風車の節 番外編
パンドラ 後




 房室に戻ってしばらくして、部屋の扉が叩かれた。
 やってきたのは草祥だった。
 店の仕着せではなく、にび色の嬬裙を身につけていた。今日は休みだったのに違いない。
 彼は、大きな盆のうえに軽食の支度をととのえていた。
 愕く珠里を尻目に、彼は手馴れた手つきで茶箱と蒸し器を卓に広げた。
 茶箱とは、茶の道具一式をおさめた木箱のことを言う。茶葉、素焼きの茶壷、茶杯が収納されていて、箱そのものは湯を捨てる器になる。
 手伝おうと手を伸ばした珠里を制して、彼が言った。
「俺が淹れましょう」
 彼が湯沸しを渡してくれないので、珠里は素直に椅子に腰掛けた。
 珠里は幼い頃から、茶の道具に囲まれていた。五つかそこらで初めて、ままごとじみた手つきで初めての茶を淹れた。店の棚に並ぶ無数の茶葉の瓶を眺めているだけで、胸が沸き立ったものだった。
 店の誰よりもうまく淹れるのは父で、同じ茶葉から甘くも苦くも茶を煮出すことができた。珠里はそれに憧れたものだった。思えば、父は商い一徹な男で、家族というものにひどく疎い人だった。
 父の茶は店の何よりの呼び物であったが、それだけに貴重で、滅多なことでは振舞われなかった。
 珠里の知る限り、父の次に優れた茶人は草祥であった。
 彼の大きな無骨な手が、珠里の目の前でまるで舞のように鮮やかに動いて、優しい水音と甘やかな香りをただよわせる。それを見つめているだけで、茶商の家に生まれてよかったと思えるのだった。
 間もなく、一杯の茶と、饅頭が二つ、珠里の前に差し出された。
「どうぞ」
 熱い茶杯を両手で持ち上げて、珠里はひとくち茶をすする。
 茶は、甘かったけれど、知らない味がした。
「これはどこの?」
 珠里が首を傾げると、草祥は怪訝そうな顔をした。
「お嬢さんの一番お好きなお茶ですよ」
 彼は茶筒を開けて見せた。
 中身は、見覚えのある色とかたちの茶葉をしていた。
 店で扱う茶は、すべて味わったことのある珠里だった。
 十四になるまでに、嗅ぎ茶も嫌と言うほど鍛えられたというのに。
「舌が鈍ってしまったのね……」
 珠里はそっと自分の唇に触れた。
 三年半も離れていたのだ。
 店のことも、茶のことも、わからなくなってしまっていて当然だった。お屋敷で朝に晩にお館さまや英琴さまのために煎茶していたとしても、それはあくまで素人の芸。自分は驕っていたのだなと、珠里は反省し、少し悲しくなってしまった。
 ふと、母のことを思い出した。
 母は茶を淹れない人だった。
 熱い飲み物がたいそう苦手だったということを知ったのは、一緒に暮らし始めてしばらく経ったあとだった。
 母について、知らないことはたくさんあった。
 その最たることが、母が阿片を使っていたことだった。なぜわからなかったのだろうと、珠里は毎日のように考える。
 店で働いていたころの感覚を保てていたなら、阿片の匂いに気がつかなかったはずはなかった。
「……でも、おいしいわ」
 珠里は、温かそうな饅頭にも手を伸ばす。
 湯気をたてる饅頭を割ると、なかの餡がとろとろと流れてきた。刻んだたけのこや葉物がたっぷりと詰まった野菜まんだった。
 その匂いを嗅いで、珠里は眉根を寄せた。むっとしたものが喉奥に湧いてきて、唇を噛んでそれをこらえた。
 けれど、どうにも耐え切れなくなり、口を押さえて中庭へ駆けた。扉を出てすぐ座り込み、地面に向かって胃の腑のなかのものを吐き出した。
 茶と胃液が舌に絡んで、酸いことこのうえない。何度も激しく咳き込んでいると、大きな手に背中をさすられた。
「お嬢さん」
 かたわらに草祥が膝をついていた。
 息苦しさに滲む視界のなか、彼は険しいような、優しいような、切ない目をして珠里を見ていた。
「大丈夫ですか」
 人のからだが間近にあって、珠里は震えた。
 草祥の手は大きく、温かかった。
 珠里の傷だらけで空虚なからだを、この上なく愛しいもののように大切にしてくれる。甘えたくなるけれど、縋りたくなるけれど、それは絶対にしてはいけないことだった。 この人のせいではないのに、この人のことがとても好きなのに、尊敬しているのに、珠里はこの人の望むようにすることはできない。
 ゆっくりと彼の腕から離れ、口元を袖で拭った。
「ごめんなさい。平気です。……久しぶりに食べものの匂いを嗅いだから、すこし驚いただけ」
 苦い唾液を飲み込んで、珠里は立ち上がる。
 嬬裙の膝の泥を払い、顔をあげる。
「ごめんなさい。せっかく支度してくれたのに」
 跪いている彼を見下ろし、珠里は言った。
「しばらく――、ひとりにしてほしい」
 草祥はためらっていたようだった。
 しばらくしてから、房室のなかに戻っていった。
 珠里は、扉を背に、ずるずると石畳にしゃがみこんだ。
 この広い中庭で、珠里は膝を抱えてよく泣いた。祖母に折檻されたあとや、母が勤めに戻っていってしまったあと、人に見つからないように、物陰に隠れてべそをかいた。珠里がどこに身を潜めても、必ず草祥が見つけてくれた。傷に薬を塗り、不器用に慰めてくれた。
 父が、好きにしろと言いながら、草祥を寄越した意図は明らかだ。父は珠里の幸せを願ってくれている。もう子を望めないということは、父も草祥も知っている。二人とも、そのうえで珠里を求めてくれている。
 けれど、たとえそうでないとしても、珠里は草祥と一緒になることはない。
 ふたたび吐き気がこみ上げてくる。
 この胸のむかつきには、覚えがあった。三年前に一度、味わったことがあったのだ。
 まさか、と珠里は思う。
 その思いつきをおのれで笑う。二度と珠里には訪れることはないものなのだと、判を押されたこともあったではないか。
 けれど、もしもそうだとしたら、どうしよう。
 とたんに、足元が見えない不安におそわれた。口の中の苦みをこらえながら、震える手で扉を空け、おぼつかない足で房室に戻った。
 既に草祥は去った後だった。
 蒸し器も茶箱も片付けられた卓の上には、湯沸しと、白湯が一杯残されていた。白湯の茶杯は、ほんの少しの湯気をたてていた。
 珠里は、崩れるように椅子に腰掛けた。
 冷たくなった手で、そろそろと茶杯を包む。
 肌に染みる温かさだった。

