風車の節 番外編 パンドラ 前 夢を見るのは怖かった。 楽しい夢は終わってしまう。 恐ろしい夢を見て泣いて目覚めても、悲しみをいやす術がない。 泥に浸かるように深く、孤独を忘れられるほど長く眠りたかった。 それしか、心安んじる方法を知らなかった。 珠里はうっすらと目を開ける。こめかみを生温かいものが伝っていた。 眠っているあいだに、自分はどんなまぼろしを見たのだろう。 むなしさとかなしさだけが、手の中にぼんやりと残っている。 珠里は臥牀のうえで身を起こした。朱家のお屋敷に奉公するために出ていらい、四年近く帰らなかった実家の自室である。 昼なのだろうか。 中庭に面した窓から、温かい陽が差し込んでいた。 珠里は沓に足を入れ、のろのろと立ち上がる。卓の水差しから杯に水を注ぎ、ひといきに飲み干した。 母の葬儀のあと、珠里は実家にとどまっていた。 母の世話にかかりきりとなっていた珠里は、自覚していたよりずっと疲弊していたようだった。母の葬儀が済んでから食べ物も喉を通らず、房室から出ることもできなくなってしまった。月のものが訪れなくなってもう三月が経つ。薬師にかかるのも億劫がる娘を、父は黙って家に置いてくれた。 珠里はふと、房室(へや)のなかを見回した。 主である珠里がいないあいだも、出て行ったときのままにされていた。 珠里は、壁際の飾り棚に、三段重ねの化粧箱を見つけた。自分がいたころには持たなかったものだから、珠里のいないあいだに誰かが置いたものなのだろう。 歩み寄って、なかを覗いてみる。蓋は鏡になっていた。 そこには、女の顔が映っている。目の下にくっきりと浮かんだ隈、白く乾いた唇。頬はこけ、目には力がない。 ひどいありさまだと思った。 老婆のように倦み疲れている。 お屋敷にいたころはぱっとしないなりに、せめて見苦しくないようにとつとめてきたのに、この三月と言うもの、そんな気遣いも忘れてしまった。髪に櫛を入れたのは昨日の朝のことだし、紅やおしろいなど、匂いさえ思い出せない。 化粧箱のなかには、紙で封をされた練りおしろいと紅、おしろい筆と紅筆が一式納められていた。そのすぐ下の抽斗には、瓶詰めの髪油と、櫛がはいっていた。底の段には、簪が数本並んでいた。 「誰の……」 微笑いかけ、手を止める。 化粧箱は、手付かずのまま置いてある。よく見れば髪油は古びて白く濁っているし、化粧箱そのものも、厚くほこりを被っていた。 珠里は、化粧箱を指先でなでた。傷ひとつなかった。 真新しいまま長く放っておかれたのだ。 父が備えていてくれたのだなと、そう気づいて、また頬に笑みが浮かんだ。長く家に帰らなかったことが、今更ながらに悔やまれた。 珠里は化粧箱を抱え、卓の上に据えた。 椅子に掛け、櫛を掴みだし、髪を梳いた。 放っておくとすぐ艶を失くす赤毛を丁寧にくしけずり、結い上げて簪を差した。手水で顔を洗い、顔におしろいを塗る。紅を載せた筆で、唇をなぞる。 髪を飾る簪に触れる。金細工の房飾りは、頭を動かすと光りを受けて不思議に輝く。 金銀に玉など、珠里はろくに触れたこともなかった。 珠里も若い娘であったので、それなりにこういうものに憧れたこともあった。憧れは欲に変わる前に消えた。英琴さまが他のふたりの側女にくだされものをなさるたびに、それに慣れてしまったからだった。そのあと母が決まって珠里を罵るので、それをやり過ごすのも苦しかった。 一度だけ、他のふたりが土産ものをいただく場に立ち会ってしまったことがある。 都からお帰りになったばかりの英琴さまに、お茶をお出ししたときだったように思う。側女の二人を房室に入れて、英琴さまはそれぞれに玉の飾り物をお与えになっていた。 桂麗が優雅に微笑んで喜び、呂歌がはしゃいでいるのを聞きながら、珠里はいないもののように振舞うことでせいいっぱいだった。 その晩、腕を縛められて、まるで道具のように責め立てられた。縛られたまま朝を迎え、なすすべなく英琴さまの臥牀に転がっているあいだ、疎まれていると感じたことさえ自分の慢心だったのではないかと考えて泣いた。戒めを解いていただいたあとも、手の震えが止まらず、英琴さまのお体を清めるのに難儀した。 