オダリスク
8 踊り子との幻想








 宴の日の朝だった。
 ツイーはいつものように、目を覚ましてすぐにハマムに行く支度を始めた。
 とうとう今日まで、皇帝の後宮へのお渡りはなかった。
 彼の香時計は、ツイーが返しそびれたまま、窓辺の鸚鵡の籠の横に放置されていた。
 今日はきっと夕刻まで、ハマムは念入りに化粧をする女たちでいっぱいなのに違いない。早朝でも人は多いだろうが、今日だけはしかたがない。
 ツイーは静かに部屋を出て、いつもの裏道を使おうとした。
 薄暗い建物のあいだに入ろうとしたとき、ツイーはふと足を止めた。
 脇から人影がふたつ飛び出してくる。
 相手は、顔も見たことのない女たちだった。
 身構えたツイーは左右から挟まれ、地面に押さえつけられた。手にしていた桶が、中身をばら撒きながら土のうえを転がった。
「何です!」
 問いに答えは与えられなかった。
 女たちは息ひとつ乱さず、人を攫う手順を心得ているかのように、抗うツイーを拘束している。ツイーは右腕をひねりあげられて痛みに呻いた。
 首の後ろに重い衝撃があり、意識が闇に落ちて溶けた。







 こめかみに刺すような痛みがあった。こらえながら目を開くと、自分が冷たい床のうえに寝転がされているのがわかる。しかも、腕と足首を縛られていて身動きもかなわない。
 首を巡らせて辺りをうかがった。部屋は壁から床の隅まで青いタイル貼りだった。壁に蛇口、床のはしに排水溝を認め、ツイーはここが狭い湯殿であることを悟る。
 扉が開く音がして、ツイーは身を強張らせた。
 入ってきたのは見覚えのある女だった。皇太后の側近で、連絡役を務めている痩せた女。
 彼女は、表情一つ変えずにツイーを見下ろしている。
「お目覚めですか」
 ツイーは女をにらみつけた。
「……何のつもりです。皇太后のさしがねですか」
「さようです。皇太后があなたさまに大切なお話があるとのよし、こうしてお越しいただきました」
 女はしれっとした声でそう告げる。
「皇太后がお待ちですから、お呼びして参りましょう」
 女は出て行った。
 ツイーはソリを脱がされていた。まとっているのはチャドの上下だけ。タイルにむきだしの腕がはりついて気持ちが悪かった。だが、それよりも、この身体の芯からおこる怖気はなんだろう。
 再び扉が開いて、さっきの女が姿を現した。続いて、黒い衣の皇太后と、腰の曲がった見知らぬ老婆のふたりが入ってくる。
 皇太后はまるで、地を這う虫を見るような目をしている。
 ツイーは震えをかみ殺し、彼女を見上げた。
「ほほ、こわい目だこと」
 皇太后の笑声が、幾重にも湯殿に響いた。
 彼女は六年前と変わらずに美しかった。全く年をとっていないようにも見えた。
 彼女は背後の女と老婆に、部屋を出るよう目で促した。
 湯殿のなかに二人きりになると、皇太后は転がったツイーの横に屈み、ツイーの顔を覗きこんだ。
「六年前もそう。従順をよそおったその顔に、けものの目を飾っておられた」
「どういうおつもりです。私に何の御用ですか」
「心当たりがないとおっしゃる?」
 皇太后は目を細める。赤い唇がつりあがるのに、ツイーは既視感を覚えた。
「心当たり?」
「後宮に入られた日、わたくしが話したこと、覚えておいでではございませぬか? あなたには誰より健やかであってもらわねばならないと、子を産むなどもってのほかと、そうお話したはず」
「それがどうか?」
 ツイーは皇太后の目をねめつける。
 寒気のするような、彼女の含み笑い。
「皇帝のお情けを受けましたね。わたくしの目を盗んで」
 何を言われたのか理解できず、ツイーは目を見開いた。
 彼女はゆっくりとツイーに手を伸ばしてくる。ぎょっとして身を引こうとしたが、僅かに肩を捩ることしかできなかった。彼女の病的に白い、蝋のような指がツイーの首筋に触れた。その不気味なほどの冷たさ。
