オダリスク 10 横顔の月 胸を合わせ、四肢を絡ませ、ふたりは乱れた敷布に埋もれていた。 彼の手がツイーの長い髪をしきりに撫でる。手巻いてはほどき、肩や背に流してはまた掬い上げる。髪を扱うのに飽きたのか、今度はこめかみから額、顎までを指でなぞっている。 ツイーは目を閉じ、されるがままになっていた。 ただ、この男に触れていたかった。肌をぴったりと重ねて、温もりが蜜のように身体の奥底まで流れ込んでくるのを受け止めていたい。 それが冷えて固まって、表が白く凝ったら、自分は彼から離れなくてはならないだろう。 あの少女の日に純潔を失った体は、庭園のはしに忘れられた果樹のように、ひっそりと実を結んでは落とすことを繰り返してきた。 これまでツイーにとっては、おのれの生身の肉さえも、衣服のようにまとうもの以上ではありえなかった。 彼の体は温かかった。血の通う人の肌だった。 自身のそれも同じなのだと、知らずにいたほうが幸せだっただろうか。 このまま、溶け合ってしまえればいいと思う。 過去を忘れ、憎しみを心から締め出し、恐怖を快楽にすり替えて。 ツイーは男の胸に顔を伏せる。 そんなことができるはずもない。 寝台に腕をつき、ツイーはゆっくりと身を起こした。 横たわる男に背を向け、脱ぎ捨てた衣服を拾い、身に着けていく。 首筋を、肩を、彼の視線が撫でおろすのを感じる。 男の手がツイーの二の腕を掴んだ。大仰なほどに体が震えた。 引き寄せられ、後ろから抱きしめられた。肩口に顔を埋められ、噛み跡を癒やすように唇で撫でられた。 「ツイー」 その甘やかな響きに、喉の奥が震えた。 彼に名前を呼ばれたのは初めてだった。 両手で顔を覆う。 子供のようにいやいやをするツイーを、彼はいっそう強く抱きすくめた。 「聞け」 「いやです、聞けません」 逃げるのは卑怯者のすることだ。 今更、拙い言葉で取り繕ったところで、何がどうなるわけでもなかった。 「おまえが私を憎んでいることは知っている」 ツイーは、体を強張らせた。その怯えが、彼には手に取るようにわかるのだろう。 「それなのに、こんなことを言う私が愚か者に見えるだろうな」 彼がツイーの耳元で小さく笑った。 「私は、おまえが愛しい」 低い、優しい囁きだった。 意味を解せないなどと、言い訳することもできない。 「知っていたか?」 からかうような問いに、ツイーは肯くことも首を振ることもできなかった。 「知らなかっただろうな。誰にも気づかれないようにしていたから」 彼は後宮の主として、女たちを務めて平等に扱ってきた。ツイーに対しては、他の寵妃と横並びの、通り一遍の扱いをしていた。何日かに一度の短時間の訪問、細切れの会話、気紛れな贈り物。それが二人の間のすべてだった。 「誰かに知れたら、この片恋が終わりになるとわかっていた。おまえにか、母にか、他のいずれにか」 「いつ……いつから?」 「はじめから」 彼はツイーの耳に頬を寄せたままだった。顔を覆うツイーの手を柔らかくほどき、手の甲にてのひらを重ねてくる。 大きく温かい、乾いた手。この手が剣を握り、父の頸を斬った。そして槍に掲げて辱めた。 父の頸はどこへいったのだろう。兵士に鞠のように蹴飛ばされて、道端で朽ち果てたのだろうか。山野に放られたのか、川に流されたのか。 「ラサを、私の父を」 喉奥から嗚咽が溢れた。 父はツイーの世界を、ラサを統べていた。 けれど、父が王としてこの男に敗北したということは事実だった。 「あなたが私の父を殺めた」 「そうだ」 愛していた人を手に掛けた男。ツイーの美しい世界を取り上げた男。 その男の腕の中にいて、なぜこれほどにも心が歓喜するのだろう。 「父の頸は? あなたは父の頸をどこにやったの?」 「寺院の霊廟に、骸とともに葬った」 ツイーはゆっくりと目を閉じる。嗚咽を噛み、俯いた。 「さあ、話してしまった。だから、片恋は仕舞いだ」 皇帝はツイーの背後をそっと離れた。 裸身もあらわに寝台から下り、衣服を纏い始める。 「もう手放さん。私は宴に顔を出さねばならないが、おまえは夜までこの部屋で穏和しくしていろ」 ズボンを履き、胴着に袖を通し、あっと言う間に身支度を整えてしまう。 「おまえの侍女とあの鳥は安全な場所に連れてやる。おまえは決してそこを動くな」 寝台の中のツイーに優しい流し目を呉れ、彼は部屋を出て行った。 慌てて後を追ったが、扉は外からかたく閉ざされていた。 扉にもたれながら、ツイーは床にしゃがみこんだ。 きっと、六年前に、ツイーは自身の心もあの寺院に葬ってきてしまったのだ。でなければ、あの男を愛しいだなどと思うはずがない。 鉄格子の向こうは夕焼けの空。 