静かの夜にぞ白は儚き
拾九




 汀は、自ら望んで大学病院へ入った。迎えに来た西成の腕に抱かれて、汀は行ってしまった。それを見送るしかなかった綾に、汀はほんの少し困ったような顔をして、僅かに微笑んだ。
 もう汀はここに戻ってこないのかもしれないと、ぽつりと綾が言ったのを、女将は聞き咎めていた。
 物騒なこと言うんじゃないよ。女将はそう言ったが、その声はひどく寂しげだった。
 汀が入院してから一週間ほどして、綾は女将に連れられて病院へ行った。女将は二日に一度は病院に顔を出していたが、綾を連れて行ってくれるのは初めてだった。
 女将は、汀の治療のために金を惜しまなかったらしく、汀は狭いながらも一人部屋にいた。
 それぞれ腕に花束を抱えた女将と綾が部屋に入ったとき、汀は、窓の外をぼんやりと眺めていた。柔らかい風が吹き込んで、カーテンを揺らしていた。
 白い部屋の中で、白いベッドの上で、汀は遠くを見ていた。
 結いもしていない黒髪が、さらさらと首筋のあたりでなびいている。
 声を掛けてはいけないような、触れてはいけないような、そんな感じがした。
「……お妣さん。綾ちゃん」
 声を掛けられて、綾は我に帰る。
 汀の小さな身体は、いっそう細くなったように見えた。肌は透けそうだったし、頬はこけてはいないが痩せていた。ベッドの上で上体を起こしているが、胸や腹も薄くなったようだ。
 また一度、大きな発作があったらしい。汀の部屋へ来る前に、西成からそう説明された。彼は他にも患者を持っているようで、医局で忙しくしていた。西成は、付き添ってやれなくてすまないと二人に謝った。
「具合はどうね」
 尋ねた女将に、汀はそこそこです、と答えた。
「華子が帰ってきてぶりぶり怒ってたよ。あんた、見舞いに来た華子に何て言ったんだって?」
 意外なことに、汀が入院してから初めて見舞いに来たのは、女将でも他の客でもなく、格子の華子だった。
 それを聞いたとき、綾はたいそう驚いた。華子は汀と仲がいいとは言えなかったし、人を心配してわざわざ病院に足を運ぶような人間にはとても見えないからだ。
「あれは、華子姐さんがいけないのよ。ここに入ってくるなり、いきなり私のほっぺたを叩いたんですもの」
 汀は自分の右頬を手の平でさすった。
 華子は、たくさんの客の合間になんとか時間を作って、病院へ行ったのだという。早苗はそのことを、あんたのところの姐さんのせいで私が忙しかった、と愚痴を織りまぜて教えてくれた。
「華子姐さんったら、あんたみたいな馬鹿は知らない、もう帰るって言ったんです。だから私、おかしくって」
「それであんたは、帰るのはいいけどその籠の果物は置いていけ、なんて言ったんだね」
「そうしたら、華子姐さんはおとなしくなってくれたんです」
「あの妓、あんたが病院に行ってから、ますます忙しくなってるよ」
 汀が入院した後の華子の多忙ぶりは、すさまじいものがあった。
 華子は休む間もなく座敷に出るし、時間花で客を何人も取るし、本当にいつ眠っているのかわからないくらいだった。
 それをわかっているのか、汀は目を伏せて、白い布団の端を握り締めた。
「あんたが病気だって話したら、すごい剣幕で怒鳴られてね。何で自分に言わなかったんだとか、そんな病人を座敷に出すなんて信じられないとか。諫めるのが大変だった」
「……姐さんらしい」
「あの妓も義理堅いところがあるからね、行くって聞かなくて、あんたがどこに入院してるのか、言わされちまったよ」
 女将は言葉を切って、深いため息を吐いた。
「あの妓だって、あんたが嫌いで今までああいうふうに当たってきたんじゃないんだよ。わかってるだろ?」
 ええ、と汀は顔を上げた。
「今なら、わかります」
 女将は軽く二度頷いた。
「わかりゃいいんだよ。わかればね」