 指はツイーの肌を耳の後ろまでなで上げ、再び鎖骨まで下りた。
「……身に覚えがありません」
 声を絞ったツイーに、皇太后は吐息だけで笑う。
「これまでは安心していたのですよ。わかっていますとも、皇帝はあなたの身体に見向きもなさらなんだ。一度もお手を触れなんだ」
 どうして知っているのか。聞こうとして、それは無駄だと思い直した。見張りを付けられていたに違いない。おそらく、あの痩せた女だろう。
「いつからです? いつ、泥棒猫のような真似を覚えられた?」
 彼女はそのまま身を屈め、ツイーの胸元に顔をちかづける。何かを確かめたとでも言うように、目だけでこちらを見上げてくる。
「この匂い。乳臭い、安っぽい石鹸の香り。あの女と同じ匂い。すぐにわかりました。わたくしの皇帝から、この匂いがしましたもの」
 数日前の朝のことを思い出す。
 ほんの数分の邂逅に過ぎなかった。皇帝と出くわしたのも偶然だった。
 皇帝の身体からツイーの石鹸の香りを嗅いで、たったそれだけで二人の関係を疑っているのか。
 そもそも、この皇帝への執着ぶりは常軌を逸している。
 ツイーは乾ききった唇を舐め、深く息を吸う。落ち着いて、彼女の誤解を解かなくてはならない。
「お考え違いでございます。確かに皇帝に石鹸をお貸ししましたが」
「お黙りなさい」
 皇太后は、恐ろしく冷たい声音でツイーを遮った。
「誰でもそう言うのですよ。そう言って、ほんのひと月ふた月のちには何食わぬ顔で腹を膨らませている」
 彼女は憎々しげに唇を噛む。少女じみた仕草だった。
 口を開けば彼女の逆鱗に触れることになりそうで、ツイーは奥歯を噛み締めて黙り込んだ。
「花壇からこぼれてしまった種は、育つ前に摘み取るもの。育ってしまったら、間引くのに余計な力がいりますもの」
 うっとりと微笑み、皇太后は横たわるツイーの全身に視線を這わせた。
 彼女の蛇のような瞳に、ツイーは戦慄を覚えた。
 この六年間に、皇帝から寵を受けた女たちのことが思い出された。
 子供を産んだ女もあれば、産む前に失った女もいた。首を括った女もいたし、病に命を落とした女もあった。ツイーが後宮に入ったとき、先に既に数十人の女がいたにもかかわらず、いつの間にかツイーは後宮で何番目かに古い女になっていた。
 そして、グルガンが伝えてくれた言葉。
 皇太后は、自分と皇帝に逆らう者には容赦しない。
 彼女が生きているからこそ、誰もその罪を明かせない。罰することができない。
「……私の喉を焼くおつもりですか」
 弁解しても通じはすまい。皇太后の心は狂気に囚われているのだから。
「それも悪くはない。皇帝のお耳に、あなたの薄気味悪い歌が届かなくなるならば。ただ、わたくしは決めているのです」
 皇太后は、ツイーの唇にそっと触れた。
「わたくしがはじめて陥れたのは、わたくしが身ごもってすぐに寵妃になった女でした。声の美しい女だった。歌声を愛されていた。だから奪ってやったのですよ。最も大切なものを」
 驚きはなかった。ただ、眉を顰めて皇太后を見つめた。
 グルガンの義母の、あの穏やかな微笑み。既に遠い日の記憶だけれど、忘れることはできなかった。ツイーが後宮に入ってからも、たえず労わってくれた、本当に優しい人だった。
「命乞いをする女からは命を、腹をかばう女からは子供を。わたくしの皇帝の邪魔になる者には、奪うことで償わせました。後宮は皇帝に世継ぎを差し上げ、皇帝に安らいでいただくための場所。皇帝のお心を乱す者は、後宮には必要ありませぬ」
 わたくしの皇帝。
 それが彼女の夫のことを言っているのか、息子のことを言っているのか、ツイーには判別がつかなかった。おそらく、彼女自身でさえわかっていないに違いない。
