風車の節












 時は流れて、珠里は十四になっていた。
 珠里は寺子屋に通いながら、父の商いの手伝いをしていた。
 目立たず、でしゃばらず、黙って下働きをする娘を、父は重宝してくれた。とっかえひっかえ囲った妾にも子が出来なかったために、珠里を店の者とでも娶わせて後を継がせるしかないと考えていたらしかった。
 祖母は寝たきりになり、すっかり気が弱くなってしまっていたので、父にあれこれ言うこともなくなっていた。身の回りの世話をする珠里にはときたま辛くあたったけれど、以前のように棒で打ったり煙管を手におしつけたりとむごいことはしなくなっていた。
 そのころであった。
 滅多に帰らなくなっていた母から文が届いた。
 母は、お屋敷に来て一緒に暮らしてほしい、婿を取るまでの数年の奉公でよいから、若君のお世話を手伝ってほしいと綴っていた。若君がもうすぐ元服をお迎えになり、母がとみに忙しくなるのだとも。
 珠里は信じられず、何度も何度も文を読み返した。
 父は、ただ行けとだけ珠里に命じた。祖母は珠里に背中を向けて、一言も話してくれなかった。祖母はすぐに亡くなったので、それが今生の別れとなった。
 たとえ父から許しを得られなくても、珠里は母の言葉に従っていただろう。
 母が自分を呼び寄せてくれた。一緒に暮らしたいと言ってくれた。それだけで心が浮き立つようだった。
 珠里は、精一杯に装って、店の手代の青年に送られてお屋敷に伺った。
 初めて中に入ったお屋敷は、珠里が見たこともないほど美しく、広かった。白く塗られた壁、鮮やかな朱色の屋根瓦。庭を囲って何棟にもわたる建物は、まるで迷路のようだった。
 母は、記憶にあるとおりに若々しかった。すっかり老け込んだ父と並べば、まるで父娘のように見えたであろう。母は着ている物も上等で、珠里はすっかり気後れしてしまった。
 急がしく立ち働いている召使たちが、次々に母に向かって頭を下げた。そのあと彼らは、珠里に好奇心に満ちた視線を投げたが、それがなぜなのか珠里にはわからなかった。
 乳母の地位はあくまで使用人であるが、他の召使とは格が違う。跡継ぎの乳母ともなればさらにであろう。こんなところで働いている母が、珠里には本当に誇らしかった。
 珠里は、母とともにお屋敷の一室に入った。
 母の部屋だということだった。どうしてか、部屋いっぱいに色とりどりの衣装が広げられていた。数人の侍女が脇に控え、じっと珠里を見つめていた。
「まずは、その服を着替えなさい」
 そう言って、母は絹の一式を珠里に差し出した。男物ではない、むしろ派手派手しいほどのしろものであった。侍女たちに手伝われておそるおそる袖を通し、着付けた珠里を見て、母は見覚えのある表情をした。しかたのない子、という目であった。
 珠里は、十四という年齢にしては未発達なからだをしていた。胸のふくらみはささやかであり、腕も足も童子のようにすんなりと細かった。髪は手入れだけは怠らなかったが、決して持てはやされる色でもない。
「次はこれに」
 違う色目の袍を次々と差し出され、珠里は言われるとおりに着替えた。それを繰り返した後、母はようやく得心がいった様子で頷いた。
「おまえは、小さいころから肌がしろいのだけがとりえね」
 着せられたのは、地味ではあったが仕立ての良い絹の袍だった。とてもではないが侍女の着られるものではないように思われた。訝しく思い、珠里は母に尋ねた。
「こちらで、これを着て働くのですか?」
 母はあっさり頷いて、今度は脱いで肌着一枚になるように珠里に促した。裸同然の格好で引っ張られていった先は母の臥牀のうえであった。そこに転がされて肌着まで奪われた。母の手がじかに肌に触れ、良い香りのする油をたらしては揉みこんだ。
 何のためにされているのか、よくわからずに戸惑いながらも、珠里は不思議なことに喜びに震えていた。これまで、母の手がこんなに長く、優しく触れてくれたことはなかったからだ。
 支度がすっかり済んだころには、夜になっていた。
 珠里は肌を磨き上げられ、生まれて初めておしろいをはたかれ紅を施され、美しい袍を着せられた。そうして母や侍女たちに連れられて部屋を出、雰囲気の違う一角に入った。珠里は、ただならぬ空気を肌で感じ取ったのであった。
 母は大きな黒い扉の前で立ち止まり、ひとりを残して侍女をそこに留めた。
 珠里は母と侍女とともに部屋に入った。
