深淵 The gulf
番外編 小夜風










 アトラインの身辺は着々と整えられていった。
 王宮の外での公務はほとんど取りやめになり、夜会や晩餐会への出席も最小限にされた。
 夜には、国王がアトラインの寝室を訪れるようになっていた。夕食を終えると彼はそのまま王妃の間に来て、しばらくアトラインと語らってから隠し通路を使って自室に帰っていく。重鎮たちや侍従長から、今は大事な時期だとでも言い含められたのだろう。妊娠がわかってからは、彼は一度もアトラインと床を共にしなかった。
 悪阻もひどかったし、貧血で動けないこともままあった。寝台の上で一日を過ごすのも珍しくなかった。それでも、アトラインはこの八年間のうちで最も満たされているように見えた。
 典医の見立てでは、出産は難航するだろうとのことだった。
 アトラインはあまりにも骨が細く、腰が小さく、初めてのお産に耐えられるかもわからなかった。逆子の疑いがあると診断されてからは、アトラインはますます不安を募らせていた。
 胎内の赤子が半年まで育ってやっと、アトラインの懐妊が公にされた。
 それまでアトラインを軽視していた貴族たちは、手のひらを返したように祝福と見舞いにやってきた。彼らがその腹のうちで何を考えていたのかわからないほど、ブリシカもおめでたくはなかったけれど。
 アトラインが頻繁に出かけていたのはおかしな呪術師の元に祈祷にいくためだったとか、国王の目を盗んでどこぞで子種を仕入れたのだとか、その相手はかつての婚約者だったに違いないとか。アトラインが国内を歴訪していたことをあげつらい、王宮を空けていたあいだのことをあれこれ言う噂もあった。
 女官や侍女仲間の口伝いに、あるいは宮殿のそこここで、ブリシカは聞くに堪えない話を耳にした。
 女官長もブリシカも、身ごもっているアトラインの耳に入れないよう努力してはいた。
 寝台の中に篭もりきりなのもよくないと言って、アトラインは居室の寝椅子のうえで過ごすことが多くなっていた。
 一番時間を割いたのは、赤子のための家具選び、衣類の準備だった。
 元々裁縫が得意でないらしいアトラインだったが、その不器用さは驚愕に値した。
 アトラインとブリシカは、二人並んで小さな絹の産着を縫っていた。同じ型紙から作っているはずなのに、アトラインのほうのものは、線ががたついていていかにも着心地悪そうだった。
「アトリーさま、そんなに縫っては頭が出せません」
 ブリシカの静かな怒声に、アトラインは針を進める手をびくっと止めた。彼女は苦笑して肩を竦める。もう数え切れないほどこうして作業が中断されていた。
「私、お裁縫は向いてないの」
 アトラインが小さくため息を吐いた。
「慣れの問題でしょう」
 すかさずブリシカが取り繕う。
「でも、こんなに縫い目がちぐはぐなのよ? 慣れとか努力とか、そういう問題じゃない気がするわ」
 ブリシカは、アトラインの手元を横目で覗き見た。
 白い糸が、つやつやと輝く絹の上でのたうっている。アトラインはそれを『みみずみたいね』と笑って評した。残念ながらブリシカはみみずを見たことがなかったが、それがどんな形状のものなのか見当はついた。
「今からでも、ずっとお上手になれます」
 ブリシカは段々と苦しくなった。アトラインに不得手の自覚があるだけに、さらに対処が難しい。
「赤子などすぐに大きくなるのですから、産着を着ているのなんてほんの少しの間です」
「そうしたら、お下がりになって臣下に下げ渡されるきまりでしょ? でも、これだけはぜったいに死守して長持ちの中にしまっておくわ」
 アトラインはつんと顎をそらした。
 その様子が童女のようで、ブリシカは思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、わたくしが何年後かに引っ張り出して、御子に見せて差し上げましょう。お母上が手ずからおつくりになったものですと」
「意地悪」
 彼女はさらにむくれた。
「女の子だったら、私がお裁縫がへただとわかると示しがつかないじゃない。……ううん、大丈夫ね、きっと男の子だと思うから」
 ブリシカは手を休め、アトラインに体を向けた。
「――なぜ、そのようにお思いになられます?」
「何となくよ。きっと陛下に似た男の子だわ。髪は栗色で、目もそうなの。きかん気でやんちゃで、すごく暴れん坊になるかもしれないけど、おりこうで何でも上手にするの」
 アトラインは、小さな産着を目の前に持ち上げて微笑んだ。
 悲しいような、嬉しいような、不思議な光を宿した青い瞳。ブリシカは軽口を叩くのも忘れ、彼女に見入っていた。
「ブリシカ、あのね」
「はい、アトリーさま」
「本当はね、この子が元気に生まれてきてくれたら、もうそれ以上のことはないの」
 アトラインは目を伏せた。
「男の子でも、女の子でも、陛下に御子を差し上げられたらそれでいい。お産で死んでしまう人もあると聞くわね、私もそうなるかもしれないわね」
 アトラインのほそい手が震えていた。
「でも、この子がぶじに生まれて、陛下が我が子として抱いてくださったら……、もし私がそのときお側にいられなくても、それでもいいわ」
 ブリシカは、気の利いたことを口にすることもできなかった。
 一月ほど前に、アトラインは部屋に宮廷画家を呼んでいた。アトラインは彼に、手のひらほどの小さな肖像画を描くよう依頼した。見合う額縁も用意させていた。アトラインが何のために身重の自分の絵姿を残そうとしたのか、それを思って、ブリシカは胸が締め付けられた。
 もしも自分がお産のためにはかなくなったときのため、我が子が母をしのぶよすがを置いてゆこうと思っていたのだ。もしも自分が赤子を抱けなかったとしても、みごもっているあいだはずっとともにいる。だから、せめてそのときの姿を書き残しておきたいと考えたのだ。
「なにをおっしゃいます」
 ブリシカは早口でまくしたてる。
「困ったことをおっしゃらないでくださいませ。どなたかに聞かれていたらいかがします。本当に、こんなことは二度とおっしゃらないでくださいませ」
 アトラインは、困ったように微笑んだ。
「そうね。心配していても、楽しいことはないわね」
 しばらくして、あ、とアトラインは小さく声を上げた。
「あ、今、お腹を蹴ったわ」
「本当ですか?」
「あ、また。ほら、やっぱりやんちゃで暴れん坊なのよ」
 二人はそうしてくすくす笑いをかわしながら、のんびりと午後を過ごした。










