オダリスク 9 愛憎劇の末 皇帝に力尽くで引きずられていった先は、彼の私室のある南の一角だった。彼は、ツイーが足も踏み入れたことのない建物の裏側や庭を通り抜け、ツイーをここまで連れてきた。その間、彼は一度もツイーを振り向かなかった。 皇帝が扉を開けると、部屋付きの数人の侍女たちが平伏して彼を迎えた。 ツイーはかつて、一度だけここに招かれたことがあった。六年前、後宮に入った日の晩だった。 あのときのまま、部屋には格子のはまった大きな窓が二つ。そこから西日が鋭く差し込んで、金と茶色で統一された室内を赤く染め上げている。調度はごくごく質素なもので、部屋の最奥に鎮座する寝台だけが不釣合いに大きい。 「下がれ。私が出てくるまで誰も通すな」 女たちは滑るように退出していき、扉がゆっくりと閉まった。 皇帝は、香炉を握ったままのツイーの手をようやく放した。指が痺れていうことをきかず、ツイーは香炉を床に落としてしまう。拾おうと腰を屈めたとき、下から掬い上げるように身体を壁に押し付けられた。 ツイーは息を詰め、間近になった男の顔を見た。 黒い瞳。高い鼻梁、薄い唇。しっかりとした顎から首にかけての線。広い肩。六年前はツイーと同じだけの背丈だったのに、今は頭二つぶんほどにも彼のほうが上背があった。 もう、彼は十四の少年ではない。 彼と比べれば、自分のほうこそが子供のようだ。 時を止めてしまったかのように、いつまでも他愛なく頼りないまま。 「こんなところに連れてきて、どういうおつもりですか。誰に見られるかわかったものではないのに」 逸る胸を抑え、ツイーは平静なふりをする。 「人のいない道を通ってきただろう」 「でも、さっきの侍女たちが」 「信頼できる者たちだ」 ツイーは言葉に詰まり、顔を伏せる。 「さあ、言え。何があった。誰が、おまえに何をした」 ツイーは、俯いたまま唇を噛んだ。答えるわけにはいかなかった。今すぐにここを出て、グエンの待つ自室に帰らなくてはならなかった。何事もなかったかのように、宴に出るための支度を始めなければ。 そして、去年のように、苦いばかりの珈琲を飲み、料理と菓子を口にし、酣に皇帝が女を連れて閨に消えるのを見送るのだ。 「……お話しする必要はありません」 おのれの喉が震え、声が揺れているのがわかった。 「部屋に帰してください」 言い終わる前に、皇帝がツイーの顔を乱暴に掴んで持ち上げた。 彼は、ツイーが視線を反らすことを許さなかった。 「言え」 ツイーはかたく歯を食いしばる。 心内には戸惑いもあった。 このまま、問われるがままに話してしまおうか。何もかも吐き出してしまえば、彼がそれを信じようが信じまいが、ツイーは今ここから解放してもらうことができる。彼が信じなければ、笑ってこれから一切の接触を絶てばいい。けれど、もしも、万が一にでも彼が信じたなら、それは彼に助けを求めることと同義だ。 けれど、あんなことをどうして言葉にできるだろう。ハマムで大切に磨き上げ、みずからいとしんできたこの身体を、まるでもののように晒され、触られた屈辱を。口移しで見知らぬ薬を含まされ、呑み込んでしまったときの絶望を。 この男は、かつて自分を同じように扱った男だというのに。 父を殺して、故郷を踏みにじり、ツイー自身をも辱めた。 ツイーはこの男を許さない。許さないことがツイーの後宮で生きる術だった。 「帰して」 「……強情な」 皇帝は再び、唇にあの苦い笑みを浮かべた。 そして、ツイーの肩口に噛み付くように顔を埋めた。 ツイーは、呆然とそれを受け入れてしまっていた。 彼の唇が、鎖骨の上から首筋まで這い上がってくる。 耳の後ろに彼の熱い呼吸を感じ、背筋に奇妙な感覚が走る。ツイーは彼にあらがった。胸を押し返そうとしたが、彼の硬い身体はびくともしなかった。 「素直に話さなければ、洗い流せない痕をつけるぞ」 耳に注がれたのは、醒めた囁きだった。 