  



 翌日、珠里は実家を出た。
 その道行きに、珠里は朱家のお屋敷をひそかに訪ねた。
 薬師は、快く珠里に会ってくれた。
 母が存命のあいだ、この翁が月に一度必ず往診に来てくれていたのは、英琴さまの命があったからだった。
 珠里は、決して誰にも話してくれるなと言い置いて、薬師に小さな秘密を明かした。
 珠里は、やはり身ごもっていた。
 見立てでは、腹の赤子は三月ほどだということだった。
 英琴さまの褥に召された最後の晩、あのときに結んだのに違いなかった。
 薬師は穏やかに珠里に告げ、優しく言い含めた。
 最初の流産でお腹を痛めてから三年が経ち、あのときと比べればからだも育っている。大切に大切に保てば、生まれ出ることのできる命かもしれないと。
 珠里は何も考えることができないまま、俥(くるま)に乗って母と暮らした家に戻った。
 珠里はふらつく足で母の寝間に入った。
 窓が、明るい日差しを房室に入れていた。
 珠里がいないあいだも女中が来てくれていたのだろう、房室のなかは清潔に整えられていた。散らかっていた薬や磁器のたぐいも、すべて片付けられていた。臥牀の敷布も取り払われている。
 母はもう亡いということを、しみじみと思い知らされた。
 珠里は、臥牀の前に膝をつき、その木枠に頬を寄せた。ぼんやりしていると、部屋の奥に行李が重なっているのが目にはいった。珠里は、膝をついたまま這うようにして近づいた。
 母の持ち物は多く、整理する暇はとてもなかった。行李ごとお屋敷から持ち出し、そのままにしていたのだった。
 珠里は、その中のひとつを引き寄せ、蓋を持ち上げた。衣類がぎっしりと詰まっていた。若いころに作ったものなのか、珠里の見たことのない嬬裙ばかりだった。
 もう三つ、開いてみた。どれも嬬裙や帯だった。みな上等で、丁寧に畳まれ、虫一つ付かぬまま残されている。母が、着るものにたいそう心を配っていたことが思い出された。
 五つ目の行李の中身は、紙で二重に包まれていた。
 包みを膝に乗せ、そっと広げた。
 中身は絹の産着だった。
 行李のなかには、他にも、おくるみ、肌着やむつきが新しいまま納められていた。
 母と珠里が、ふたりで縫ったものだった。
 どうして捨ててしまわなかったのだろう。
 薬師から、次はないと告げられていたはずなのに。
 英琴さまのお子を流してしまった珠里を、母は一度も責めなかった。黙って珠里に寄り添い、痛めたからだを労わってくれた。同じ苦杯を舐めたことのある人だったからだ。
 産着がてのひらをすべり、膝に流れる。
 珠里はおのれの手を見つめる。
 手のひらには、祖母に煙管を押し付けられたり、鞭で叩かれた傷が残っている。指の付け根や手の甲には、店の手伝いをしていたあいだにつくったやけどがいくつもある。
 肌はささくれ、爪はひびわれた、ひどい手だと思った。
 それでも、この手に子どもを抱きたいと、もう一度思った。
 笑いかけて、あやして、世話をして、何よりも大切にしたい。
 そしていつか、風車を握らせてあげたい。
 平たい腹に手を這わせ、おのれの肩を抱きしめる。
 自分は、とうにいただいていた。
 欲しくて欲しくてたまらなかったものを、この身の奥底に、ふたたび。
 産着を手繰り寄せ、顔を埋めた。
 おのずから笑みが零れた。
 笑ったはずなのに、涙が、白い絹のうえをすべった。



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