 女将は小さく口元を歪めた。
 いつも厳しい表情しか見せない女将が、心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 それもほんの少しの間で、女将は大きな花束をベッドに放る。
「吉崎先生が、また寄越してくださったんだよ」
「……先生が?」
「あんたのこと、馴染みのお客様にはだいたいお話したんだよ。暇乞いをする時間もなくて、申し訳ありませんって」
 汀はどうしたのか、どこにいるのかと、女将は本当にたくさんの客と遊女から問いつめられていた。女将のこの一週間の働きぶりにも、普通ではないものがあった。
「吉崎先生は、まあ大人な方だよ。ああそうかって頷いていらしてね、毎日うちに花束を届けてくださるけど。藤原様のほうは、たいそうお怒りでね。藤原様だけには、あんたがこの病院にいるって言わされちまった」
 あの方も真っ直ぐな方だから、と女将は付け足した。
「花瓶の水、換えてくるよ」
 そう言って女将が花瓶を持って部屋を出ていこうとしたので、綾は自分がやろうと手を伸ばした。だが、女将に目で制された。
 どうやら、汀と綾を二人にしてやるつもりらしかった。
 ばたりと扉が閉められた。
 女将と三人で居たときは平気だったのに、二人きりになってしまうと急になぜだか気持ちが張りつめてしまう。
 初めの言葉が見つからず、綾はぼうっと突っ立っていた。
「どうしたの。綾ちゃん、座って」
 そう言って、汀はベッドの脇の椅子を勧めた。
 綾はゆっくりと汀の側に寄って、椅子に掛けた。
 綾は、汀の顔を真っ直ぐに見られなかった。一度見てしまったら、目が離せなくなって、泣き出しそうになるからだ。
 だから、綾は黙っていた。
 汀も何も言わなかった。
 部屋は静かだった。奇妙なくらい静かで、綾は少し息苦しかった。
 時折、音もなくカーテンが揺れる。
「……綾ちゃん、あの傘、綾ちゃんにあげる」
 ふいに、汀がそう言った。
「一番奥の箪笥の上にしまったの。紙で包み直したから」
 吉崎から見舞いにと贈られた、淡い水色の日傘のことだ。見事な刺繍が一面に施された、綾のお気に入り。汀が一度も日の当たる場所で使うことのできなかったそれ。
 なぜ汀がそれを綾に与えようとしているのか。
 それがわからないくらい綾は鈍くなかった。
 汀は綾を優しい瞳で見つめている。
「私のものは、お妣さんにみんな処分してもらうことになっているの。お金に換えるか、他の妓のものになるわ。でも、あの傘は、綾ちゃんに持っていてほしいの」
 何も言えない綾は、嗚咽を噛み殺して俯いた。
「綾ちゃんの水揚げ、見てあげたかった。残念なのは、それだけなのよ」
 汀が幸せそうに微笑むのを、綾は見た。
 涙が滲んだ。口唇を噛んだが、呻きが歯の間から零れた。
「綾ちゃん、泣かないで」
 汀の白い細い手が、綾の膝に置かれた。
 視界がぼやけて、汀の顔を見られない。
「あ、あたし、姐さんがいなくたって、ちゃんとやれます」
 しゃくりあげながら辛うじてそう言うと、汀は綾の手に自分の手を重ねてゆっくりと撫ぜた。
「そうね。綾ちゃんは、しっかりものだものね」
「ちゃんと立派になるんですから。姐さんなんか、いなくても」
「うん」
「姐さんこそ、あたしが側にいなきゃ、だめでしょ?」
 汀の腕が、綾の頭を引き寄せる。
「綾ちゃん……」
 柔らかく抱きしめられて、綾は涙を堪えきれなくなった。
「あたしがいなくちゃ、姐さんなんて、一人じゃなんにもできないくせに」
「そうね。綾ちゃんがいなくちゃ、私はだめね」
 綾は、鼻水と涙で、汀の浴衣の胸をぐしゃぐしゃにしてしまった。
 それに気がついて、綾は汀から離れようと思った。
 けれど、汀はしっかりと綾を抱きしめていて、綾を離してくれなかった。