 そして、皇帝の邪魔をすると彼女がいう女たちでさえ、本当にそうだったのかはわからない。
 ツイーの心は冴えていた。
 恐怖は、静かな怒りに塗りつぶされていった。
「それで、私をいかがなさるおつもりです」
 ツイーの声は硬くひびわれている。
 皇太后は、手を軽く二度叩く。さっき出て行った女と老婆が入ってくる。皇太后が老婆にツイーの横を譲り、女がツイーの背後に回る。女がツイーの身を引き上げ、後ろから身動きをとれぬように押さえつける。
「何を……」
 あげかけた声は、かまされた猿轡に遮られる。
 老婆の手が足の縛めを解き、縄を抜く。
 今度は、ツイーがどんなに暴れても、気を失わせるつもりはないらしかった。










 老婆が仕事を済ませ、湯殿を出ていった。
 遠慮なく触れられた箇所がじくじくと疼き、不快な感覚を訴えた。
 ツイーは、むき出しにされた両脚を引き寄せようと力を入れた。けれど、その動きは微かな身動ぎにすぎなかった。
 背を支えている女が、ツイーの猿轡をはずす。ツイーは深く息を吸い、それにむせて咳き込んだ。嫌悪に浮かぶ涙で視界がかすむ。自分を抱きとめる女の両腕を振りほどく。
「もう、お気が済まれましたか」
 ツイーは掠れた声で言った。虚勢を張っていなければ、たちまち床にくずれてしまっていただろう。
「服を返しておやりなさい」
 皇太后が女に命じる。
 女は、ズボンとソリをひとまとめにしてツイーの身体に着せ掛けた。
「まだ、きちんと確かめられたわけではない。次の月のものがくるまで、用心をするに越したことはありませぬ」
 皇太后はそう言い、どこかから濁った液体で満ちた杯を持ってきた。彼女はツイーの前にしゃがみ、その杯を差し出した。
「お飲みなさい」
 ツイーは唇を噛んだ。
「悪い薬ではない」
 ツイーは苦笑する。信じられるはずがない。
「ただ、すんなりと月のものが訪れるようになります」
 堕胎のための薬。
 ツイーは唇を歪めた。徹底したやりかただと思ったのだ。
「必要ありません」
「しかたのない方だこと」
 皇太后はため息を吐くと、ツイーの鼻を摘まんで口を開かせた。恐ろしいほどの力だった。ツイーは首を振ってあらがったが、背後の女に押さえつけられた。皇太后は薬を自ら含み、口移しでツイーに呑み込ませた。
 慣れない味が口いっぱいに広がる。
 あまりの苦さに吐き出しそうになったのを、てのひらで口を塞がれて阻まれた。苦しさに、残さず飲み下してしまう。
「次の月のものがあるまで、三日ごとにわたくしのもとにいらっしゃい。できなければ、あなたの大事な飼い鳥と侍女が、もっと苦い薬を飲むことになる」
 皇太后は、そう言い残して湯殿を出て行った。
 腕の拘束を解かれたツイーは、衣服を身体に引き寄せた。憔悴に思考もはたらかないツイーの前に、女が洗面道具のはいった桶を置く。
「今夜の宴に、おでましになれますね?」
 女の顔を見上げる気力もなく、ツイーは俯いて奥歯を噛んだ。
 皇太后がツイーから奪うと決めたものは、自分の誇りなのだと悟った。
 よろめく足で立ち上がり、震える手で衣服を身につけた。
 女が開けた扉から廊下に出た。
 既に昼に近い刻限なのか、日差しは強く、陰が濃い。
 宴の催される広間からだろうか、どこかから楽の音が聞こえてくる。
 澄んだ鈴の音、女の歌声。皇太后が、今夜のために旅芸人の一座でも招いたのだろう。
 悪心に口を押さえながら、ツイーは自室に向かう。

 







 ツイーは褥の上で身体を丸める。
 昼近くに自室に帰り着いてから、食事もとらずに寝室に篭もっている。
 グエンは、数刻も部屋を空けていたツイーを心配そうに迎えてくれた。