 暗かったが、母の部屋とは比べ物にならないほど広い部屋だということはわかった。ここは貴人の住まう場所だ。なのに、母はためらいもなく進み、隣室に入った。侍女は前室の入り口に控えた。
 ぼんやりと薄明かりがともっていた。
 部屋の奥に臥牀が見えた。誰かが杯を手に、片足を投げ出してそこに座っていた。
 この方の寝室なのだ。
「わかぎみさま」
 母が平然とそう呼んだ。
 珠里はぎょっとして身を引いた。
 その方は返事もしない代わり、否みもしなかった。その方――英琴さまは、飲みものを一息にあおり、杯を床に投げつけた。そうして臥牀から立ち上がりこちらに歩み寄られた。
 美しい方であった。
 珠里はその方に見とれた。珠里と年は変わらないはずなのに、あたま二つ分お背が高い。髪は混じりけのない黒色をして、目は同じ黒、お顔立ちも整っていらっしゃる。かつて一度だけ見た男の子の面影はなかったが、そのご立派さは、母が自分を捨て置いてこの方に一心におつかえしていたのも、承知してしまうほどであった。
 それなのに、英琴さまはひどく母を嫌っていらっしゃるご様子だった。
 不機嫌そうなお顔を取り繕おうともなさらず、英琴さまはじろりと珠里を見下ろされた。
「これか。見映えのしない娘だ」
 英琴さまは、そうおっしゃって口元を歪められた。
「生娘でございます。お情けをやってくださいませ」
 母は顔色ひとつ変えず、珠里の後ろにさがる。
 思わず振り返った珠里に、母は一言だけ静かに告げた。
「心からお仕えなさい。済んだら声をおかけなさい」
 母は足音もたてずに部屋を出て行った。追いかけようとした珠里は、後ろから髪の房を掴まれて阻まれた。痛みに顔をしかめ、英琴さまのお顔を見上げる。
 英琴さまは、忌々しそうに珠里を見下ろしていらっしゃった。
「お許しください、痛い……」
 訴える珠里を造作なく臥牀のなかに放りこみ、ご自分も臥牀に乗り上げてこられた。暴れる珠里の頬を二三度平手で打ち、大人しくさせ、手足を押さえ込む。
「どうして? どうして――」
「私だって、好き好んでおまえなどを相手にするわけじゃない」
 感情のないお声で吐き捨て、英琴さまのお手が性急に珠里の衣の裾を割った。
 力なく抗い、すすり泣きながら、珠里はようやく気がついた。
 母は、元服なさった若君の添い伏しをさせるため、珠里を呼んだのだ。
 けれど、どうして自分のような娘が選ばれたのか。
「情けなど期待するなよ。これは務めなのだから」
 英琴さまの苦しげなお声を、珠里は絶望しながら聞いていた。
 逃げるところなどどこにもなかった。
 きっと母は隣の部屋に控えているのだ。娘がお役目を果たすのを聞き届けるまで、ずっと。
「おまえは娼妓も同じだ。おまえの母は女衒だ」
 冷たく囁きながら、英琴さまはお体をお進めになった。
 足を開かれ、潤いもしないそこに熱いものをねじこまれた瞬間、珠里は気を失っていた。
 顔をはたかれ、珠里はすぐに意識を取り戻した。
 英琴さまが、心底いとわしそうなお顔で見下ろしておられた。
「始末をしろ」
 そうおっしゃって、珠里の髪を掴み、無理やりに体を起こさせた。珠里はぼんやりとした頭で、母が言っていたことを思い出した。済んだら声をかけろと言っていた。それはきっと、英琴さまのお体の後始末をするためだ。
 珠里の衣装は乱れ、肌は汚れていた。とくに腰から下にぬるぬると濡れた感触が這っていて、不快だった。そこで交わっていたのだから、英琴さまもそうなのであろう。
 袍の前を掻き合わせ、ふらつく足で入り口まで歩いた。
 気配を察したのか、すぐに戸が開いて、母が湯の入った盥と練り絹、若君の新しいお着替えを差し出してきた。
 珠里は臥牀に戻り、絹を湯で湿らせた。
 寝たきりの祖母の世話をしていたときと同じだった。
 水はよい香りのする湯に、布巾は絹にかわっただけだ。
 ためらいもなく準備をはじめた珠里を、英琴さまは臥牀のなかからじっと見つめておられた。
「どうぞ、お背を」
 そう申し上げると、英琴さまは一瞬遅れてお背を向けてくださった。肩からするりと被衫を落とし、そのお体を露になさる。絹の被衫は湿り、ところどころが濡れていた。
 祖母の老いた小さな体と比べるのもおかしな話であったが、とてもお美しいお体であった。
 首とお背の次は両腕、お体の向きを変えていただいて、そのあとは胸から腹。前に手を触れるにはためらったが、目をそらしながら震える手で何とか果たした。最後にその肩に清潔な被衫を着せかける。