その声に、ツイーはびくりと肩を揺らした。両腕で男の肩口を引き離す。彼は、悪びれもせずにツイーを見下ろしていた。 「今日見られては、困る相手がいるだろう?」 落ち着いた様子の彼に、ツイーは確信した。 この男は知っている。己の母のしていることを、余さず知っているのだ。それでいて野放しにしておいたのだ。 ツイーは、思わず右手を振り上げた。 けれど、彼の頬を打つ前に、手首を掴み取られていた。 「離して下さい。あなたに触られるなんて、二度とごめんです」 その言葉に、黒い目の奥が鈍く光る。 彼が激する予兆のように見えた。 けれど、彼は静かに唇を歪めただけだった。 彼の両手がツイーの頭に触れた。大きな手のひらで両耳を塞がれる。目を見開いたままのツイーに、彼は顔を近づけてくる。唇がゆっくりと重なった。ツイーには瞬きもできなかった。 強い力に、頭を揺り動かそうとしてもできなかった。 「んっ……」 舌で唇をこじ開けられ、受け入れることを余儀なくされた。その熱くぬめる感触に、皇太后の唇を思い出し、ツイーの身体は強張った。 彼が口の中を乱暴に探る。より深く入り込もうとするかのように、角度を変えてはむさぼり尽くす。大きく響く濡れた音に、頭の中までかき回されているような気分だった。 息苦しさに朦朧となりかけたころ、ようやく唇を離された。ツイーはそのまま、彼の身体と壁とのあいだにくずおれる。 焦点の定まらない目で、ぼんやりと部屋のなかを見つめた。 皇帝の腕が伸びてきて、ツイーの両肩を掴みしめる。そのまま身体を引き上げられ、立ち上がらされた。 彼はツイーを連れて行こうとしていた。寝台のうえへ。 「な……」 腕を振り払おうとしたが、無駄だった。ツイーは軽い荷物のように寝台に引きずられ、そのうえに投げ出された。 身を起こしかけたところに、彼が覆いかぶさってくる。頭の両脇に腕を突き、ツイーを胸の下に閉じ込めてしまう。 首の下に手を回され、ツイーは軽く仰のいた。 頭を支えられながら、もう一度深くくちづけられた。 屈辱を与えるためにこんなことをするのだろうか。口を塞いで、拒絶の言葉を呑み込ませ、ただ言いなりにするために。 彼の舌が口腔にしのびこんでくる。 大きな手がソリにかかる。 引き裂かれると、そう気づいたとき、ツイーは耐え切れずに彼の柔らかく濡れた肉を、思い切り噛んでいた。 皇帝は手を止め、ツイーの身体から身を起こした。口の端を拭い、手の甲が血で汚れているのを確かめる。 獣のように光る目で、彼はツイーを見下ろした。 「ずいぶんな奉仕だ」 ツイーは、皇帝の身体の下から身を逃がす。寝台の柱に背がぶつかった。 「こんなことは、他の方々になさればいい」 ツイーは震える声で言った。 「私にするよりは幾らもましでしょう」 「ああ。年増の洗濯女でも、お前と比べれば従順で可愛らしかろうな。寵妃など言わずもがな」 ツイーは思わず俯いた。敷布の上で拳を握る。 「だが、それだけだ」 頭の上から降ってきた言葉の意味を、ツイーは即座には理解できなかった。 彼の手がツイーの肩に伸び、背中を抱いた。もう片方の手が乱れた髪を撫でつけ、首の後ろを支える。 彼がツイーを見つめる。 真っ直ぐに、何かを注ぎ込むように。 ツイーは怯えた。けれど、目を逸らすことはできなかった。 彼の目から。 そして、身体の奥に芽ばえる喜びから。 どうして、気づかぬふりができるだろう。 彼の顔が近づいてくる。 ツイーは、逃れたいのならできた。彼の手はツイーを捕えてはいなかったから。優しく抱き留めているだけだったから。 受け入れてはいけないとわかっていた。 今からツイーの身に起こることは、欺瞞の存在さえ許さずに、ツイーの心を白日の下に曝け出す。見せ掛けばかりの平穏を打ち崩す。ツイーの拠ってきた全てを覆す。 けれど、ツイーは目を閉じてしまった。 三度目のくちづけは、石榴の濃い味がした。 |