 貴族たちの訪問は続いた。謁見の間で正式に迎える客人のみならず、私的にアトラインを訪う者も少なくなかった。アトラインはそういう相手を自らの客室や居室に招いた。
 とくにアジェ侯爵は、数日と空けずにアトラインのもとを訪れていた。いつも何かしらの手土産を携えてきて、それらは自邸の庭園から切ってきた薔薇の花だったり、奥方が自ら織ったという麻や絹の反物であったりした。何よりアトラインを喜ばせたのは、侯爵がときたま連れて来る、彼自身の小さな息子だった。
「ロレンツが来てくれると、お部屋が明るくなるわ」
 寝椅子に腰掛けながら、アトラインは心から嬉しそうにその子供を見つめていた。金髪に緑色の目の少年はもう七つだった。顔立ちは父母のよいところだけを集めたように整い、幼いながらに利発で、受け答えもしっかりしている。同年の貴族の子息のなかでも、家柄、体格、性質、何をとっても抜きん出ていた。
「妃殿下、あの、おなかをさわってもいいですか?」
「これ、ロレンツ」
 侯爵が困った顔で息子をたしなめる。いつものことなので、アトラインは笑っている。
「いいのよ、侯爵。ほら」
 アトラインは、少年のちいさな手を優しく握り、そっと自らに引き寄せた。
「この間より、少し大きくなったでしょう」
「はい。妃殿下、まだ男の子か女の子かわからないのですか? いつになったらわかるのですか?」
 少年はごくごくまじめに尋ねる。
 その質問も毎回のことで、アトラインもブリシカも苦笑するしかない。侯爵は息子の好奇心旺盛なさまに頭を抱えていたが、子供の無邪気な言葉は周囲にとっては可愛らしいばかりだった。
「ロレンツはどちらがいい?」
 アトラインがおかしそうに問う。
 少年は首をかしげ、しばらくして、頬に笑窪をつくってみせた。
「いっしょにおうまにのれるので、男の子がいいとおもいます」
 そうね、と彼女は微笑んだ。
 ロレンツは目を輝かせながら聞く。
「男の子だったら、みらいの国王陛下になるのですよね? ぼくがおつかえしてもいいですか? 父上が陛下にしているみたいに、いつもおそばでおまもりできますか?」
 アトラインは青い目を潤ませ、ロレンツの手におのれの手を重ねた。
「ええ。赤ちゃんと一緒に遊んでやってちょうだいね。この子にはお兄さまがいないから、ロレンツがお兄さまになってやってね」
「はい!」
 ロレンツは気をつけをして元気よく答えた。
 侯爵も、それをやれやれといった様子で見守っていた。



















 アトラインの懐妊を祝福に訪れた者のなかに、彼女のかつての婚約者の姿があった。
 それは、謁見の形をとった面会だった。
 並んで玉座に掛けた夫妻の前に、その男はいささか緊張した面持ちで現れた。
 はじめて彼の姿を見て、ブリシカは心底愕いた。
 子爵は、白に見える金髪に、冴え渡った夏空のような青色の目の持ち主だった。美貌というには程遠い容姿であったけれど、優しげな風貌には親しみが持てた。アトラインの実兄だと言われても、誰も疑いはしなかっただろう。
 もしもアトラインが彼に添うていれば、兄妹のような睦まじい夫婦になっただろうと想像された。
 アトラインを見つめ、彼は苦しげに唇を動かした。
 本当に微かな、音もない短い呟きだった。
 けれど、彼が何と口にしたのか、ブリシカにだけはわかった。
「陛下、妃殿下」
 青年は眩しげにアトラインを見上げた。
 ブリシカは思った。
 彼は、アトラインが王妃となった今でも、彼女の幸福を願っている。
 十年近く前に、彼がアトラインとの婚約の解消をどう思っていたのかはわからない。アトラインの不実を疑っていたかもしれない。あるいは国王の所業に気づいていたかもしれない。それでも父である伯爵に説き伏せられてしまったのかもしれない。
「ご懐妊を心からお喜び申し上げます。どうか、この国に、お健やかな御子を賜りますよう」
 子爵は切なそうにに目を細めた。
「……ありがとう、子爵」
 アトラインは微笑んで答えた。
「この子が生まれたら、奥様とお子様方を連れてきてください。遊び相手になってやってください」
 その言葉に、ブリシカは、アトラインがおのれの初恋と決別したことを知った。
 アトラインは選び取ったのだ。
 子を生み、国母となること。
 国王の傍らに立っていること。
「光栄に存じます、妃殿下」
 ブリシカは、この遣り取りに見入ってしまっていた。
 だから、気づかなかったのだ。そのとき、国王が彼女の隣でどんな表情でいたのかを。










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