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運命の石 公爵の恋 ２ 満足げな公爵が領地を引き上げたのに一日遅れ、ソランジュも都に発つことになった。伯爵は、飽き性の公爵が他に目移りする前に、彼女を側に送り込みたいのに違いなかった。 出立は朝だった。 ソランジュとコンスタンスの乗り込んだ馬車は、数人の護衛とともに、まっすぐに公爵の住む都の館に向かうという。 馬車が走り始めてから半時ほど経ったころ。 荒々しい蹄の音と、馬のいななきが聞こえ、その音がだんだんと近づいたかと思うと、馬車が急に止まった。 外から、若い男の声が聞こえた。 「彼女が乗っているのだろう！ 話がしたい」 コンスタンスの向かいに腰かけ、俯いていたソランジュは、はっと顔をあげた。 彼女の許婚だった男に違いなかった。どこから聞き及んだのか、屋敷を離れたところを見計らって追ってきたのだろう。 外で男たちがもみあう気配がした。 ソランジュは思わずといったていで、驚いて扉に手を伸ばす。コンスタンスはその間に身を滑らせ、扉を背にして彼女を制した。 もしもソランジュの目が見逃してくれと訴えていたら、コンスタンスは割り切って務めを果たすことができていただろう。 しかし、ソランジュは、唇をかみしめてまっすぐに見つめてくる。 「開けてください。私も、あの方とお話ししなければならない」 コンスタンスは顔色を変えずに答えた。 「あなたさまを公爵さまのもとにお届けするのがわたくしどものお役目です。ほかには何も言いつかっておりません」 彼女が逃げれば、失態をおかしたコンスタンスも護衛たちも命はない。 ソランジュも許婚も、死ぬまで追われるはずだった。 「……お別れを言うのです」 静かな言葉に、コンスタンスは眼を瞠る。 「窓を開けて。お話しするだけならいいでしょう？」 コンスタンスは彼女の視線に耐えられず、目をそらした。 そして、外の護衛には許婚に危害を加えぬよう、許婚には窓の側に馬を寄せるよう言った。 ソランジュの許婚は、明るい茶髪に浅黒い顔をした、誠実そうな男だった。 コンスタンスが窓を開けると、ソランジュは震える手を窓枠に掛けた。 涼やかな外の空気が流れ込んでくる。 青年は、馬上から窓に掴みかかるような勢いで大きな手を中に差し伸べる。 「ソランジュ」 ソランジュは、一言も発さず、ただ、ほほえんだ。 「……わたしは、都で公爵さまのお館にご厄介になることにしました」 男の顔がこわばった。彼女はいっそ冷たく聞こえる声音で続けた。 「たくさんの侍女を仕えさせて、好きなだけ贅沢をさせてくださるのですって。この馬車も、このドレスも、みな公爵さまがくださったものなんです。指輪も、首飾りも、数え切れないほどいただきました」 ソランジュは、自分の上着の胸元を探る。首にかけていたらしい革ひもをたぐり、ほどく。その先にかかった小さな何かが、朝日を受けて青く煌めいて、すぐに彼女の白い手に握りこまれる。 コンスタンスや他の者に見とがめられぬよう、隠していたのだろう。 「これはもう、わたしにはふさわしくありません」 彼女は窓の外に手を差し出す。 青年が息を呑み、うめくような声で許婚を呼ぶ。 「お返しします。この指輪に似つかわしい方と、どうぞ、お幸せに」 ソランジュはそう言って、彼に手の中のものを押しつけた。 そして自ら窓を閉め、すぐ出発するようコンスタンスに頼んだ。 滑るように馬車が駆けだし、車内は重苦しい沈黙に支配される。 ソランジュはゆっくりと首の下に触れる。そこに何もないことを確かめて、彼女は唇をゆるめ、目を閉じた。 ソランジュは、公爵の館に部屋を与えられた。 着いてすぐにコンスタンスを伴って奥方の部屋に挨拶に行ったが、奥方は加減が悪いとのことで対面を許されなかった。 夜、公爵からのお呼びがかかると、ソランジュは彼の部屋をおとなう。 公爵は彼女に優しかった。従順に仕える褒美のように、毎日、花や、リボンといったこまごまとした贈り物を彼女の部屋に届けさせた。仕立屋や宝石商にどんなものでも好きなだけ頼んでよいとも言う。 コンスタンスは片時も離れず彼女に仕えた。 その裏で、伯爵への報告も欠かさなかった。 公爵がいつ、何度ソランジュを抱いたか。どこに連れられ、何を贈られ、どんな会話を交わしたか。 伯爵は、ソランジュに子どもができていないかどうかを特に気に掛けていた。公爵には正妻だけでなく関係を持った他のどの女との間にも子どもはいなかったが、それは公爵自身が望まないからだというもっぱらの噂だった。もとより、貴族の常識として、婚外子は家の恥に他ならない。 ソランジュの月のものは遅れがちだったので、コンスタンスは毎月のように肝を冷やすことになった。 いやな仕事だとコンスタンスは思う。 以前のあるじだった伯爵夫人は、高慢ちきで気まぐれで、派手好きなうえ浮気三昧な人だったが、あっけらかんとして明るく、仕えている間、後ろめたい思いはしなくて済んだ。 ソランジュは口数すくなでわがままひとつ言わない代わり、何を考えているのかわからないところがあった。