細い爪月が、城壁の向こうに沈もうとしていた。 ツイーは立ち上がり、寝台の脇に打ち捨てられているソリを拾い上げた。 皇帝にこれを脱がされたときのことが思い出された。 ツイーは手で布を手繰り、身をひねったり浮かしたりして彼を助けた。彼は、そうしてほどいたソリを煩わしげに寝台の外に追い払った。長い布帛は、蛇がうねるように床に流れ落ちた。 ソリは、ツイーの身の守りだった。長い間、これで心をよろっていた。 ツイーはソリを着付け始める。 ゆっくりと、丁寧に、隙のないように。 子供のようにおろしたままの髪を肩の上に手繰り寄せる。さらさらと零れる一筋ひとすじを掬って、太いみつあみに編んで糸で縛る。 ツイーが装うのを待っていたように、向かいの扉が軋んだ。 細く開いた入り口に、身を滑り込ませる影がふたつ。 ツイーは、顎を上げて影の持ち主を迎えた。 扉が静かに閉まる。 皇太后は、艶美な含み笑いを浮かべていた。 ツイーは、その表情に糸で攣ったような不自然さを覚えた。 「嘆かわしい方。家畜だって一度打たれればものを覚えるというのに」 皇太后の声が、広い部屋に冷たく響いた。彼女の目は朱色の夕闇に光っている。その背後には、彼女の腹心である女が控えている。 「家畜ではありませんから、打たれて心根を変えるようなことはいたしません」 ツイーは強く言い返す。 皇帝にこの部屋に連れてこられたとき、見張りが跡を付けていたのか。それとも、皇帝が信頼できると言った侍女たちの中に、皇太后を手引きした者があったのか。 皇帝は手抜かったのだ。 気づいていながら我を忘れたツイーも、同じく甘かった。 この部屋で起こったことを、彼女は嗅ぎつけているだろう。確信しているだろう。そしてそれを許すまい。 心の隅で、ツイーは小さく安堵していた。 皇太后が直接にツイーの居場所へやってきたということは、質を取ってツイーを脅す必要すらないと彼女が考えているということだ。グエンの身に危険は及ばない。それだけが救いだった。 「今度は何をお使いになるのですか。雄黄ですか、丹砂ですか」 今、殺されてもかまわないと、ツイーは思っていた。 皇帝と愛しあって後宮で生きていくという選択はありえない。 どのみち生きてはいられない。なけなしの誇りが、このどうしようもない矛盾を許さないからだ。 今ここでツイーを手に掛ければ、彼女は皇帝に咎めを受けるだろう。言い逃れるための口上が既に腹のうちにあるのか。あるいは、策を講じる余裕さえもう彼女には残っていないのだろうか。 黙って皇太后に対峙するツイーに、女が歩み寄ってくる。彼女はツイーの背後に回り、両腕を羽交い絞めにする。皇太后は、縛められたツイーを見つめてうっとりと微笑んだ。子供のように無邪気な、残酷な笑みだった。 その黒い衣の下に、ツイーは鈍く輝く刃を見た。 皇太后の左腕が、ツイーの編んだ髪を掴んで引いた。彼女の視線がツイーの首筋に張り付いた。 皇太后が握っているのは、刃の細い小刀だった。その抜き身で、彼女はツイーの耳の下を撫で下ろす。 耳の後ろに冷たい刃があたる。 「命乞いをなさい。わたくしとて、あなたに死なれるのは不都合なのです」 ツイーは深く息を吸い、目を閉じる。 彼女の声に慈悲などかけらも見出せなかった。 これはただ、ツイーが誇りを投げ出してひれ伏すさまを見て、なぶって楽しむためだけに言っていることなのだ。 「そこに頭を垂れなさい。二度とわたくしの皇帝に近づかないと誓いなさい」 ツイーは微笑した。 「要らぬものを乞うても、何の益もありません」 浅い息の下からそう告げると、髪をぎりぎりと引っ張り上げられた。痛みに顔をしかめるツイーを見て、皇太后は爛々と目を輝かせる。 「あの女と同じことを言う。命などいらぬと、そう言ったくせに、未だに後宮の外で生き永らえているのは何ゆえです? わたくしの手の届かぬ場所で、幸福に穏やかに暮らしているのは」 彼女は夫と息子を混同しているのと同じく、グルガンの義母とツイーを重ねて見ている。脳裏で記憶が錯綜するのだろう。 彼女は黒い瞳を不自然に揺らし、唇を絶え間なく湿している。小刀を握る手が震えて、刃がツイーの皮膚を掠めた。 「もう手ぬるいことはしませんよ」 皇太后は、みつあみの根元に小刀を当て、一息に切り落とした。握り締められた黒髪が、水に浸されたようにほどけていった。彼女はそれを汚れ物のように床に放る。 「次は耳がよろしい? それとも手の指かしら」 身が竦み、背がしなる。 それを後ろから押さえつけられ、ツイーは上がる息を噛み締める。 「どうぞ、お好きに」 そうツイーが言い捨てたとき、慌しく部屋の扉が開かれた。