静かの夜にぞ白は儚き
弐拾




 汀の死の報せが香春郭に届いたのは、日曜日の夜のことだった。
 汀は昨晩、ひどい発作を起こして血を吐いた後、なんとか一度は持ち直したのだが、再び呼吸が出来なくなったのだという。そしてそのまま、その日の夕方に、西成に看取られて、静かに息を引き取った。
 普段よりも客の少ない時間のことであったから、女将は他の女に店のことを頼んで、すぐに綾を連れて病院へ向かった。
 あの小さな白い部屋で、白い着物を着た汀は、安らかに眠っているようだった。
 幾許かの笑みを浮かべているようにも見えた。
 綾はそれを見ても、涙は出なかった。
 哀しくてしかたなかったけれど、寂しかったけれど、泣いたらきっと汀が哀しむと思った。それに、綾は、汀が綾に言いたいと思っていたことを、みな伝えられていた。だから、悔いるようなことはなかった。
 二人を迎えた西成も真赤な目をしていたが、女将と綾の前で泣くようなことはしなかった。ひとしきり感情を吐き出してしまったあとだったのか、冷静に二人に汀の最期を話してきかせた。ゆっくりと言葉を選び、訥々と。
 汀は苦しまずに死んだ。
 意識がなくなる直前に、西成の名を呼んで、穏やかに微笑んだ。
 そうして、眠るように目を閉じた。
 女将も綾も黙って、西成の話しを聞いていた。
 汀の身体は、一度香春郭へ戻された。
 その数日後には、ささやかな葬儀が催されて、遊女たちと、馴染の客が何人かが汀のもとを訪れた。
 近くの寺で焼かれた汀の骨は、しばらくは香春郭の女将の居室に置かれていた。
 仕事の忙しい西成が引き取りに来るのを、待っていた。
 葬儀からほぼ二週間が経った頃、西成から連絡があった。
 彼の師である医者が病院に戻ってきて、西成は留学の話を本格的に切り出されたのだという。あまりにも熱心に説得され、また汀がそう望んでいたこともあって、彼は外国に行くことに決めたのだと言った。五年は帰ってくることができないから、汀と西成の故郷である信州に一旦帰るのだと。
 西成を待って、綾は香春郭の裏門を出た。
 吉原の大通りの中央に植えられている桜は、芽を吹き出して、青葉を繁らせていた。汀が好んで見ていた桜も同じだ。庭の真赤な躑躅が目に鮮やかに咲く頃になっていた。日差しもとても強くなっている。
 心地よい朝だった。
 大きな鞄を手にした背の高い背広の男は、香春郭の裏門の近くで綾の姿を見つけると、手を上げて綾に示した。
「やあ」
 彼は綾を、まるで慈しむように見下ろした。
 西成は疲れているようだった。頬が少しこけ、目の下にうっすとら隈があった。無理もないだろう。
「……西成さんはこのまま、長野に帰られるんですか?」
 彼の重そうな鞄を見て、綾が尋ねる。
「そうだよ」
「ああ、あの、こちらです」
 綾は、抱えていた風呂敷に包まれた骨壺の箱を、西成に手渡した。彼は一旦大きな革の鞄を地面に下ろすと、大事そうに綾から箱を受け取り、また鞄の取っ手を持ち直した。
「西成さまのお家のお墓に?」
「そうしようと思っているよ」
 言って、彼は腕の中のそれを、愛しげに見つめた。その目には寂しさと痛みも宿っていた。
「俺たちの帰るところは、結局はあそこなんだ」
 彼は笑った。
 綾は今まで、西成の笑った顔など一度も見たことがなかった。
 いつも彼は、仏頂面か無表情だったのだ。
 無器用そうな、ささやかな笑みは、はにかみやの少年のそれのようだった。
 汀は彼のこの笑顔を愛したのだと、そう思った。
 だから、綾も、微笑み返す。
「姐さん、喜ぶと思います」
「……今まで、初瀬を大事にしてくれて、ありがとう」
 そう言って、彼は踵を返した。
 綾が何かを言う間もなく、大通りの方へ歩き出している。
 自分には何か、西成に伝えなければならない大切な言葉があるのではなかっだろうか。とても大切な、自分だけが知っている言葉を。自分しか知らない汀のことを。
 西成の背が段々小さくなる。
 言わなければ。
 自分が西成に伝えなければ。
「西成さん!」
 いつかのときのように、綾は声を張り上げて、西成を呼んだ。
 彼はゆっくりと綾を振り返る。
「姐さん」
 胸が、何か熱いものを押し込まれたように詰まってしまう。
 それでも、綾は声を振り絞る。
「姐さん、幸せでした」
 西成は目を瞠った。
 行き過ぎる人々が、ちらちらと二人を見遣っていく。
 驚いたように黙っていた西成は、しかし、口唇を引き結び、瞳の光を和らげた。
 そして、また微笑む。
「知ってるよ」
 西成はそう言った。
 それだけを言い残して、彼は綾に背を向けた。
 少なくない往来に紛れて、彼の姿が見えなくなる。
 綾はそれを見送っていた。
 いつまでも、見送っていた。
 繁る若葉の青が眩しい、春の終わりのことだった。
 




(了)



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