか。背のなかほどまである髪は、グラニスの指のうえでゆるく波打ちながら踊った。
 彼の手つきはひどく繊細なのに、シーネイアの緊張は消えなかった。
 どう振舞えばよいかわからなかった。
 身体を鋭い痛みに貫かれたが、気怠い腕を突っぱねて、シーネイアは身を起こした。
 胸を隠し、俯く。
「無理をするな」
 太い腕が裸の肩にまわる。
「痛むか? 眠れないか?」
 国王は、子供にするように頭を撫でた。彼はシーネイアの髪をしきりに指で梳き、こめかみに繰り返しくちづけを落とした。
 シーネイアは身を強張らせ、なすがままにされている。
「思い出した」
 そう言って彼は立ち上がった。何をされたのかわからないまま、シーネイアは彼の腕のなかに軽がると抱き上げられていた。敷布にくるまれて横抱きに持ち上げられていたのだった。
 彼は器用に扉を開けて庭園へ向かった。
 冷えた外気が頬にあたる。グラニスの腕のたくましさを感じた。
 明るい月の下、白く咲き誇る薔薇が浮かび上がる。
 花は盛りであって、しかも青みを帯びて見えるほどの白薔薇だった。
 真昼に見たときよりもずっと映えていた。
「きれい……」
 思わず声が零れた。
「気に入ったか。ほしいものがあったら、ブリシカに言いつけるといい」
 シーネイアは彼の顔を見上げた。
 彼の唇は、かすかな、誇らしそうな笑みを浮かべている。
 シーネイアは、どうすればいいのかわからなくなる。笑って礼を言えばいいのだろうに、顔の筋がうごかない。
 贅沢な品々が、美しい庭園が、国王の優しさが、ただそら恐ろしかった。
 自分には、こんなものを受け取る理由はまったくなかった。
 シーネイアは、グラニスの胸に顔を伏せた。
 胸元に手を伸ばしかけた。
 今はそこには何も架かっていないのだと思い出し、指を握り込む。母の指輪は、寝室の化粧箪笥の奥にしまいこんでいた。
 そのしぐさに何を思ったのか、彼は敷布ごとシーネイアを抱えなおすと、寝室のなかへ戻っていった。





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