ひどく強い光が差した。扉の向こうで煌々と明りが燃えている。 皇太后の肩越しに、ツイーは大きな人影を見た。 「そこまでにしていただきましょう、母上」 落ち着いた声で、彼は言った。 皇帝は、前室に侍女を残し、部屋の扉を後ろ手に閉めた。 顎を引いて真っ直ぐに皇太后を見据える。 「皇帝……」 皇太后は呆然と呟いた。 「母上、まさか御自ら手を汚しに来られるとは思っておりませんでした」 皇帝は薄い唇に苦笑を浮かべた。 「おかげで手間がはぶけました。その物騒なものをお捨てください」 皇太后は皇帝をにらみつけ、胸を反らして高らかに言う。 「わたくしは後宮の主としての務めを果たしているのです。皇帝の命といえど聞けませぬ」 「言うことを聞いてくださらないと?」 「いいえ、誓うべきはあなたです。わたくしに約束なさい、この女に二度と近づかないと。でなければ、辛い目にあうのはこの女ですよ」 刃先がツイーの首の真横でぶるぶると揺れる。 「この女はあなたのためにならない。あなたを誑かして惑わせる。女なら、他にいくらでもわたくしが見繕って差し上げましょう、だからこの女はおやめなさい。この女だけは」 「そのようにして、今まで何人の女奴隷を屠ってこられたのです?」 皇帝の声は穏当だった。 皇太后は、雷に打たれたかのように身を強張らせる。 「しかし、今度ばかりは思いを遂げていただくことはできかねる」 と、皇帝はツイーに視線を呉れた。短くなってしまった髪に気づき、痛ましげに目をすがめた。それもほんの一瞬のことで、彼はすぐに皇太后に向き直る。 「母上、私は、始終あなたに見守っていただかねばならないほどに頼りない息子だったのですか。それほど信用ならない息子でしたか。私を産んでくださった日からこれまで、あなたのお心の休まる日が一日とてありましたか」 皇帝は真摯に問いかける。 彼女は答えなかった。 「その刃物を寄越してください。あなたはもうご自分を解き放つべきです」 甲高い、悲鳴のような声が聞こえた。 皇太后が、身を反らさんばかりにして笑っていた。手の甲で唇を覆い、狂ったように引き攣った笑声をあげ続ける。 「解き放つ? おかしなことをおっしゃる。あなたを産みまいらせてから二十年、わたくしは日々が楽しゅうてしかたありませなんだ。退屈など覚えるいとまもなく、女たちが絶望に嘆いたり怒り猛ったり、入れ替わり立ち替わりわたくしの思い通りになってくれたのですもの。……ああ、だからこの娘は嫌い」 皇太后がツイーの顎下に向けて刃を振りかざした。 ツイーは思わず目を瞑った。 恐ろしかったのは殺されることではなかった。 ただ、皇帝の前で死にたくはないと思った。理由などわからなかったけれど、ただ、死にたくないと思った。 「お気持ちはよくわかりました」 彼は動じていないようだった。 「……もう芝居はいい。放してやれ」 ツイーを背後から捕える女に向かって、皇帝は言った。 女が息を呑んだ。皇太后も目を瞠ったようだった。 皇帝は鷹揚に続ける。 「母上、お気づきになりませんでしたか。あなたが最も信頼なさってツイーの見張りにつけていたこの女は、もうずっと以前から私の命令で動いていたのですよ」 ツイーは呆然とした。 女が鼻を鳴らした。 「皇太后、惑わされてはなりません」 皇太后は沈黙を守り、首を巡らせてこちらを向いた。彼女の目はツイーを通り過ぎて、後ろに立つ自らの側近をじっと見つめる。 「そうなの?」 皇太后が冷たく問うた。女は、ぎりぎりとツイーの腕を締め上げる。 「偽りです。讒言でございます。私は今まで何もかも皇太后の仰せのままにしてきたではございませんか。皇太后の御為に、何もかもよきように」 高揚した声で言い募る女を、皇帝が遮った。 甘く囁くような声で、皇太后の疑いの種火に油を注ぐ。 「全て私が命じていたからです。今日も、母上を罠にかけ罪を暴くために、ここに招き入れる案内をしてきたでしょう?」 ツイーを縛める女の腕に、いっそう力が込められた。 「皇太后……!」 「もうよい」 彼女が、不貞腐れた子供のように吐き捨てた。 「もうよい。……誰も信じられぬ」 片眉を上げた皇太后は、ただじっと立ち尽くして床を見下ろしている。 皇帝は、彼女の手から素早く小刀を取り上げた。 そして、大股でツイーに歩み寄ってくる。 女はなおもツイーを離そうとしなかった。 皇帝は苦笑して女をひたと見据える。 ツイーを抱きすくめる女の体が、大きく震えたのが衣服越しにわかった。 「わかっただろう。母上のお心には届かないのだ。哀れな女たちの悲鳴も、おまえの殊勝な献身も。……私の懇願とて」 その言葉に、女が床にくずおれた。 |