人形のように長椅子に腰かけてまる一日を過ごしている。することと言ったら本を読むか刺繍を刺すか、公爵の部屋に呼ばれて出かけてゆくかだった。 半年ほど経ったあるとき、公爵がソランジュを伴って観劇にいった。新進気鋭の劇作家の前評判の高い新作で、その日の王立劇場での初演には異国の貴族も招かれていたという。 ソランジュはその席で、たまたまこの国を訪れていた、かつての許婚の主君に会った。子爵は騎士をこの国には連れてきてはいないようだった。 コンスタンスは、遠くから、劇場の玄関ホールの回廊の陰で、一言二言言葉を交わすふたりを見ていた。彼らが何を話していたのかはわからずじまいだったが、ただ、その晩のソランジュはひどく塞ぎこみ、翌朝からしばらく寝付いて陰鬱そうにしていた。 公爵は、その晩をきっかけにしたように、自分にまったく心を許す気配のない愛人に、だんだんとじれた様子を見せ始めた。驚くほど高価な下されものをしてみたり、旅行に半ば無理やり連れ出してみたり。かと思えば、娼婦を買ったことやどこぞの貴婦人と一夜をともにしたことを公言してみたり、思い出したように奥方と床をともにしてみたり。 ソランジュは、自分は公爵に飽きられたのだと思ってでもいたのだろう。 次第にお呼びが間遠になるのを気に掛ける様子もなかった。 けれど、兄である伯爵は、ことあるごとに妹を叱責して、もっと寵愛してもらえるよう努力せよと言いたてた。それくらいしか取り柄がないのだから、せめて家の役に立つようにと。ソランジュは黙って聞いていた。伯爵の罵りは日を増すごとにひどいものになり、聞くに耐えなくなったコンスタンスがそのやりとりの間に入り、ソランジュをかばうことになった。 館に来てから二年が経った、夏の終わり。 夕餐を済ませたソランジュは、部屋で刺繍を刺して過ごしていた。 コンスタンスが彼女の寝支度を始めた頃合いのことだった。 夫人と連れだって夜会に出かけていたはずの公爵が、前触れもなくソランジュの部屋にやって来た。彼がこの部屋を訪れるのはひと月ぶりだった。 「旦那さまがおみえです」 コンスタンスが取り次ぐや否や、公爵が夜会の帰りそのままであろうという格好で現れた。 彼のいつも後ろに撫でつけられた髪が乱れ、頬には紅みがさし、目も冷たく据わっている。彼はしたたかに酔っていた。 「おまえは、私がいくつ指輪をやっても、はめてみせたことがないな」 長椅子に腰掛けたソランジュに近づきながら、公爵は言う。 「何をしても嬉しそうな顔ひとつしないし、逆に悲しそうな顔も見せない」 あと半歩で手が届くというところで、公爵は足を止めた。 ソランジュはとまどった表情で男の顔を見上げた。 彼女は目を伏せ、唇を開いた。 「……わたしは旦那さまのものです」 静かな声だった。 あのときと同じだとコンスタンスは思う。 二年前、ソランジュは今と同じ、透き通るような冷ややかな声で許婚に別れを告げた。 「何でも、おおせのとおりにします」 彼はひどく不満げだった。ソランジュもきっと気づいているだろう。 「贈り物なんていただかなくても、お命じどおりにおつかえします。だから、わたしがどんな顔をしているかなんて、気になさらなくてよいのです。もし私の顔を見るのもいやだとおおせなら、いますぐにここを出て行きます」 ソランジュはゆっくり立ち上がった。 公爵は彼女より頭一つ半ほど背が高い。 彼女はくちびるをかみしめ、顔をあげて彼を見つめる。 公爵は声だけで嗤い、吐き捨てた。 「憎たらしい女だ」 大きな手が伸び、ソランジュの顎をとらえた。親指が珊瑚色の唇をなぞる。 「命令どおりに何でもすると言うのなら、私に、愛していると言ってみろ」 吐息が触れあうほど間近で、公爵は命じた。 ソランジュは口を開いた。 けれど、どれだけ待っても、ソランジュの唇からその言葉は紡がれなかった。 「私が出て行けと命じても、おまえに帰る先などありはすまい」 僅かな哀れみのこもった声で言って、彼はソランジュのドレスの首の後ろのあたりを掴み、乱暴に引き寄せる。そのまま彼はソランジュを隣の寝室に連れてゆこうとする。 コンスタンスは思わず後を追いかけそうになった。 しかし、一瞬だけソランジュと視線が交わり、その静かな目を見て、思いとどまった。 ふたりは寝室の向こうに消えた。 か細いすすり泣きと寝台のきしむ音が一時ほど続き、途絶えたあと、公爵が身支度もそこそこに部屋を出て行った。 コンスタンスが扉を叩いて寝室に入ると、ソランジュは寝台のなかで掛け布に包まったまま顔をあげた。疲れたような顔で彼女は笑った。 彼女に寝巻を着せかけながら、コンスタンスは思わず問うた。 「どうして、あのようなことをおっしゃいました」 彼女は俯いて答えなかったが、コンスタンスにはわかっていた。 なぜ指輪をはめないのか。かたくなに公爵に心を開かないのか。まるで早く飽きられて捨てられてしまいたいとでもいうかのように、愚かしく公爵にさからうのか。 わかっているのに尋ねてしまった自分はより愚かだと、コンスタンスは思った。 |