「後始末まで、嘉耶に仕込まれたのか」
 鼻で笑い、英琴さまは被衫に袖を通された。
 辱められているのだとわかっても、珠里は何も言い返せなかった。
 黙り込んだ珠里に業を煮やされたのか、英琴さまは腹立たしげに言い捨てられた。
「出て行け。おまえの母に、花代の分け前でもせびるがいい」
 珠里は汚れたもの一切を抱えて頭を下げ、部屋を出た。
 朦朧とした珠里を、母は微笑んで迎えた。よくやったと労ってくれた。
 ずっと請い願っていた。母に褒められたい、自分だけを見てほしいと。
 それがかなったのに、ちっとも嬉しくはなかった。
 ただ、つかれきった体をやすめ、眠りたかった。



 珠里は、お召しはそれきりで、自分はすぐに実家へ帰らされるものと思っていた。
 しかし、母は自室の隣に珠里を留めおき、英琴さまの最初の側女になれと言い含めた。
 珠里は拒めなかった。母の頼みであったからだ。
 母が珠里を求め、珠里でなければいけないと言ってくれた。どんなに辛い目にあわされても、母が喜んでくれるのならば喜んで耐えようと決めた。
 十四年前、病気がちの奥方さまの代わりに生まれたての英琴さまを任せられ、何をも省みずに一心にお育てしてきた母であった。奥方さまは、英琴さまのお小さいころに遠くにご療養にいったきり、帰ってこられたことはなかった。
 母は、御領主の跡継ぎの母代わりとして、お館さまの絶大な信頼を得ていた。
 物売りの女房が夫人気取りよと影で囁き、侮る者も多かったという。特に、お優しかったという奥方さまを慕う者たちは、母が奥方さまを追い出したのだといって露骨に嫌っていた。
 母はそのような噂をものともせず、お屋敷の女主人のように振る舞っていた。
 母は若君の元服を、ひいては祝言も自分が取り仕切るつもりでいた。
 しかし、若君様はずっと早くにお気づきでいらした。ご自分の母君が田舎に追いやられて帰ってこられない不遇を味わっているのは、母が乳母として権力を振るっているからなのだと。
 英琴さまは決然とこうおっしゃった。
 もう自分は童ではない、元服を済ませれば、おまえの言いなりでいるのは仕舞いだ。母君を呼び戻してここで暮らしていただく、父君にもそう申し上げる。
 母は顔色さえ変えず、元服の儀を盛大に整えましょうと返したという。
 しかし、その内心はやるかたない怒りでいっぱいであっただろう。
 我が子とも思い――いや、我が子よりも大事に大事にお育てもうしあげた若君に、突然に裏切りを宣言されたとでも考えたか。若君のご機嫌を損ねれば、今まで築いたお屋敷での地位は台無しになると打算も働いたであろう。
 そうして、若君のお心を自分に繋ぐため、繋げられずとも地位を守るため、我が娘を添い伏しに据えようと思いついたのだ。
 それらは全て、英琴さまがお話しくださったことだった。
 英琴さまは、母を面罵することもあれば、閨の中で珠里を身代わりのように責め立てることもあった。しかし、英琴さまの癇癪は、あるときを境にぱったりと止んだ。長患いであった奥方さまが、遠方からお屋敷にお戻りになる道中に、お亡くなりになってしまったからだった。
 そのあとも、珠里が英琴さまにお仕えする夜に、甘やかなものなどかけらもなかった。英琴さまは珠里を道具のように用い、飽きれば臥牀の外に放り出した。
 はじめ、若君の側女は珠里ひとりだったが、すぐに二人目、三人目が囲われた。まともに顔を会わせることはあまりなかったが、みな若くて見目良い娘たちだった。
 当然のように、夜に珠里が呼ばれることは少なくなっていった。
 他に女が増えるたびに、母は歯噛みして悔しがり、若君が気移りなさるのはおまえの不器量のせいだと口汚く罵った。しかし一旦表に出れば、他の側女たちにもまるで実母のように優しく接した。
 珠里は、不器量なりにせめて精一杯務めようと決めていた。お屋敷では、側女は侍女も兼ねていて、閨に呼ばれない間にも部屋の掃除や衣装の管理のために忙しく、休んでいる暇はあまりなかった。
 まずはお茶の支度を変えた。英琴さまに気持ちよく休んでいただくために、閨では後始末と衣装の片付けに気を配った。誰にも気づかれない、甲斐のない努力ではあったけれど、珠里はささやかなやりがいを感じていた。





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