 ツイーは青ざめた顔で、宴のしたくを始めるまでは一人にしていてほしいと彼女に告げた。グエンも何があったのか訝しがってはいるのだろうが、問うようなことはしなかった。
 ツイーは彼女に何も告げなかった。
 妊娠を疑われ、裸に剥かれて産婆の診察を受けたなどと言ったら、グエンはきっと火がついたように怒って皇太后のもとに直訴しにいくだろう。
 波のように引いてはおそってくる吐き気と、遠慮なく這い回った他人の手指の記憶。何より、皇太后の冷たい目と、彼女の狂っているとしか思えない仕打ちが恐ろしかった。
 掛け布を引き寄せて、我が身にきつく巻きつける。
 ツイーはふと目を開く。
 隣室から、グエンの話し声が聞こえてくる。彼女が話せる相手など、自分のほかにはいないはずなのに。
 彼女は誰かを相手に必死に何か言っている。
 ツイーはのろのろと起き上がり、居室との境の仕切り布を上げた。グエンが食って掛かっている相手は、皇帝だった。
 その姿を認め、ツイーは思わず眉を顰めた。
 嫌悪が無意識にそうさせた。
 何をしに来たのか。そんなことはもう考えたくはなかったし、考える余裕もなかった。今だって、どこで誰がこの部屋を見張っているかわからない。
 グエンは、通じない言葉で懸命に彼の足を止めようとしている。
 皇帝がこちらに気づいて目線を呉れた。
「グエン、大丈夫。下がってちょうだい」
 ツイーがしっかりとそう告げると、グエンは不安そうな顔のまま部屋を出て行った。
 ツイーは、離れた場所で皇帝と対峙した。
 彼はただ静かにツイーを見つめてくる。
 寝乱れたおのれの髪を撫で付けながら、窓辺に置いた彼の香時計を取り上げる。そして無遠慮に彼に歩み寄り、箱を掴んだままの右手を突き出した。
「これを取りにいらしたのでしょう? お返ししますから、どうぞお帰りくださいませ」
 彼は、目線だけでツイーの手元を見下ろした。
 ツイーは深く息を吸う。
「それから、もうここには来ないでいただきたい。わざわざ足を運んでいただかずとも結構です」
 皇帝は香時計を受け取ってくれなかった。
 身体の前で腕を組み、不遜に見つめてくる。
「……何があった?」
 彼の唇は、いつもツイーに何かを尋ねるために開かれる。
 それに満足に答えたことが、今まで一度としてあっただろうか。答えたくないこと、答えられないことばかりだった。言葉を達者に話せるようになっても、何の意味もなかった。
 何があったかなど、決して口にするものか。あの永遠にも思えた屈辱の時間を誰かに明かすなど、考えられもしなかった。
「何も」
 この男は知らないのだろうか。自分の母が、後宮の女たちをまるで家畜のように殺めたり堕胎させたりしていることを。知らずに、皇太后の言うままに、宛がわれるままに女を抱いて子供を産ませているのだろうか。
「……あなたが、この後宮の誰もに等しく接しようとなさっていることは知っています。でも、私をそのように扱うことをやめてほしいのです。どうせ見せ掛けばかりなのだし、もしあなたがここに近寄らないようになったとして、誰が何を言おうとも私はかまいません」
 皇帝が、ツイーの右手を強く掴み、顔を覗きこんでくる。
 ツイーは、肌に食い込む彼の指に怯んだ。
「何があったのか、私に話す気はないのだな?」
 ツイーはかたく唇を噛み、視線を揺らさなかった。
 彼の唇が微かに緩んだ。
「おまえはじきに話したくなる」
 言い終わる前に、彼はツイーの手首を捕らえたまま歩き始めていた。
「何を……」
 入り口の仕切り布を乱暴に払い、彼は首を巡らせてツイーに流し目をくれる。
 その表情は、六年前の記憶のなかのものと僅かに異なって見えた。自嘲するような、苦さをはらんだ笑みだった。
「実のある扱いをしてやろう」



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