名の無い王妃





 皇帝の末の娘には、影武者がいた。
 皇帝の国は、かつては大陸を支配するほどの大国であった。しかし、宮廷の内外で貴族と官の腐敗がすすみ、その千年にも及ぶ歴史を終えようとしていた。
 あまたの国がその領土を得んと虎視眈々とした。
 皇帝は周辺の国々に、手当たり次第に、同盟の証という名目で子女を送り込んでいた。
 末娘にも、その役回りが巡ってきた。
 しかし、皇帝は、あまりに幼い娘を不憫がり、政略のために嫁がせるのを嫌がった。
 そして、影武者の娘を南の新興国へ送り込んだ。
 娘は、皇女と変わらぬ背格好をしていた。宮廷では皇女に護衛として付き従っていたので、武芸もよくした。ただ、朗らかな皇女とは似ても似つかぬほど、表情に乏しいのだった。
 影武者の娘は、王妃として迎えられた。
 少年王は、偽りの妻に尽くした。
 美味な食べ物を食べさせ、美しい着物を着せ、妹にするように構った。
 娘は、その全てが哀れな大国の皇女に向けられているものとわかっていた。
 自分のものではない美しい名前を、夫が優しく呼ぶそのつど、小さな胸を痛めた。
 けれども、あまりに夫が楽しげに娘に接するものだから、娘はゆるゆると絆されていった。娘には物心付いたころから家族というものがなかったので(娘は皇女に背格好が似ているというだけで、町中から攫われてきて、影武者の心得を仕込まれたのだった)、夫やその他の人々の温かい心配りは初めて知るものだった。
 娘は十三で初潮を迎えた。
 夫は娘の体に手を伸ばさなかった。
 娘は、おのれが影武者であることを悟られたのかと怯えた。娘には理解できない事情が夫にそうさせていたのだが、娘はそれを知るには幼すぎた。
 娘はずいぶんと悩んだ。
 夫の態度が変わらずに優しいことが、かえって苦悩を深くした。
 あるとき、娘と夫とが眠る寝室を、刺客がおそった。娘はいちはやく気付いて、かつて影武者になりたてのころ教え込まれたのと同じように、夫を庇った。そのとき、娘は本当に、彼の代わりに死ねるのならば本望なのだと思っていた。
 娘は命を取り留めた。
 目を覚ましたとき、娘のそばには夫がいた。
 傷が癒えきったころ、夫は初めて娘を抱いてくれた。
 それから数年、ふたりは仲睦まじく暮らした。
 結婚から十年が経った冬、皇帝が代替わりして、皇女の兄が即位した。新皇帝は、妹の結婚の無効を主張した。財産と領土の継承権を、婚家に取られまいとの思惑あってのことだった。
 夫は、娘を返すまいと手を尽くしてくれた。
 それが嬉しく、しかし申し訳なく、娘はとうとう、夫におのれの素性を打ち明けた。
 夫は真実を知っていた。
 戦をする心積もりであったから、いずれ国に帰す妻とわかっていたから、できるだけ優しく接し、娘を抱かなかったということ。そのうちに、本物の皇女が帝国の宮廷で病死していたことがわかったこと。夫婦の寝室をおそったのは、邪魔になった娘を夫もろとも殺そうとした皇帝の放った刺客だったということ。
 そして、娘は、祖国に帰ればすみやかに命を奪われるだろうということ。
 何もかも伏せ、秘密のままにしておけば、娘は王妃のままでいられること――。
 それでも娘は頷かなかった。祖国のためではなかった。娘は、自分から家族を奪い、人並みの幸せを奪い、名前を奪った国を恨み続けていた。
 娘が替え玉だということは、夫にとっても弱みとなる。どこの馬の骨とも知れぬ女を妃に置き続けていたとわかれば、彼の権威は地に墜ちる。どうしても彼の側にはいられないのだと、娘にはわかっていた。
 夫は娘に言い放った。
 娘によく似た女を身代わりに立て、その女をくれてやればよい。十年前にあちらがしたように。そう言って、娘を塔に幽閉した。
 娘は、牢番を騙して塔を抜け出した。
 ついぞ出したことのない大声で侍従を叩き起こし、侍女たちに出立の支度をさせた。
 夜半に馬車を仕立てさせ、夫には何も告げぬまま、城を去ろうと試みた。
 気付いた王が、馬車を止めさせた。
 彼は、そのとき初めて妻に手を上げた。
 打たれた頬を押さえもせず、娘は訴えた。
「あなたが身代わりに立てようとしたひとには、家族があるでしょう、これまでの暮らしがあるでしょう。自分の名前があるでしょう」
 娘は手を振り上げて、夫の頬を打った。
「おのれの名のために生きられないことが、どれほど空しいことか。――あなたはどうか、そんなことを、あなたの民に強いないで」
 そして、娘は夫にくちづけた。
  「あなたが呼んでくださったから、私はこの名を好きになりました。だから」
 行かせてほしいと、娘は告げた。
 王は、もう、妻を止めることはできなかった。
 彼にできたのは、娘の荷を彼女の地位に相応しい馬車に移し替えることと、最後に小さな贈り物をしてやることだけだった。
 彼は妻の乗る馬車を見送り、その足で軍議に向かった。
 尼僧院に入った娘は、まもなく、皇帝によって秘密裏に毒殺された。
 小さな墓標には、彼女がその命を全うした、ひとりの女の名前が刻まれた。