無体なことは、たくさんこの身に受けてきた。 けれど、ひとつの臥牀のうえで英琴さまと肌を重ねているあいだ、珠里は決してひとりではなかった。そのことが嬉しくて、多少の苦痛には耐えられた。 身ごもっていることがわかったあと、自分に家族ができるという望みを抱いていられたあいだは、恐ろしいくらいに幸せだった。子供が生まれたら、幼い頃に自分がかけてほしかった言葉を、たくさん我が子にかけてあげたい。母が英琴さまにしていたように、優しく見つめて、肩を抱いてあげたい。あるいは、それが珠里のいちばんの願いだったのかもしれない。 けれど、珠里は子どもをお腹の中で育ててあげることができなかった。 自分が母でなかったなら、子は無事に生まれてこられたのかもしれない。他の側女の子であったほうが、英琴さまもお喜びになっただろう。母も分け隔てなく世話を焼いたに違いない。 申し訳なくて、それでも、宿ってくれた我が子が愛おしくて、ずっと忘れることはできなかった。 子を抱くことを諦めた後は、いっそう英琴さまの温もりが恋しくなって、あの方をひとときでもお慰めできることが珠里の喜びになった。空っぽのからだでも、お役に立てることがあるのだと思いたかった。 三月前、滅多にないお召しがあるまでお別れのご挨拶を日延べしたのは、最後に一度、あの方に抱かれたいと思ったからだった。英琴さまにとっては何ということのない一晩でも、珠里にとっては大切な夜だった。 鏡の前でそわそわと髪を結い、震える指で紅を引いたことが、ひどく懐かしいことのように思われた。 もう二度と、あの方にお会いするために装うこともないのだと思えば、胸が引き絞られるようだった。珠里と言う女の存在は、きっとあの方の心にかけらも残っていまい。それでよかったと思うのに、今、どうしようもなく寂しかった。 鏡のなかの自分を見つめていられず、珠里は目を伏せた。 被衫を着替えることにした。嬬裙を着付けると、今度はお腹がすいてきた。珠里はそっと房室を出て、厨房に向かった。 すれ違った使用人が、幽霊でも見るような顔を珠里に向けた。いたたまれなさに身を竦ませながら、そっと厨房のなかを覗いてみた。 厨房は、祖母の世話をしていたころよく出入りをしていたから、勝手知ったる場所だった。ここでは、珠里の一家と、仮にもおおだなであるところの店の使用人たちの食事をまかなっている。 ちょうど昼飯時なので、なかは立ち食いをする丁稚やら、皿洗いに忙しそうな下女やらでごったがえしていた。 しばらくしてからまた来ようと、廊下を引き返した。 そのとき、背後から呼び止められた。 「――珠里」 そこには父が立っていた。 朝早くから夜更けまで、店に居続けの父である。店に出る時の格好でいるから、昼の休みの最中なのであろう。 父はまだ四十五にはならないはずだが、結った髪には白いものが混じり、顔つきもめっきり老け込んだように見えた。 しかし、相変わらず体はどっしりと大きく、声は低く重く、珠里は父の前では何となく萎縮してしまうのだった。 「どうした。もう、具合はいいのか」 尋ねられ、珠里はあいまいに微笑んだ。 「もう、だいじょうぶです」 じっと顔を見下ろされ、決まりが悪くて俯いた。 母の葬儀いらい、何日も部屋から出ず、使用人と会うのさえ拒んで部屋にひきこもっていたので、心配させたのだろう。申し訳なかった。 「昼餉か」 珠里が小さく頷くと、父は怒ったように腕を組んだ。 「人を呼べばよかろうが」 「……はい」 珠里はしゅんとしてしまった。 父はますます厳しい声になる。 「何か用意させる。戻っておれ」 「はい」 黙って一礼し、部屋に戻ろうときびすを返した。 廊下を折れようとしたとき、思い出したことがあって、ふと足を止めて振り返った。 父は立ち去ってはいなかった。 房室に戻る珠里の背中を、じっと見ていたのであった。 父は、遠い場所を見るような目をしている。 父子はしばし、黙って見つめあった。口を開いたのは珠里だった。 「おとうさま」 珠里は、頭を飾るかんざしに触れ、僅かに首を傾げた。 「お化粧箱を、ありがとうございました」 もう一度深く礼をとった。 耳のすぐうえで、細工がしゃらんと音を立てた。 |